吉山・六
「飛蚊症じゃないのか?」
デスクライトの灯りの中でカルテを書きながら、そう言葉を放つ。森田のような患者に、何度こうして同じ言葉を投げかけたことか。
当たり前だが、森田は納得しなかった。
「いえ、飛蚊症なんかじゃないです。もちろんカラコンのせいでもないです。眼鏡に変えても見えるんです」
森田の必死の訴えは、私も理解できる。私にもそれが見えていて、どうしようもないのだから。
だがそれを彼女に話したところで、なんの解決策にもならない。いや、もしかしたら元来明るい性格の彼女であれば、「吉山先生が変な怪談話でからかう」なんて笑いだすだろうか。
そんなうっすらとした希望を妄想する私のそばで、森田が言葉を続ける。
「見えるんです。黒い人影が」
はっきりと、彼女はそう口にした。
森田の宣言が、私のボールペンを走らせる手を止める。
もやではなく、人影なのか。
森田、きみにはそこまで見えてしまっているのか。
森田にゆっくりと視線を向ける。
暗い診察室。
デスクライトの灯りにぼんやりと浮かび上がる彼女は、両手で耳を塞いでいた。まるで側頭部ごと耳を引き千切ろうとするかのように、その細い手にぎゅっと力を込めているのが見てわかる。
「先生、間違いなく見えるんです。ショートカットの人です。それがいつでもどこでもあたしの視界の中にずっとずっといて、向こうが透けて見えるけど、確かに黒い人影で、ショートカットで。それが朝起きてから夜寝るまで、ずーっとあたしの前に」
怯えを満面に浮かべ、森田が一気にまくしたてる。
「森田、落ち着いて」
「見えるだけじゃないんです。聞こえるんです。女の子の声で、『見えますか、本当に綺麗に見えますか』って!」
森田の手が這うようにじわじわと上に移動して、綺麗にまとめられていた茶髪をかき乱す。いつもポニーテールにしていた髪がめちゃくちゃになってしまった。だが森田が身なりを気にするそぶりは欠片もない。
黒いもやが人影に見え始めたとか、少女の声がするとか、私は森田どころか誰にも言っていない。
いやそれより。
少女が耳元でなにを訴えているのか、私は知らなかった。
同じ異変に悩まされていると思っていた森田に、なにが起きているのか。
「あの子、あたしの耳元でずっと『見えますか』って一日中訊いてくるんです。黒い人影が見えてる間。ずっと、ずーっとあたしにそう訊いてくるんです」
森田の大きく見開いた目は、正面へと向けられていた。だがそれは私を見ていない。微妙に焦点が合わない視線が突き刺さっているのは、おそらく黒い人影だ。
デスクライトの灯りがあるから、私と同じように森田にも見えてしまっているはずなのだ。
「最初はなにか見えるなってくらいで、でもそのうちどんどん黒いもやみたいになって、輪郭も色も濃くなって、はっきり人の形になってきて。そしたら声もだんだん大きくなってきて。『見えますか、本当に綺麗に見えますか』って!」
言うなり、森田は勢いよく立ち上がった。思わず私も体をびくりと震わせてしまう。
「絶対いるんです! だってあたしには見えてるし、ちゃんと聞こえてる!」
天井を見るようにしながら、森田が叫ぶ。
「今だっているんですよ! ねえ先生、あたしの前にいるの! ほら!」
森田が天井の方を指しているが、私はそちらを見る気になれなかった。ただでさえデスクランプがついていて視界が確保されているのに、こんな状態で白い天井なんて見たら黒い人影が余計に目立ってしまう。
「落ち着け森田! いないから!」
私はデスクランプを消し、立ち上がった。
パソコンのディスプレイが放つほのかな灯りだけになった室内で、森田の両肩を掴んで強引に座らせる。いくら四十を過ぎた運動習慣のない私でも、一応男だ。女性の森田に力で負けはしなかった。
「ほら、もう見えないだろ!」
まるで理不尽に子供を叱りつける親のように、森田に強く言ってしまう。
「でも先生」
森田は森田で、納得のいかない子供のような顔をしていた。
「気のせいだ。なんでもない。森田、きみの眼は正常だよ。たしかにドライアイの傷が少しあるが、それだけだ。他にはなにもない」
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