第4話 ウィルヘルム 婚約する

 道場の真ん中で向かい合ったウィルヘルムとガーネルトム。フィリームズが立会人として間に立つ。

 フィリームズは老人をこのように扱って良いのかという疑問は抱えていたが、それよりも腹が立っていたので考えないようにした。この老人が負けたとしても、今更、道場の名は落ちない。それに実力を見せてくれたのならば、それはそれで結構である。


「始め!」


 何の躊躇もなく開始の合図をする。

 勝負は一瞬で決まると思っていたが、二人は向かい合ったまま動かなかった。なぜならウィルヘルムは攻める気がなかったし、ガーネルトムはウィルヘルムの気配に困惑していたからだ。

 どんな人間、どんな動物でも、魔物でも死者でさえも、武器を持ち、向かい合えば殺気を発する。それは息遣いであり、力の鼓動だ。ガーネルトムには、他の魔人デーモンよりも気配や感情を読み取る力があった。その力で、女だてらに戦士を名乗っていられるのだ。

 では、この目の前の老人の気配は、どのようなものであるのか。


(岩? どうなっている、この老人は……)


 だ。

 何も感じないのであれば、何の反応もしようがない。ウィルヘルムの構えには一部の隙もないが、それでいて隙だらけのように見える。得体のしれない相手に、ガーネルトムは攻めることができなかった。


「来ないのか? では、こちらから行くぞ」


 老人は声を出すが、それでも気配に揺らぎはない。ガーネルトムは警戒して動けない。

 この様子を見て、ギリムは驚愕していた。老人の使っている技は、見たことがある。あれは魔人が生まれつき持つ魔法の加護の力と同等のものだ。気配を断ち、姿を消す術。神より与えられた魔法である。恒人メネルにも、加護を持つ者はいるが、魔人のように全員が強力な加護を持っているわけではない。

 魔法の力によって気配を消しているのではないことは、ギリムにはわかった。この老人は、おそらくは鍛錬により、それと同等の力を会得したのだ。


「ベルン……、ウィルヘルム・フォン・ベルンか⁉ ガナー、下がれ!」


 ガーネルトムはその声に反応したわけではない。集中していて、聞こえていなかった。

 目の前の老人が少し足を動かし、一歩前に出ようとした。それに反応して、彼女は猫の如く、後ろに跳んだ。

 跳んだとき、僅かに宙に浮く。その刹那をウィルヘルムは待っていた。

 ガーネルトムは着地した瞬間、その首筋に固い木の感触を感じた。目の前には老人が立っており、自分の手には剣の感触がない。

 舞い上がったガーネルトムの木剣が、石の床に落ちて、良く響く音を立てる。何が起こったのか認識するまでに時間がかかった。


「そ……それまで!」


 フィリームズは優秀だった。皆、口を開け、事態を飲み込むのに時間がかかっている中、彼だけは立会人としての責務を全うした。

 ガーネルトムは剣を取り落としており、その首筋にウィルヘルムの持つ木剣の刃が当てられている。これ以上ない、完全な敗北である。ガーネルトムは自分が負けたことを認識することに時間がかかった。

 ガーネルトムから離れ、ウィルヘルムは剣を収める動作をする。


「ありがとうございました」


 それだけ言うと勝利の余韻に浸ることなく、レイリアルの元に戻る。


「見たか? 何をしたのかわかるか」


 ウィルヘルムが話しかけてくるので、レイリアルは我に返って何度も頷いた。


「相手が後ろに跳んだ瞬間、一気に間合いを詰めた。あの歩行は……」


 フィリームズには、ウィルヘルムの動きを見切ることができなかった。隣で聞いていた彼は、レイリアルがウィルヘルムの動きを見ることができたことに、驚くとともに歯噛みする思いである。


「さすが、良く見ておるの。だが、技術的なものではなく、もっと心理的なものじゃ。今のわしとお前は同じくらいの目線じゃな。体格の良い相手からは、見下される程度の背の高さじゃ」


「油断するということ?」


「うむ。そういうこともある。だが、歴戦の勇士に油断はないと思った方が良い。だから、その逆を突くのじゃ。お前さんがリディナーの部下の騎士を打ち負かしたとき、お前さんは相手を殺したいとか勝ちたいとか、考えたか?」


 レイリアルはそう問われて、改めて考えた。


「いいえ。剣を持った瞬間から、心が静かになった。相手の動きと、自分の動きの結果だけが、頭に浮かんできた……かな」


「素晴らしい。良く覚えておられたのう。わしはそれを再現した。もし、弱いと思っていた相手が、明鏡止水の境地で向かい合ってきたらどうするか。警戒して、手は出せなくなる。油断ではなく、得体のしれない相手への警戒が、動揺を誘う。わしはその動揺に付け込み、行動を操り、隙を突いたわけじゃな。偶然にも、レイはそれを騎士に対してやったというわけじゃ」


