加賀・一

「親父、帰ろう」


 一日の業務が終わり、院内の片付けも全て済んでスタッフが全員退勤した院内。そこで俺は、親父にそう声を掛けた。


「ああ」


 こうして親父が短く返事をするのも、もう三度目だ。それでも親父は白衣を脱がず、ぼんやりと診察室の椅子に座っている。親父はスリットランプに向かって座ったままだったから、診察室の後ろ側のカーテンを開けた俺には親父の背中しか見えなかった。


 今日も忙しかった。早く帰って、まずは風呂に入りたい。だが親父はいつも俺が運転する車で通勤しているので、置いて帰るわけにもいかなかった。別に親父がタクシーを拾えばいいだけの話だが、せっかく俺がいるのだから一緒に帰ればいい。


 パソコンの電源も落とされた診察室は、俺がカーテンを開けていなければ真っ暗だ。そんなところでずっと座って、親父は何を考えているのか。


 まさか、認知症?


 そんな不安がよぎった。毎日医師として問題なく働いているようでも、初期症状が出ているという可能性もある。


「ほら親父、立って。帰ろう」


 そう言いながら触った親父の肩は、俺が想像していたよりも細かった。

 子供の頃から、眼科医として働く親父の背中を見てきた。それはとても大きくて頼りがいがあり、格好よく見えたものだ。そんな親父に憧れて、俺は眼科医を目指した。

 だがそんな親父も、老いからは逃れられない。たくましく思えた肩は細くなり、俺が健康状態について心配するような年齢になった。そんな当然の事実に、しみじみとする。


「なあ、玄士くろし


 親父がぽつりと呟いた。小さな声だったが、言葉の響きは明瞭だ。


「ん?」

「父さんの眼、診てくれないか」


 きい、と親父が座っていた椅子の金具が軋む。

 椅子を回転させて、親父は俺に振り向いた。気の抜けた表情で、親父が俺を見る。俺が憧れていた『やる気に満ちた眼科医』の姿はそこにはなく、『老いた父』が座っていた。


「父さんな、見えて仕方ないんだ」


 親父のそんな言葉に、俺はどきりとした。

 親父に何が見えているのか、俺はもちろん知っている。


 黒い人影――いや、それ以上のものに違いない。


 吉山のところからの患者を診ているうちに、俺にも黒いものは見えるようになった。そしてそれは人の形を成して、今ではクリーム色がかったセーラー服を着たショートカットの少女ということまで分かる。あどけない顔の少女は姿がよく見えるようになると、今度は俺との距離を詰めてきた。今では俺の真ん前に陣取り、大きな瞳で俺をじいっと見てくる。


「見えますか。本当に綺麗に見えますか」


 そんな問いを呟き続けながら。


「なあ玄士、父さん見えるんだよ」

「親父、気のせいだ。気にするな」


 何が見えるかなど、聞かなくても分かる。


「見えるんだよ玄士」


 突如、親父が立ち上がった。思ってもいなかった強い力で、俺の両腕を掴んでくる。まさか親父がそんなことをするとは予測していなかったので、俺はそのまま診察室の後ろにある通路へと押し出された。金属製の低い棚に腰を打ちつけて、鈍い痛みがはしる。棚にぶつかった衝撃で、上に載っていた物が崩れて、床にばらまかれた器具たちが硬質な音を立てる。


 それでも親父は、俺を強く押し続けた。俺を棚の上に押し倒そうとでもするかのようなそれに、必死で抵抗する。


「短い髪の女の子なんだよ」


 はっきりとした声で、訴えてくる親父。


「白っぽいセーラー服の女の子で、ずっと父さんに『見えますか』って訊いてくるんだよ」

「親父、気のせいだから!」


 親父の様子に本能で恐怖を覚えて、俺はつい親父を強く突き飛ばしてしまった。


 俺を押していた力からは想像できないほど、親父はあっさりと突き飛ばされ、廊下に倒れ込んだ。呻き声を上げながら、親父が起き上がろうとする。その姿は、どう見てもか弱い老人にしか見えなかった。反射的とはいえ、老齢の親に手を出してしまった。罪悪感に駆られた俺はすぐ親父に近寄り、そばにしゃがんだ。


「ごめん、親父。怪我してないか?」


 だが。


「……見えるんだ」


 体を支える痩せた腕をがくがくと震わせながら、親父はまだそう呟いていた。


「見えるんだよお、玄士。セーラー服の女の子が父さんの眼を取ろうとしてくるんだ」

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