第11話
廊下の先にエレンの背中を見つけて、ビアトリスはそっと声をかけた。
「エレン様、今お帰り?」
週が明けた火曜日に、エレンは一週間ぶりに学園に姿を現した。
事件のあったあの日から謹慎しているティムズとは別に、エレンはざわつく学園が落ち着くまで静養を理由に休んでいた。
婚約者のこれまで態度と婚約破棄、何よりティムズに大きな声を上げられて、過失とはいえ頬を打たれたことの心身の傷とはどれほど深いものだったろう。
復帰したエレンに、
ビアトリスは彼女らとは一緒にならず、放課後になってようやく声をかけることができた。
「ビアトリス様、お見舞いを頂いていたのに、お礼が遅くなってしまってごめんなさい。それから、ルーファス様にも」
エレンは事件のことには触れずに謝罪した。
エレンと彼女の生家であるオーモンド伯爵家から礼状が届いたのは、彼女が学園に復帰する前日のことだった。
礼状とは、ビアトリスの見舞いに対するものとは別に、ルーファスに対してのものだった。ティムズに頬を打たれて転倒したエレンを保健室に連れていった、そのことへの謝意だった。
礼状は生家のオーモンド伯爵家とエレンからの二通で、本来なら騒動のあったその晩のうちに御礼をすべきが、遅くなったことを詫びる文言がそれぞれの礼状に記されていた。
エレンの心が静まり心身の傷が癒えた後に、自身からも礼状を書きたいと望んだことから、彼女の回復を待っていたという。ティムズとの婚約破棄の話し合いや手続きもあったから、実際はオーモンド伯爵家も大変な状況だったろう。
事件から一週間が過ぎていた。
父はその前に、騒動については紳士クラブで耳にしており、だがルーファスが関わったことは礼状が届くまで知らなかった。
ルーファスがなぜその日のうちに父に報告をしなかったのか、彼らしくないと思いながら、ビアトリスはルーファスに尋ねなかった。弟にも考えがあるのだろうと、そう思っていた。
つい目がいってしまうエレンの頬は、ビアトリスが知るいつもの綺麗な肌で、傷らしいものは見えなかった。頬よりも心の傷のほうがよほど深いだろう。
「ビアトリス様、迎えが来るまでちょっとだけお付き合い頂いても良い?」
「勿論よ、エレン様」
ティムズの不実な行為に対して、勇敢に諭していたエレンだが、本来はどちらかといえば大人しく穏やかな気質の令嬢である。
ティムズにしても、元からそんな彼女を邪険にしてはいなかったように思う。
校舎を出て真っ直ぐ門には向かわずに、庭のほうへ歩くとベンチが見えた。
「あそこに座りません?」
エレンがそう言って、二人は庭園を眺める位置にあるベンチに並んで座った。
「ルーファス様が」
「弟が?」
エレンは、紅葉の始まった庭木を見つめながら、ルーファスの名を出した。
「君は何も悪くないと」
「⋯⋯」
「あの時、私を抱えて下さったときに、そう仰って」
「エレン様⋯⋯」
「それで私、救われたの。ああ、私、何も悪くなかったんだわって」
ビアトリスはそこで、制服のポケットからハンカチを出してエレンに差し出した。
「ありがとう。ビアトリス様」
エレンはハンカチを受け取ったが、涙を拭うことはしなかった。秋風が頬を撫でるのに任せて、涙をそのままにした。
十分すぎるほど泣き濡れて、もう泣くまいと心に決めたように涙をなかったことにした。
「貴女がもしも何かを決めるときが来たなら、微力ですけれどお力になりたいわ」
それはきっと、ウォレスとの婚約についてを言っているのだろう。
ビアトリスにしてみれば、寧ろウォレスのほうがティムズに悪影響を及ぼしたようにも思えたが、それもこれも彼に抗議することをしなかったビアトリスにも幾分かは責任があるだろう。
「実は、父が動くことになりました」
「え?ビアトリス様、それって」
「ええ。今日がウォレス様のお家と話し合いの日で、今頃はもう終わっていると思います」
エレンは驚いた顔をした。涙もそこで引っ込んでしまった。
「それは、私の所為?」
「いいえ、そんなことではないのです。確かにきっかけの一つとはなりましたが、ウォレス様のことはこのままにしても上手くはいかないものでしたから」
「貴女はそれで納得なさっているの?」
「ええ。すっきりですわ」
「すっきり?」
エレンは困惑が混じる表情をした。
「雨雲をかき分けて太陽が現れ天から日射しが降り注ぐ、それくらいには爽快
「なんだか清々しい光景ですわね」
「ええ、相当」
ビアトリスも物言いが可笑しかったのか、表情が可笑しみを誘ったのか、エレンはそこで吹き出した。
「ふふ、ビアトリス様のお心の通りになれば良いわね」
エレンの言葉に、ビアトリスもそうなれば良いと思ったし、そうなるものだと思っていた。
ティムズの引き起こした騒動に加えてウォレスの不誠実な行為は、過去の叔母を思い起こさせ父の鈍感はようやく目覚めた。
ビアトリスの不遇な婚約期間は、確実に終焉を迎えるだろう。
だからエレンと肩を並べて秋の空を眺めながら、ああ白い雲が流れていく、ビアトリスはそんな呑気なことを考えていた。
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