サージス
とまそぼろ
浜村葦考 一
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潮騒は字に依らず、それほど騒がしくはなかった。
波が立てる清かな水音と吹き込む風はこの上なく心地が良くて、僕の欠けているところに余すことなく流れ込んできた。涙の塩っぱさで存在を保っていた余白は、ひとしお塩辛い海水が押し流して、成り代わってくれた。14回目の初夏にして、初めて心安らかに海を眺めた所感がこれだった。
波がうねる。海藻はうねりの奥で楽しそうに揺らめいていて、今もその波を楽しんでいるのに、遠くのほうから絶えずやってくる波を贅沢にも心待ちにしていた。
ああ、怠惰だ。けれど、すごく平穏だ。その生き様が、どうしようもないほどにそう感じ、僕は自然と、名前も知らない海藻に自己を近づけたくなっていた。
するとそうしているうちに、砂をかき分けて小さなカニが手の甲へと乗ってきた。これもまた名前を知らないけれど、今度はその前へ進むことのできない様が、烏滸がましくも僕によく似ていて、少しばかり心が落ち込んだ。擽ったいから払い除けて、もう少し波のうねりが見えるように、波打ち際に近づいた。
うねりを見るために近づいたが、波打ち際を散策してみるとこれが存外楽しくて、そちらに気を取られてしまっていた。
年季の入った流木と、
手の届く星々。天の川の一部を気兼ねなく持って帰ってもいいなんて、夢みたいだ。
この海浜公園は広い。砂浜よりも足を取られない波打ち際はどこまでも続いていて、日が暮れるまでに端まで着くかも分からないほどだった。
便宜上の海の果て、水平線のほうに進むほうが、些か早く端まで着けるのではないか。今すぐでも飛び込んで、水平線に触れられれば、誰か僕を褒めてくれるだろうか。だって、誰も触れたことがないだろう。前代未聞のできごとだ、そこまですれば、僕は人より評価されるに違いない。
夢物語だってことは分かってる。でも、誰かが容易にこなせることを自慢げにできたとひけらかしたって誰も評価してくれやしない。誰もできないことをして初めて、人は評価されるのだから。
そう考えるうち、次第に潮騒を煩わしく感じてきた。けれど、家にこんなに早く帰れば父親が心配する。まだ帰ることのできない以上、ここで時間を潰すしかないのだからそれは勿体ない。せめてこの時間を楽しまなければ、学業を放棄している意味がない。
今同じ時間を違うように過ごしている彼彼女らと違う場所にいるのなら、何かを学ばないと、日々積み重ねる距離はいずれあの水平線よりも遠く延びて、息が切れるまで泳いでも届かなくなってしまう。それが怖いから、方向は違えど僕も走り続けないといけない。
同じ丸い星の上を走っているのだから、明明後日を向いて走ってもいずれは一点で巡り会う。形は違えど余りある評価という栄光で巡り会うのだから、だから僕も走り続けていないといけない。置いていかれないために。出し抜くために。でも、走れるのか、僕は。
波打ち際から少し離れて、砂浜に座り込んだ。さっきとは違うカニが砂の奥からのそのそと這い出てきていて、波のほうへと姿を消した。前へ進めなくても、横にしか進めなくても、目的地に辿りつければそれでいいのかもしれない。このカニのように、前への進み方を知らない僕にだって、目的地を目指す権利はある。そこまで考えたところで少し満足してしまい、そのまま後ろへと倒れ込んだ。
今日は雲が多かった。梅雨を過ぎたばかりであるからか、厚い雨雲が幾つかの塊でのんびりと浮かんでいる。
その隙間を縫うようにして差し込む太陽の光……ヤコブの梯子、という言い方もあったと思う。ヤコブは確か〝人を出し抜く者〟という意味をもった人名だ。その人が架けた梯子なのだから、あれを伝って空の彼方を目指せば、誰よりも評価されるだろうか。
……海の果てに憧れたり、空の彼方を夢見たり、僕はどこまでも図々しい。大した努力もしないくせに高望みするだけ高望みして、人より評価されないと気が済まない。どこまでも自分勝手だ。スケールを上げて大層なことを言いたいだけじゃなくて、全てが本音だから尚のこと質が悪い。
それにしても静かだった。夏はもう訪れたというのに、だだっ広い海浜公園は閑としている。僕がこの閑に耐えかねて少しでも叫ぼうものなら、海の匂いに反響して、そのうちそれは海水に溶けて、静寂だけが残り香のように留まり続けるのだろう。時折差すヤコブの梯子がその静寂をじわりと焼いて、僕は自然に混ざり込む。眼前を飾る広大な自然に、少しだけ馴染める気がする。
背に当たる砂々は温かくて、僕は起き上がった後の惨事を気にする暇もないほどに、堂々と寝転んでしまっていた。
「……暇だなあ」
口から零れてしまった。この場所で暇を潰すものは、もう十二分に楽しんでしまったから。
学校指定のカバンから携帯を取り出す。学校に行く気がないのに指定のカバンを使っている理由は、大変持ち心地がいいからだ。マチも広く、底も深い。あと軽い。そしていつでも学校に行けるように、とも思っているから、カバンの中のほとんどのスペースは教材で埋められている。
顔を覗かせた数学の教科書に唾を吐きたい気持ちを我慢して、カバンを閉じる。目的は携帯だから。
適当な動画アプリを開いて、適当な動画を探す。ここで言う適当とは、いいかげんという意味。せいぜいただの時間潰しで、やはり僕は何かから教養を得るということがとことん嫌いなのだなと呆れた。
ハナから学ぶ気がないのなら、何をしたって意味がない。やはり物を学ぶ際には、物を学ぼうとする才が必要なのだ。集中力、真摯さ、身につく喜び。僕にはどれもが欠けている。学ぶことに向いていないのだと決めつけてはいけないが、少なくとも向いている気はしない。
延々とスクロールを繰り返し、少しでも興味が湧きそうな動画を探し続ける。
キャンプの動画、世界を震撼させた事件の解説、ゲーム実況、猫カフェのレポ。どれも今見たい気分ではなくて微かに気落ちした。
何十回めかのスクロール。そのいちばん上に出てきた動画。
「……なにこの尺。映画かな」
それは120分もあった。ストリーマーのアーカイブでしか見ないような長尺の動画。個人制作の映画だろうか。もしくは、どこかの劇場で放映されたものの無断転載? 気を引かれたので、その疑問を解くべくタップした。
暫くは、黒い画面だけが映り続けた。クエスチョンマークを浮かべた僕の姿がひとつ、そこにあるだけだった。
……と、画面は急に眩しい光に包まれる。海だ。夏だろうか。高い日差しが海に照り、乱反射した光の束に網膜が焼けてしまいそうだ。そこで少しモザイクが掛かる。そして、タイトルが浮かび上がってきた。
「……『
どこか惹かれたその映画。僕は何気なく見たソレを、生涯忘れられないようになる。
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