夜丹 胡樽 短編集
夜丹 胡樽
さようなら
誰にも届かない想いがあるとして、その思いを秘めたまま終わりを迎えることはありふれているのだろうか。
「やぁやぁ南先生、やっぱりここにいたんだ」
「あっ……木内さん」
と、そんなことを考えてる男の視線の端でスカートが涼風に揺れる。いつものように顔を持ち上げると、これまたいつもの調子で笑う少女が立っていた。
黒のボブカットに見慣れた学校の制服。しかし、そんな髪の内側から見え隠れする可愛らしい校則違反のピアスと、インナーカラーで入った金髪。
全て見慣れた彼女の姿。
ただ、いつも通りの彼女の胸元にはコサージュと、手には卒業証書が入っているであろう丸筒を持っていた。
その姿はまるで冒険に行ってしまう勇者を見ているよう。これまで近くにいたはずの存在が、ずっと遠くの人になってしまったようだった。
卒業生を見ると、男はいつもそう感じてしまう。
「先生は相変わらずジメジメしたところが好きなの?」
「そうですね、人混みは相変わらず苦手です。そんなことより、こんなところで僕なんかに構ってて良いんですか? 卒業式の日まで校舎裏に来る理由はないと思いますけど」
「ははっ、先生らしいね。私はそういうところ嫌いじゃないよ。見かけによらず自分の思ってることをズバズバと言えちゃうところは、先生の長所だよ」
「褒めてます、それ?」
彼女の背後には、まだ蕾の桜の木。これから彼らは新一年生を迎えるために咲き誇るんだろう。
だけど、彼らは少女のためには咲かない。今咲いているのは、昨日まで春の陽気に包まれたことで早めに咲いた白梅の花だけ。
空は今日も青い。
流れる雲の流麗さも、頂点を過ぎて午後を示す太陽の眩さも、彼は今日のことを時々思い出して少しセンチメンタルな気分になるのだろう。
「結局進路はどうしたんですか? 木内さんの口からと言われていたので、誰からも聞かないようにしましたけど」
「あー……第一志望は落ちたけど、滑り止めの私立に一応決まったかな。来週には東京でシティガールになる予定」
「表現が古いですね。無闇に横文字を使えば良いってわけじゃないですよ」
「なるほど……うん、先生のアドバイスはやっぱり参考になる」
「馬鹿にしてますか?」
いや、そんなことはない。そう言いながら彼女は見慣れた動作で胸ポケットからタバコを取り出した。高校生の彼女に似つかわしくない、大人の嗜好品。
それだけが冴えない男と、太陽みたいな彼女を繋ぐ唯一の趣味だった。
「先生は吸わないの」
「……まあ、最後なんで。でも本当に若いうちからタバコなんて吸うもんじゃないですよ?」
「とか言いながら、私がタバコを取り出すの待ってたくせに」
彼女が胸ポケットからタバコを取り出すのに合わせて、男もスラッグのポケットに忍ばせていたマイルドセブンを取り出した。
それに対して少女が取り出したのはラッキーストライク。それは彼女の元彼の好きなバンドのボーカルが吸ってたタバコ。当初抱いていた複雑な気持ちに男が慣れてから随分と経つ。
「あっ、火……」
「ん」
彼女が煙を吐き出しながら、男にライターを投げてくれる。彼はそれをありがたく拝借しながら、タバコに火をつけた。
煙を吸い、そして静かに吐き出す。
口の中に広がる煙たさと、喉を刺激する辛味。最初のうちは何がよかったのか分からなかったけど、今はもうその刺激を求めつつあった。
「この秘密の関係も、もう終わりだね」
「そうですね」
荒んだ男と大人に憧れた少女の、秘密の関係。普段は授業以外での会話なんてしない、この校舎裏でタバコを吸うだけの関係。
バレれば退学と停職というスリルも、今となっては遠い思い出に代わっていた。そうか、もうあれから一年半経っているのか。あの時から彼と少女の関係は何一つ変わっていない。
男が煙を吐き出すと、それを待っていたように彼女は口を開いた。
「先生もさ、東京来てよ」
「何ですか、突然」
「ほら、こんな田舎に来る前は東京の方にいたんでしょ?」
「まあ、貴女が想像してるようなザ・東京みたいな場所ではなかったけど、一応はそうですね」
少女はゆったりとした動作で煙を吐き出す。
「私からすれば、こんな田舎に来たがる意味が分からないや」
「それは……確かにそうかもですね。東京は欲しいものが売ってないことも、暇を潰す場所にも困ることはないですから。でも――」
そこで彼は言葉を詰まらせた。
それ以上は、これ以上は言ってはいけない言葉だったから。この関係を終わらせてしまう、劇薬のような一言を男は寸前のところで飲み込んだ。
紛らわせるように煙を吸い込む。瞳を焼くような副流煙が、今はなんだか頼もしい。
「でも、どうしたの?」
「あ、いや……なんでしょうね。何を言おうとしたか忘れちゃいました」
「なんだそれ」
少女は笑った。高校生に似合わない紫煙は、彼らの他愛もない会話を少しだけ大人にしてくれる。
「ま、無理に来てなんて言わないよ」
「ずるい言い方しますね」
「それは……うん、確かにそうかもしれないね。今のはずるい言い方だったよ」
少女は持参していた携帯灰皿でタバコの火を消す。男もそれに釣られて座っていたコンクリートで火種をすり潰した。
「もう春だね」
「そうですね。先週までの寒さが嘘みたいです」
「確かにそうだね。はぁ……花の女子高生も今日で終わりかぁ」
グッと体を伸ばす彼女に、男は呆れたような声色で言葉を紡ぐ。
「言うほど花ありましたか?」
「あったよ。最初は――って言っても先生はいなかったか。一年生の頃はクラスに馴染めなくて不登校気味だった。でも、二年生の夏に先生に出会えた」
「僕はそれで、年齢不相応の不良の道に引きずり込まれましたよ。こんな爆弾、教師人生で抱えることになるとは思いませんでした」
男の言葉に少女が笑う。
「そりゃ好きな人を自分好みに染めるのは、女の子として当然じゃないかな?」
「……そうですか」
それは何度も聞いたセリフだ。だが、彼女の気持ちに応えられるほどの器量は彼にはなかった。いや、持ち合わせていなかった。
「僕は、貴女の気持ちに応えることは出来ませんよ?」
「でも、明日から私はもう子供じゃなくなるよ」
男は重い体を持ち上げて、彼女を見下ろした。
「それでも、ですよ。僕は結婚をしていて、永遠の愛を誓った奥さんもいる。なので木内さんの好意を受け取ることは出来ないです」
「……そっか、やっぱり勝てないなぁ」
少女はクルリと身を翻す。そのまま歩き出した彼女の背中を、男は見つめることしかできないでいた。
「じゃあ、私行くね」
「はい、そうしてください」
そのまま彼女は振り返ることなく歩き出していった。校舎裏の影から歩みだし、陽のあたる春風の中へ彼女は進んでいった。
「バイバイ、先生」
「はい、さようなら」
日差しの中、男を肩越しに振り返って手を振る少女に男もまた手を振った。
きっと少女は自分を忘れて、また新しい人に恋をするだろう。それは嬉しくもあり、ただ同時に少し寂しさを感じてしまうのは彼の中にあるエゴだ。
ただそのエゴで彼女を縛るわけにはいかない。男は左手に嵌めた嘘の指輪を外し、投げ捨てながらそんなことを考えていた。
「あぁ……もったいないことしたなぁ」
それは気持ちに応えなかったことか、それとも投げ捨てた指輪に対してか。
その答えは男しか知らなかった。
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