吉山・七
どんなに異常がないと伝えたところで、実際に見えているのだから気休めにもならない。そんなこと、誰よりも私が知っている。
少しでも光源があり、視界が確保されてしまえば、この黒い人影は必ず見えてしまうのだから。
その証拠に、森田の視線はいまだに私を越えた先、診察室の天井に向けられていた。
パソコンのディスプレイが発するわずかな灯り。それだけでも、なんの飾り気もない真っ白な診察室の壁を見ればあの黒い人影は見えてしまう。
黒い人影や少女の声を消し去る方法はただひとつ、眼を閉じることだけだ。しかし森田が欲している解決策は、そんなことではない。だが私は、解決策を彼女に示せない。
そうであるから、私は森田に「そんなものはいないよ」と言い続けるしかできなかった。
「吉山先生、本当なんです。絶対いるんです!」
私に両肩を掴まれたまま、森田が泣き喚くような声を上げる。
そのとき、ノックが響いた。
開いたドアから顔を覗かせたのは権藤だ。ドアの隙間から、検査室の眩しいほどの光が差し込む。最近光を避けるように暮らしていた私だったが、今このときは差し込んだ光に安堵感を覚えた。
「二人とも大丈夫ですか?」
そんな言葉を、権藤は口にした。
診察室のドアは大して厚みがあるわけではない。森田の叫び声と、つられて大きくなってしまった私の声が、部屋の外に聞こえてしまったようだ。
基本的にスタッフたちは、診察中に入室してくることはない。しかし権藤は二人分の大声が聞こえるという異常事態から、気を使って様子を見にきてくれたのだろう。
「とにかく」
森田の肩から、私はそっと手を離した。権藤登場の効果もあってか、森田はおとなしい。
「森田、きみ今日はもう帰って休みなさい。たぶん疲労が溜まってるんだよ。具合が悪いようなら、明日も休んでいいから」
「でも……」
証言を信じてもらえない森田がぐずる。それを遮って、私は権藤に話を振った。
「権藤、森田が休んでも構わないな?」
「はい。今日明日のシフト的には問題ありません」
検査室のシフトに関しては、権藤に一任している。彼がそう言うからには、なんの問題もない。
「先生、本当なんです。見えるんですよ」
椅子に座って脱力したまま、森田はまだそう呟いていた。
知っている。
私だって、嫌になるくらい知っている。
知ってはいるが、私がしてやれることはなにもないのだ。
「そんなに言うなら、加賀のところに行くか?」
ついにひっくひっくと泣き出した森田に、なるべく優しく声をかける。うちでは検査できない項目も、設備が充実している加賀病院ならば対応可能だ。なにより森田は加賀の大ファンだから、彼に会いに行けるとなれば小躍りして向かうはずだ。
そう思ったのだが。
「……いいえ、大丈夫です。帰ります」
私の予想に反して、森田はそう呟いた。いつも顔を合わせている私に信じてもらえなかった話を、大好きな加賀に話すのは気が引けたのかもしれない。
「森田、おいで」
権藤の体格に似合わぬ柔らかい呼び声に、森田がよろよろと立つ。診察前よりやつれたような横顔の森田は、権藤に連れられてとぼとぼと診察室を出ていった。
権藤の手によって診察室のドアが閉められ、暗闇と静寂が戻ってくる。
ひとりになった診察室で、私は大きなため息をついた。そのまま椅子に倒れ込むように腰かける。机上で開きっぱなしになっていた森田のカルテを閉じ、脇に寄せた。まだ書きかけだったが、今は森田のカルテを見たくない。
私がカルテを完成させなければ、受付で会計ができない。だが患者は森田だ。なにも急いで今日中に診察代を回収しなくとも、とんずらするような相手ではない。
それに、私がしているのは本当に診察なのだろうか。
自分のおこないに、疑問が残って仕方なかった。
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