 話を聞いていた門下生たちも理屈は理解できたが、そんなことが実現可能かというと、夢物語のようなものだ。つまり、闘争心を消し、戦うために向かい合ってなお、自分の放つ殺気を消すのだ。しかもそれは、それを理解できる相当な実力の相手にしか効果はない。

 皆が黙りこくってしまうと、道場は奇妙な静けさが流れた。絶句だ。

 小さな老人は、今でも小さな老人であるが、新地流の開祖であることは最早、疑いようがなかった。

 ウィルヘルムが手を叩く。


「さて、は終わり! 昼休憩してから、基本の型を洗い直すぞ」


「はい! ベルン先生!」


 門下生が一斉に答えると、ウィルヘルムは片眉を上げた。


「やれやれ、素直になったもんじゃ」


 一つに纏まった道場であるが、納得のいかないのは敗北したガーネルトムである。一太刀も振るわずに、訳の分からぬうちに負けたのだ。魔人デーモン族の中では、負けることは死を意味する。だが、ガーネルトムは未だ生きていた。ならば、まだ負けてはいない。


「今のは……稽古だ。まだ、私は生きているぞ!」


 ギリムはしまったと思った。呆然としているのではなく、ガーネルトムが我に返る前に、さっさと撤退するべきだった。ガーネルトムは自らの愛刀をギリムから奪い取ると、力強く引き抜いた。闇夜に溶け込むような黒く艶のない刀身が、ウィルヘルムに向けられた。


「勝負をしろ! ウィルヘルム!」


 先ほどまで半分閉じていたウィルヘルムの眼が、爛々と輝く。


「抜きおったな」


 フィリームズは慌てた。


「真剣ではまずいですよ‼ これ以上は……」


 ギリムも鼻息を荒くする黒豹を止めに入る。


「ガナー、落ち着け! ウィルヘルムだぞ‼ ここで敵に回す必要はない!」


 どうやら海を跨いでもウィルヘルムの名は通っているらしい。

 ギリムはガーネルトムの腕を掴み、小声で叫ぶ。


(命令違反だぞ……。死ぬつもりか⁉)


 ガーネルトムは牙を剥き出し、唸るようにギリムに言う。


「黙れ」


「……っ!」


 その眼に宿る闘志を見て、ギリムは彼女が退シリゾくつもりがないことを確信し、絶望のあまり胃が痛くなるのを感じた。

 ウィルヘルムは腰の剣を抜こうとして、途中で止めた。


「勝負というからには、命だけを懸けたのでは面白くない。何か別のものを賭けるとしようか。何か望みはあるかね」


「なんでも良いのか」


「もちろん、良いぞ。ただし、何を賭けるにせよ、それに見合うものをこちらも要求するがな」


「……」


 ガーネルトムが考えていると、道場の看板でも賭けると言い出すかと、門下生たちはやきもきとする。たった今、実力を見せつけた二人の勝負に口を出せる者は、この場にはいないようだ。

 ギリムは成り行きに任せるつもりになった。どうせやるなら派手な方が良いと、諦めの境地にある。既にガーネルトムは、ギリムの護衛という任務を忘れているが、賭け試合だからと言って、任務に支障をきたすようなことは、さすがにしないだろうと考えた。


「では、私が勝ったら、お前を夫として貰う」


 さしも動揺なきウィルヘルムも、ガーネルトムの要求に目を見張った。そして、その賭けの品を吟味すると、大声で笑い出した。


「よろしい! だが、少し不公平になるな。その賭けのシナでは、お前さんはわしを殺せん。というわけで、わしも同じもものを賭ける。わしが勝ったら、お前さんを妻に迎えるとしよう」


 突然始まった求婚に、全員が目を丸くする。


「あの……、相手はデーモンですよ……?」


 フィリームズが言うと、ウィルヘルムは悪戯小僧のように笑みを浮かべる。


「デーモンでも女は女。若い娘に恥をかかせるわけにはいかんからなぁ。男の務めというものじゃ」


 道場の真ん中でウィルヘルムは、黒豹の戦士と向き合うと、自らの得物の柄に手を置いた。


「ウィルヘルム・フォン・ベルン。参る」


 開始の合図はない。真剣勝負に、そんなものはない。


 ◆


 再度、向かい合って、ようやく理解した。

 この小さな老人は、背筋が曲がっているのではない。曲げているのだ。腰と膝を曲げ、力を蓄えている。ファンテラ族の狩人も、同様の構えを見せる者がいる。常に筋肉に力を蓄え、隠密性と即応性を維持する。簡単にできることはないが、この男ならやってみせるだろう。

