第2話 鳥兜

「いたぞ、追え!」


三日月が照らす夜の街。フードを深く被り細い路地を駆け抜ける青年の後を、二人の屈強な男がコートをひるがえしながら影のように迫る。


ランプに入ったうっすらと輝く鉱石が石畳をほんのりと照らしているだけで、頼れるのは月光だけだった。


「それを早く返してもらおうか」

「残念ながら、それは無理なお願いだな」

「いいから、殺してでも奪い取れ!」


金髪の男が苛立ちを込めて罵声ばせいを飛ばすが、青年はまるで聞こえなかったかのように走り続ける。並んで走る黒髪の男が舌打ちをすると懐に手を入れ、素早く何かを取り出した。


それは、銀色の輝きを放った。


実弾が六発込められた


その口が、青年に向けられる。


瞬間、赤い火花がはじけ、乾いた破裂音が路地に響く。銀色の鉛弾が空気を裂いて放たれた。だが、それは青年の体をかすめることすらなく宙を舞う。二発目は狙いを定めて放たれたが、右へと身をひねる。


弾丸は彼の衣服の端をわずかに裂いただけだった。


「くそ! すばしっこい奴め」

「なかなか手洗い挨拶だな。そんなに歓迎されたら、のようにお出迎えするのが礼儀かな?」


青年の手に握られていたのは、だった。刃は水晶のように透き通っており、月明かりを受けて地面に繊細な結晶模様を映し出している。


には細やかな薔薇の装飾が施され、グリップには人差し指を通すためのリングがついていた。


彼は左手の人差し指をそのリングに通すと、ナイフを一度回転させ、しっかりと握り締める。人差し指で遠心力を加えながら徐々に加速させていくと、刃はやがて残像を見せ始めた。


その勢いのまま、青年は右手首へとナイフを押し当てる。鋭利な刃が肉を容易たやすく裂き、赤い血が勢いよく舞う。鮮血は手の甲を滴り、やがて地面へと静かに流れだす。


その血を刃へ垂らすと水晶へ血液が溶け込んでいく。まるで赤い絵の具を水に垂らしたかのようにゆっくりと染まっていく。


「赤い三日月の元、血の恵みにより花は咲き誇る……」

緋色のまばゆい光と共にブラッドカランビットが目を覚ます。

よ応えてくれ。アコナイト、行く手を阻め!』


地面が揺れた。石畳を突き破って生命が芽吹き、男たちと青年の間に分厚い緑の壁が立ちふさがる。紫色のかぶとを思わせる花を咲かせたつたが生い茂り、男たちの足に絡みついて動きを封じた。


「小癪な真似を」


黒髪の男も応じるように、自らのカランビットを抜き放つ。青年のものと同様、水晶のように澄んだ刃だが、その柄には燃え上がる炎が彫り込まれていた。男はその刃を自らの腕に深く突き立てる。瞬間、表情が歪み、額には汗が滲んだ。


穿てうが、炎よ――すべてを焼き尽くせ!」


叫びと同時に、とどろ咆哮ほうこうとともに火柱が天へと昇った。夜を裂くように光が広がり、燃え盛る炎が茨のつるを包む。凄まじい熱気が一帯を覆い、数秒もせぬうちにツタは焼き尽くされ、男たちの足元は再び自由となった。


「時間を稼がれたか……」


炎がとげを呑み尽くすわずかな間に、青年との距離は大きく開いていた。にらみつける男たちの視線を背中に受けながら、青年は走り去りつつも口元に皮肉な笑みを浮かべ、ちらりと肩越しに振り返る。


「さっき咲かせたのはアコナイト――意味はだよ。だからこっちも礼儀正しく応じさせてもらった」

「減らず口を……。さっさと、その品を返せ!」

「返すって、これのことかな?」


青年の右ポケットが不自然に膨らみ、動くたびに金具が擦れ合って澄んだ音を立てる。中には何かいびつな物体が収まっているようだ。


「これはね、元々俺の物なんだよ。返すって発想自体、礼を欠いてる。――それに、君たち、知ってるかい? アコナイト、つまりトリカブトのもう一つの花言葉を」


青年はにやりと唇を歪める。


「――さ」


立ち上る黒煙が、静かに男たちを包み込む。黒髪の男は反射的に口と鼻を押さえたが、金髪の男は煙をまともに吸ってしまった。呼吸は荒くなり、冷や汗が頬を流れ落ち、足取りが急速に鈍る。眩暈めまいと吐き気に襲われ、ついにはその場に倒れ込んだ。


