第13話:二人きりのプライベートな上映会

 オフィスからの帰り道、アスファルトを蹴る足取りは、どこかふわふわとして、覚束なかった。

 ──最後の拓也さんの顔、すごかったな……。なんか、こっちまでドキドキしちゃうくらい……。

 自分の言葉が人の心を強く揺さぶるのを、目の当たりにして、軽い動揺を覚えていた。

 人は夢を語る時、あんなに幸せそうな顔になるんだ、と。

 自室に戻った典子は、まずlilyとして、依頼主のモンローに短いメッセージを送った。


<lily>

>被験体は、より深い階層へのアクセスを許可しました。

>次のフェーズに移行します。指定の日時に、「急に帰宅できなくなった」と伝えて、被験体を自宅で一人にさせること。

>理由は問いません。できなければ、この実験は中止します。


 こうすれば、彼は典子を妻と二人で接待するつもりで、うっかり二人きりの時間を過ごすことになる。

 強気のメッセージに、すぐ「承知しました」という返信が来た。舞台準備はあっさり整った。

 約束の日の夕方、典子は拓也の自宅マンションの前に立っていた。

「こんばんは。さっき連絡があったんだ。妻は少し遅くなるけれど、もうすぐ帰ってくるそうだ。悪いけど、外で少し待つことにしないかい?」

 予定通り、モンローは、うまく二人きりの時間を作ろうとしている。しかし、ターゲットの拓也は、常識的な対応として、自宅に二十歳の女子大生と二人きりになるのは、まずいと判断したようだった。

「あの、気遣ってくださるのは嬉しいですけど、奥様が戻ってくるまで少しだけですよねぇ? だったら大丈夫です。それより、ぜひ先生の作品を拝見させてくださいっ。……も、もう! あたし、待ちきれないんですよぉ!」

 論理的な交渉の場でない場合、強引に行く時は、強引に行くべきだと彼女は知っている。そうすると、対象の中にある無意識の願望は、それを言い訳に、要望を受け入れてしまう。

 彼の無意識な願望というのは、若い女子が、自分の作家性に強い関心を持ってくれていることへの喜びだ。

「それなら、こちらへ来てくれるかい?」

 拓也は、まるで秘密基地に仲間を招き入れた少年のように、少しの緊張と喜悦の入り混じった顔で、典子をソファに促した。

 通されたリビングは、お洒落な家具が揃っているものの、どこか雑然として生活感に乏しい。モンローの言うように、夫婦関係はすでに薄いのだろう。

「飲み物のご希望は? コーヒー、お茶、お水?」

「あ、はい。こーちゃってありますか?」

 自分より年長の男性には、遠慮しないこと──。『キャラ別・恋愛成就メモ』の一節にあったことを忠実に実行した。

 二人きりのプライベートな上映会が始まった。

 テレビ画面に映し出されるのは、彼が仕事とは全く関係なく撮りためてきた、個人的な映像作品の数々だった。

 風景、猫、見知らぬ人々──。

 そこには、商業監督としての彼とは違う、繊細で少しだけ臆病な、剥き出しの感性が記録されていた。

 典子は、すっかりその世界に引き込まれていた。

 ──やばい、何でもない映像なのに、凝ったこともないのに、なぜこんなに目を惹きつけるんだろう。

 小野寺拓也がここ数年に撮った作品には、強い個性があった。

 それは若い頃の作品と違って安定感があるものの、繊細さを前に出すことなく、端々に偶然映ったような建築物の看板や、小物がとても印象的に見えるものだった。

 何か言葉にならない言葉があるような不思議な映像だった。彼はきっと、日常に潜む物語の豊かさをそこに見出しているのだろう。

「先生……。短い広告映像や、ドラマの予告映像みたいな……見た人の心を、ぎゅって掴む力があります」

「妻は、僕の作品に興味がなくてね。君みたいに関心のある人に見られて嬉しいよ」

 そういった時の拓也の顔は、オフィスでは見られないほど、明るかった。

 そして彼は、最後のファイルを開いた。

「……これは、一番最近撮ったものなんだ」

 画面に映し出されたのは、柔らかな光に満ちた映像だった。

 海辺のコテージ。白いカーテンが風に揺れている。

 そこに彼の妻が、ゆったりとしたワンピース姿で立っていた。

 その表情は、穏やかで、幸せに満ちている。

 ──なんだ。仲、いいんじゃない……。

 典子がそう思いかけた、次の瞬間だった。

 彼の妻が慈しむように、自分のお腹をそっと撫でた。

 緩やかなワンピースのラインの下に、新しい命が宿っていることが、はっきりと見て取れた。

 ──うそ。

 典子の思考が、停止する。

 ──にんしん……してる……?

 モンローからのメッセージには、そんなこと、一言も書かれていなかった。

 プルルル、プルルル……。

 拓也が机の上に置いていたスマートフォンから着信音が鳴り響く。

「……悪い、妻からだ」

 拓也が、スピーカーモードで通話を始めた。

「どうした? もう学生さん、うちにいるよ」

『拓也? ごめん、急な仕事でトラブルになっちゃって。今夜も帰れそうにない』

「……そうか。分かった」

『本当にごめんね? 明日の朝には戻るから。じゃあ、また』

 通話は切れた。

 ──予定通りの、計画通りの、茶番だ。

 典子は、モンローがlilyとの約束を守ったことをここに確認した。

 彼女の視線はテレビ画面に映る、幸せそうな妊婦の姿に釘付けになっていた。

 知りたくなかった。こんなこと、知ってしまったら、もう、ただの「実験」ではいられない。

「奥さん、『今夜も』って言ってましたけど、こんなこと、よくあるんですか?」

「一年ぐらい前からかな。妻は、講師の仕事が流れに乗ってるんだ」

 彼は壁に飾られた、ポスターを指差した。

 少し前からメディアでもよく見かけるようになった有名女性講師の顔だった。

「妊娠してるから、仕事は減ると思っていたが、仕事の急な打診が増えているみたいだ。出産後は、もっと活躍するだろうね。それは嬉しいんだけど、無理をさせているんじゃないかと思って、複雑な気持ちだね」

 もうすぐ父親になるはずの、男の惚気のような言葉。しかし、それは幸せそうな声色ではなかった。

「作品はここまで。楽しかったよ、ありがとう。……そろそろ外も暗くなってきたし、見送るよ」

 彼がそう言って、典子が飲んでいた紅茶のティーカップを手に取ろうとする。

 典子はその手に自分の柔らかな手をそっと重ねた。

「奥さんがいらっしゃらないなら……暗くなっても気にすること、何もないんじゃないですか?」

 そう言われて拓也が、その目を彼女に向ける。

 典子は、微笑み返した。

「あたし……先生のこと、もっと知りたいです。先生が作るものだけじゃなくて……先生の……男の人の、中身」

 そう言って、メガネを机の上に置いた。

 そして、彼の目を見ながら、腕にその手を伸ばし、顔へ、顔を寄せていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る