P.42 MISSION 42:蛇の巣

February 2nd, 2023

22:00 Local Time

晴れ

Donetsk, Ukraine

ハシフ・ヤール近郊のウクライナ軍トレーニングキャンプ



 俺の頭脳は、もはや俺自身のものではなかった。それは、ペトロフ大将という名のキングを、いかにして盤上から排除するかにのみ最適化された、冷徹な思考機械(コンピューター)へと変貌していた。司令室に三日三晩籠城し、カフェインと、アンドリーがどこからか調達してきたレーションだけを燃料に、俺は衛星写真、地質データ、過去のインテリジェンス、そして、この土地に刻まれた歴史そのものを、情報のるつぼへと投入し続けた。


 そして、導き出した答えは、一つだった。


 「――ソレダールの塩鉱を使います」


 作戦ブリーフィングの席で、俺が壁の巨大な地図に示したのは、地上ではなく、地下の世界だった。ソレダール。かつては、ヨーロッパ最大の岩塩の採掘地として栄えた街。その地下には、総延長三百キロにも及ぶ、巨大な蟻の巣のような坑道が、今も静かに眠っている。


 「ペトロフの前線司令部は、この廃墟となった化学工場の地下に設置されています。地上からの接近は、何重にも張り巡-された地雷原と監視網によって、事実上不可能。ですが、この工場の真下を、古い坑道が通っている。忘れ去られた、闇の道が」


 俺は、作戦の全貌を、感情を排した声で説明した。俺たち精鋭チームが、この地下迷宮を通り、敵の心臓部の真下に出る。それは、誰の目にも狂気の沙汰としか思えない、大胆不敵な計画だった。


 「……正気か、プロフェッサー」アンドリーが、息を飲むのが分かった。「あの塩鉱は、今や、ロシア軍の死体安置所になっていると聞く。それに、大部分は水没し、崩落している。生きては戻れん」


 「だからこそ、道になる」俺は、断言した。「敵もまた、そこが生者の立ち入る場所ではないと、信じ込んでいる。最大の危険こそが、最大の安全だ」


 「案内人は、どうする」ストーンが、静かに問うた。


 「彼です」


 俺が司令室のドアを開けると、そこに、一人の痩せた老人が立っていた。ミコラと名乗った彼は、かつて、その塩鉱で四十年以上働き続けた、元鉱夫だった。彼の顔には、この土地の全ての苦難が、深い皺となって刻み込まれている。


 「……息子と、孫を、ワグネルに殺された」ミコラは、錆びついた声で言った。「ワシに、銃は撃てん。だが、この足と、頭に刻まれた地図なら、貸してやれる。蛇の巣まで、案内してやろう」


 二日後の夜。俺たちは、選りすぐりの六人で、闇に紛れて出発した。俺、クリス、ストーン、ジェスター。そして、アンドリーと、案内人のミコラ。


 ソレダールの塩鉱の入り口は、巨大な怪物の、ぽっかりと開いた口のようだった。中から吹き付けてくる空気は、ひやりと冷たく、そして、濃厚な死の匂いがした。


 「ここから先は、神の光も届かん」


 ミコラは、それだけ言うと、手にした古いランタンの灯りを頼りに、躊躇なく闇の中へと足を踏み入れた。


 坑道の中は、異世界だった。壁も、天井も、床も、全てが岩塩の結晶でできており、俺たちのライトの光を乱反射させ、まるでダイヤモンドでできた洞窟のように、不気味にきらめいている。だが、その美しさとは裏腹に、空気は重く、淀み、時折、腐敗臭が鼻をついた。アンドリーの言った通り、無数のワグネル兵の亡骸が、壁際に打ち捨てられている。


 俺たちは、言葉もなく、ミコラの後を追った。聞こえるのは、塩の結晶を踏みしめる、かすかな足音と、互いの、抑制された呼吸音だけ。無線は、完全に沈黙している。


 数時間、歩き続いただろうか。俺たちは、巨大な空間に出た。かつての採掘場だろう。天井は、教会のドームのように高く、壁には、巨大な採掘機械が、錆びついた骸のように横たわっている。


 「……少し、休む」


 ミコラが、壁に寄りかかり、荒い息をついた。彼の体力は、もう限界に近いのかもしれない。


 俺は、携帯端末を取り出し、内蔵された慣性航法装置と、事前にインプットした地質データを照合し、現在位置を確認する。俺の計算では、あと三百メートルで、目標の真下に到達するはずだ。


 「ミコラさん」俺は、静かに尋ねた。「この先に、地上へ抜ける、古い通気孔は?」


 ミコラは、俺の端末の地図を覗き込むと、震える指で、一点を指し示した。


 「……ある。ワシらが、若い頃、『悪魔の煙突』と呼んでいた、垂直の穴がな。だが、今はもう、瓦礫で……」


 「いや」俺は、地質データを拡大した。「地盤沈下で、奇跡的に、細い隙間が残っている可能性がある」


 俺が、ストーンとアンドリーに説明しようとした、その時だった。


 「……動くな」


 クリスの、氷のような囁きが、俺たちの動きを止めた。彼のHK416の銃口は、俺たちが入ってきた、坑道の闇に向けられている。


 「……誰か、いる」


 全員が、息を殺した。闇の奥から、複数の、微かな足音が聞こえてくる。そして、ロシア語の、低い話し声。


 敵だ。偶然か、それとも、俺たちの侵入が察知されたのか。


 ジェスターが、音もなくグレネードを構える。だが、ストーンが、静かにそれを制した。ここで戦闘になれば、銃声と爆発音で、司令部にこちらの存在を知らせることになる。


 俺の頭脳が、再び回転を始めた。この空間の構造、敵の数、そして、俺たちの目的。


 「……クリス」俺は、囁いた。「天井の、あの岩塩の結晶を撃て」


 俺が指さしたのは、敵がいる坑道の入り口の、真上に位置する、巨大な岩塩の塊だった。


 「……正気か。生き埋めになるぞ」


 「いや。あの結晶だけを落とせば、入り口を塞げる。時間は、稼げる」


 クリスは、数秒、俺の目を見つめたが、やがて、静かに頷いた。彼は、音もなくライフルを構える。


 闇の向こうから、ロシア兵の姿が、ぼんやりと見え始めた。


 「……送る」


 クリスのライフルの、抑えられた発砲音。巨大な岩塩の塊に、正確に撃ち込まれた弾丸が、蜘蛛の巣のような亀裂を走らせる。


 次の瞬間。轟音と共に、数トンはあろうかという塩の塊が、坑道の入り口めがけて、崩落した。ロシア兵たちの、驚愕と絶望の叫び声が、壁の向こう側から、くぐもって聞こえてくる。


 俺たちは、生き埋めになった敵に、一瞥もくれることなく、ミコラが示した「悪魔の煙突」へと、足を速めた。


 古い鉄製の梯子を登りきると、そこには、俺の計算通り、大人が一人、やっと通れるほどの、僅かな隙間が、地上へと続いていた。隙間の向こうから、地上の、凍てついた空気と、そして、ロシア兵たちの、警戒する声が、微かに聞こえてくる。


 蛇の巣は、目と鼻の先だった。


 俺は、クリスを見た。彼の瞳は、もはや、ただの狙撃手のそれではなかった。それは、これから行われる、究極の外科手術を前にした、神の、冷徹な目だった。

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