「何をしてやがる、立て!」

「く、苦しい……息が、できない!」

「毒か……面倒なことを」


苦悶する金髪の仲間をあっさりと見捨て、黒髪の男は青年の後を追って走り出す。


「冷たいなあ。仲間なんだろ? トリカブトの毒は強力だ。燃やしたって毒は消えないからしばらくの間めまいや幻覚吐き気を楽しむことになるよ」

「腹立たしい」


男が再びナイフに血を滴らせると、刃が赤く脈打ち、まるで炎が命を得たかのようにゆらめく。その力は闇を押し返し、膨れ上がった。


「焼き尽くせ、骨のずいまで!」


紅蓮の火が爆ぜ、路地裏を包み込む勢いで燃え広がる。閃光と爆風が吹き荒れ、怒れる火炎が青年を飲み込んだ。


「……仕留めたか?」


だが、火が鎮まった先に青年の姿はなかった。焦げ跡さえ残されず、黒焦げになった何かがあった。だが、それはどうも人ではない、何か植物を燃やした後のような。


「これは?」

「霞草だよ。花言葉は。君にぴったりだと思ってね。そして、もう一つ」


青年が何かを投げつける。それは一本の花だった。


「なんだ……?」

「ガーベラさ。を込めて贈るよ」

「くそが、ふざけるな!」


男が怒鳴り返したその瞬間、ガーベラが牙を剥く。葉先が鋭く伸び、男の手の甲を貫いた。手の甲から迸るほとばしる血液、それは男の体を汚した。


「ぐあっ……!」


悲鳴を上げて男が崩れ落ちるのを見届けると、青年はくるりと背を向け、手を振る。


「じゃあ、ここでお別れだ」


青年の言葉とともに、肩に舞い落ちた花弁が刀身の微光に溶けるように消え、やがてその刃も静かに輝きを失った。彼と追跡者の距離は徐々に開いていく。このまま逃げ切れる──そう確信し、身を低くして加速しようとした、まさにその瞬間。


「逃がすと思ったか!」


疾風のような気配が脇をすり抜けた。その直後、氷のように冷たい爪が青年の喉元をかすめ、薄く皮膚を裂いた。


「向日葵、護れ」


青年は即座にナイフを傷口に当て、したたる血を刃に吸わせる。すると、地面を裂いて一筋の蔓がほとばしり、たちまち巨大な向日葵が咲き誇る。


その身をかわして彼を守るかのように立ちはだかり、次の一撃を受けてバラバラに斬り裂かれた。花弁が風に舞い、静かに降り注ぐ。


「ちょこまかと……鬱陶うっとうしい!」


聞き覚えのある声が前方から響く。そこに立っていたのは、先ほど毒に倒れていたはずの金髪の男だった。しかしその容貌は、もはや人のそれではない。


右腕は鋭利な鋏のように変異し、両足は鉤爪を備えた獣のような脚へと姿を変えていた。瞳には血の色が宿り、まるで飢えた捕食者のように青年を見据える。


「驚いた、毒をこらえたのか。ちなみに向日葵の花言葉はだよ。覚えておいて損はない」

「黙れ! さっさとそれを返せ。今なら半殺しで済ませてやる」


鋏が不気味に鳴る。男は一歩一歩じわじわと間合いを詰めながら、まるで獲物を追い詰めるように進み出す。鉤爪かぎづめが石畳を引っかくたび、耳障みみざわりな音が路地裏に響いた。


「早く、返せ……返すんだ……!」


背後からは、先ほど負傷した黒髪をしたもう一人の男のうわ言のような声が聞こえる。手の甲を抑えながらよろよろと近づいてくる。カランビットは血に染まり赤い光を帯びている。その刃の先では、小さな炎が人魂ひとだまのように揺れ、暗闇に不気味な影を浮かび上がらせた。


「それは無理なお願いだよ」


青年が短くそう呟くと、空気が一瞬張り詰めた。


「ならば──力づくで奪うまで!」


対峙するのは、路地裏にぽっかりと開けた小さな空き地。青年は覚悟を込めてナイフを握り締める。今まさに戦いの火蓋が切られようとした、その時——


「全員、その場から動かないこと。そう……氷漬けになりたくなければ、ね」


澄みきった凛とした女性の声が響く。同時に、空からひらひらとが舞い落ちた。季節外れの、静かな雪だった。



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