 そして、先ほどの戦いで見せたウィルヘルムの瞬発力。体を弓の弦のように弾き、刹那の間に距離を詰めた。反応することはできなかったが、ガーネルトムの優れた視力は、ウィルヘルムの体が拡大し、数十年分は若返っていたように捉えていた。反応することはできなかったが、目で追うことだけはできていた。

 だが、もともと、恒人メネル族そのような骨格の造りになっていない。効果は限定的だ。つまり、戦いで使えるのは最初の一撃のみのはずだと、ガーネルトムは考えた。それさえ防げば、彼女にも勝機はある。


「ウィルヘルム・フォン・ベルン。参る」


 その一言のあと、ウィルヘルムの筋肉が膨張し、背筋が曲がった老人は消え去り、壮年の剣豪が姿を現した。見ていた者たちからは、風船が膨らむように、ウィルヘルムの体が大きくなったように見えた。実際に膨らんだわけではないが、漂う雰囲気がそのように思わせる。

 ウィルヘルムは剣を抜き放つと、殺気が道場を満たす。

 空気が肌を刺すほどの張り詰め、誰も身動ぎすらできない。もし、この殺気が自分に向けられていたら、人としての尊厳を失っていたかもしれないと門下生たちは感じた。

 それを一身に受けたガーネルトムは、ただでは勝てないと悟った。実力の差は歴然である。後ろモモが引き攣り、本能が逃げろと告げるが、その声は意外なことに耐えられないほどではなかった。ウィルヘルムの殺気からは、怒りを感じなかったからだ。


(これだけの闘志を見せておきながら、感情を表に出さない。感情も力も、完全に意識化に置くことができるのか)


 その境地に感服する。それと同時に、自分が喜びに心湧き立つのを感じる。戦いに喜びを感じることなどなかったことだ。強くなることは必然であり、勝ち負けは生死に直結する。それに楽しみや喜びを感じたことはなかった。


(勝ちたい! この男に‼)


 恐怖で体が震える。それを振り払うため、ガーネルトムの肉食の大口から、咆哮を溢れ出させる。虚勢であるが、効果がないわけではない。

 自らの加護の力を爆発させる。

 ガーネルトムの加護は、暗闇を呼び出し、操る。『暗闇の加護』である。ファンテラ族の中でも特別な力だ。

 それは正面から戦うための力でなく、闇に溶け込み、影に舞う。暗闇からの奇襲、目くらまし、そして、逃走のために使われる。狩人としての力である。そして、ガーネルトムが一族のと成れたのは、伝統による力の使い方に囚われず、応用と研鑽を怠らなかったためだ。

 闇を周囲に広げ、同時に自身の全身を闇で包む。剣の先まで、完全に黒く染まる。その暗闇からいくつもの腕を伸ばした。ガーネルトムは何本もの腕を持った異形の戦士へと変貌する。先ほど見せた分身と同じく、その腕には物理的な力はない。だが、間合いを狂わせ、攻撃を見切られないようにすることができる。

 ウィルヘルムは異形の戦士に怯まず、一気に間合いを詰め、剣を振るった。隙が生まれる。異形の戦士を切り裂いた剣は、空を切った。すでに異形の戦士の中にガーネルトムの体はなかった。暗闇に紛れ、死角から背後に回った黒豹は、その剣をウィルヘルムに突き立てようとした。


「見事」


 ウィルヘルムがそう言うと、勝敗は決した。

 彼の振るった剣は、囮となった異形の戦士の影を切り裂いていた。ガーネルトムに届いていなかったはずである。しかし、倒れたのはガーネルトムである。

 どちらが囮で、どちらが隙を作ったのか。ウィルヘルムは囮の影に手を出し、相手の攻撃を誘った。そして、後ろに回り込んだガーネルトムの腹に、左手に持った鞘を打ち込んだのである。


「新地流・破鱗ハリン流し」


 ウィルヘルムが技名を呟いた。

 ガーネルトムは地面に倒れ込み、白目を剥きピクリとも動かない。ギリムが駆け寄り、息をしているか確かめる。死んだように見えるが、意識を失っただけだのようだ。


(あの程度の打撃で、意識を失うなど……)


