P.41 MISSION 41:虚ろな勝利
January 20th, 2023
20:00 Local Time
雪
Donetsk, Ukraine
ハシフ・ヤール近郊のウクライナ軍トレーニングキャンプ
肉挽き器がもたらした勝利は、その名が示す通り、挽肉のようにぐずぐずに潰れた、虚ろな代物だった。俺の非情な決断によってワグネルの波状攻撃は頓挫し、バフムートの防衛線はかろうじて維持された。だが、その代償としてアンドリーの部隊が流した血は、チャシウ・ヤールの凍てついた大地を、決して消えることのない暗い染みで汚していた。
拠点である廃工場は、もはや野戦病院というよりも、野戦霊安室と呼ぶ方がふさわしかった。戻らない兵士たちのベッドが、ブラッドのそれのように、ぽっかりと空席のまま残されている。生き残った者たちの間にも、言葉はない。彼らの瞳から光は消え、ただ、砲撃の重低音が響く東の空を、虚ろに見つめるだけだった。俺と彼らの間に、見えない壁が生まれた。それは憎しみや非難ではない。もっと根源的な、駒として使われた者と、駒を動かした者との間に横たわる、決して埋めることのできない深い溝だった。
俺は、司令室に引きこもるようになった。モニターに映し出される無数の情報、数字、座標。その無機質な世界だけが、俺に安らぎを与えてくれた。人間の感情という、不合理で、予測不可能な変数を排除した、純粋な数学の世界。ストーンの言う「計算機」に、俺はなりつつあった。いや、自ら、なることを選んでいた。そうでもしなければ、正気を保てなかった。
クリスは、何も言わなかった。彼はただ、俺が司令室の隅でカップ麺を啜っていると、黙って隣に座り、同じように食事をするだけだった。その静かな共感が、かろうじて俺を、完全な孤独から救い出してくれていた。
そんな重苦しい沈黙が支配する日々の、四日目の夜。司令室のドアが、静かに開いた。アンドリーだった。彼の顔は、数日前よりもさらに痩せこけ、目の下には深い隈が刻まれている。だが、その瞳には、虚無ではない、静かな光が宿っていた。
「プロフェッサー」
彼は、俺の前に立つと、一枚の、くしゃくしゃになった紙を差し出した。それは、この辺りの子供が描いたであろう、拙いタッチの絵だった。戦車を破壊するウクライナ兵が、英雄のように、しかし、どこか悲しげな表情で描かれている。
「部下の一人が、持っていた。彼は、戻らなかった」
アンドリーは、静かに言った。
「あんたを、責めるつもりはない。あの決断がなければ、俺たちは、あの場で全員、挽肉になっていただけだ。あんたは、俺たちを救ってくれた。……だが、俺たちは、魂の一部を、あの塹壕に置いてきた」
「……」
俺は、かける言葉が見つからなかった。
「戦争に、綺麗な勝利などない。それを、俺は、頭では分かっていたつもりだった」アンドリーは、自嘲するように笑った。「だが、本当の意味で理解したのは、今だ。俺たちは、勝利のために、人間であることを、少しずつ捨てていかなければならない。……あんたのように」
その言葉は、ナイフのように、俺の胸に突き刺さった。
その時だった。司令室のメインスクリーンが、緊急の通信を示すシグナルで点滅した。CIAからの、最高レベルの機密情報だった。
ストーンとオレクサンドルが、険しい表情でスクリーンを覗き込む。
「――目標を、特定した」
画面に、恰幅のいい、冷酷な目つきをした軍服姿の男の写真が映し出される。
「ロシア軍、東部軍管区司令官、ヴァレリー・ペトロフ大将。バフムートにおけるワグネルの波状攻撃を、後方から指揮している、この肉挽き器の『設計者』だ。彼が、数日後、前線の士気高揚のため、ソレダール近郊の前線司令部を極秘に視察するとの情報を掴んだ」
司令室の空気が、一変した。虚無と疲労が支配していた空間に、乾いた薪が爆ぜるような、鋭い緊張が走る。
「……蛇の、頭か」ストーンが、低い声で呟いた。
ペトロフ大将を排除できれば、混乱したワグネルの指揮系統は、完全に麻痺する。それは、この地獄のような消耗戦の流れを、大きく変える可能性を秘めた、千載一遇の好機だった。
「だが、司令部は、敵地のど真ん中だ」オレクサンドルが、唸る。「近づくことすら、不可能に近い」
「だからこそ、我々が行く」
ストーンの言葉は、静かだった。だが、その場にいた全員が、その言葉に含まれた、絶対的な覚悟を理解した。
「これは、DEVGRUとアルファ部隊による、合同の外科手術だ。最小限の人数で、蛇の首を狩る」
ストーンの視線が、俺、クリス、ジェスター、そして、アンドリーを捉えた。
「ハヤト、作戦を立てろ。考えうる限り、最も大胆で、最も精密な、完璧な計画を。クリス、お前のスコープが、この作戦の成否を決める。アンドリー、お前の部下の中から、最高の案内人を選べ。この土地の、光も闇も知り尽くした、最高の狐をな」
俺は、自分の指が、キーボードの上で、自然と動き始めていることに気づいた。躊躇も、葛藤も、もはやなかった。俺の頭脳は、再び、冷徹な計算機へと戻っていた。ペトロフ大将という、最重要の駒を、いかにして盤上から消し去るか。ただ、それだけを思考していた。
虚ろな勝利の先に、俺たちは、より危険で、そして、より非情な、次なる一手を見つけてしまったのだ。
壁のカレンダーが、二月を示していた。俺の、最後の奉公の、終わりの始まりだった。
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