 ギリムには何が起こったのか理解できなかった。軽い木製の鞘で打たれた程度で倒れてしまうほど、ガーネルトムはヤワではない。それにそんな強打をすれば、鞘の方が壊れてしまうだろう。鞘に仕掛けがあるのかと思ったが、そんな風には見えなかった。


「ふむ。しまったな。手加減ができなかったわ。これは、一日二日イチニチフツカは目を覚まさんぞ」


 ウィルヘルムは鞘に剣を収める。

 戦いが終わったウィルヘルムは、いつもの軽薄な雰囲気に戻ったが、その姿は老人には戻らず、戦士然とした立派なままである。見物していた門下生たちは、その変身ぶりに感銘を受け、目を見開いて開祖の姿をしっかりと脳裏に焼き付けた。


(決まったな。名付けて『あんな小さな老人が、実は最強の戦士だった⁉ 侮ったばかりに失礼をして、もう声を掛ける勇気がない。けど、剣を教えてほしいよう……。どうすればいいの⁉』作戦じゃ……)


 村では機会がなくてできなかったため、ようやく苦節十数年の努力が実った瞬間を、ウィルヘルムは噛み締めて味わう。

 レイリアルがウィルヘルムの側に近付く。


「じいさん。最後の一撃。何をした? だた、鞘を打ち付けただけには見えなかった」


「ほう。レイでも見切れんかったか。まぁ、あれは実際に受けてみなければ、わかるまい。受けてみるか?」


 レイリアルは鼻で笑って断った。

 門下生たちは少し背筋が寒くなる。何日も気絶してしまうような一撃を受けなければ訓練にならないのは、勘弁したいところである。そして、師匠の師匠に対するレイリアルの態度に、いくら師匠の娘であれ、反感を覚える。ただ、小さな頃から彼女を知っている門下生たちにとっては、彼女のこの態度は不思議でならない。


「それで……。本当にこのデーモンと結婚にする気?」


「今時分、デーモンだ、メネルだなど言っとる者も少ない。ま、少しが、それも慣れじゃろ。むしろ、臥所フシドでは、心地良さそうではないか」


「……エロじじい」


 レイリアルに言われ、ウィルヘルムは大笑いした。その脇で、ギリムはガーネルトムの肩に手を置き、何かを考えているようである。ウィルヘルムはギリムに訊ねる。


「お前さんも一本どうかね。そこで勝てば、この婚姻の話も取り消しにしよう」


「お断りしますよ。私まで気絶したら、誰が彼女を運ぶのですか」


 事実上の敗北宣言だが、ギリムは気にしていないようだ。ゴツゴツとした石の転がる床も気にせず、座ったままウィルヘルムの方を向くと、頭を下げた。


「ガーネルトムを貰うことは構いません。彼女も立派な大人ですし、私にそれを止める権利はありませんから。ただ、一族のしがらみとか、嫁入りの準備などありますので、少し時間を頂きたい。とりあえずは三日後、もう一度、この道場を訪ねますので、そこで今後のことを話し合いましょう。その間に幾度か連絡を取りたいのですが、ベルン卿はこの道場にご滞在されますか」


「おるじゃろう、多分な……。ガーネルトムが目を覚ましたら伝えてくれ。わしが本気を出さなければいけない相手は数少ない。お前さんはそれに値した、とな」


「わかりました」


 ウィルヘルムはガーネルトムを運ぶのを手伝うと言うが、ギリムはそれを断った。ギリムがガーネルトムの肩を軽く叩くと、彼女はフワフワと浮かび上がり、まるで紐でも括り付けられたかのように、ギリムの後を追う。


「魔術……」


 レイリアルは道場の門で二人を見送った後に、ぼそりと呟いた。


「じいさん、あのもうひとりのデーモンが魔術士だと知っていたか? 勝てるのか?」


 彼女の直接的な問いに、ウィルヘルムは臆せずに言う。


「勝てる。が、魔術士の実力は良く判らん。油断はできんことは確かじゃのう。判るのは……、あやつらは軍人じゃな。どこの軍かはわからんが、ベルトリアで新たにデーモンの国が興ったと聞く。そこの者だとしたら、あれだけの歴戦に育つのも納得がゆくの」


「ベルトリアって、隣の大陸だな。どうして、この国に……」


「だから、敵情視察じゃろ。戦争になるかもしれんな」


 勝手な憶測をする。もし、それが本当なら、魔人の妻を貰うとか貰わないとかの話をすることすら危険なことだ。横でいたフィリームズは呆れて聞いていた。この武装都市を有するモントベルク王国に、新興の国が戦争を起こすなどあり得ることではない。最強の戦士でも、政治には疎いのだなと思ったが、口には出さないようにした。

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