第7話 フィア2

 フィアが帰った後、工房には再び静寂が戻った。だが、その空気は以前とは少し違っていた。作業台の上に置かれた、一つの小さな木箱。それが放つ無言の期待感が、工房全体を緊張と、そしてどこか温かい使命感で満たしているようだった。


「よし、やるか」


 隣でそわそわしているナギを尻目に、リアムは気持ちを切り替えると、本格的な分析作業に取り掛かった。彼はまず、オルゴールに傷をつけないよう、特殊なオイルを継ぎ目に慎重に染み込ませていく。そして、極細のヘラを使い、パズルのピースを外すかのように、繊細な彫刻が施された外装を一つずつ外していった。


 やがて姿を現したのは、蜘蛛の巣のように張り巡らされた、息をのむほど精密な内部機構だった。


「うわあ……すげえな、これ……」


 覗き込んでいたナギが、思わず感嘆の声を漏らす。リアムもその見事な仕事ぶりに、静かな敬意を感じていた。エルフ族の作る魔道具は、人間のそれとは設計思想が根本的に違う。効率よりも、美しさや、自然との調和を重んじる。このオルゴールも、まるで一つの生命体のように、全ての部品が有機的に結びついていた。


 リアムは魔力探査用のプローブを手に取ると、慎重に魔力の流れを探っていく。そして、すぐに問題の核心にたどり着いた。


 オルゴールの中心部。メロディを奏でる金属の櫛歯のさらに奥に、魔力の源として埋め込まれていた素材。それが完全にその輝きを失っていたのだ。


「……これか」


 リアムはピンセットで、劣化した素材の欠片を慎重につまみ上げた。それは、ただの苔ではなかった。


「『夜光苔』だ。だが、ただ自生しているものじゃない。魔力を安定させ、長期間保持できるように、特殊な処理が施されている」


「やこうごけ……?」


「ああ。エルフ族が使う、伝統的な素材だ。これを新しいものに交換しない限り、このオルゴールが光と音を取り戻すことはない」


 リアムの表情は険しかった。


「……工房には、この在庫はない」


「なんだよ、それじゃあ直せないのか!?」


 ナギが心配そうに声を上げる。リアムの工房には、大概のものは揃っていると信じていたからだ。


「森に採りに行くんじゃダメなのか? 川の上流の方で、夜に光る苔なら見たことあるぜ!」


「無駄だ。野生のものは魔力が不安定すぎる。それに、このオルゴールに使われているのは、何種類もの鉱物の粉末を混ぜ込んで、効果を定着させた特別製だ。同じものを用意しなければ、この精密な機構は二度と動かない」


 リアムは静かに首を振った。万策尽きたか、とナギの顔が曇る。フィアの悲しそうな顔が、彼の脳裏をよぎった。


 しばらくの沈黙の後、リアムがぽつりと呟いた。


「心当たりが、一つだけある」


「本当か!?」


 ナギが勢いよく顔を上げる。彼の耳が、期待にぴんと立った。


「街の職人街の、一番奥まった路地……。ドワーフがやっている、古い素材屋がある。あそこなら、もしかしたら……」


「ドワーフの店! ああ、あの頑固爺さんの店か!」


 ナギは何やら思い出したように声を上げた。


「あそこの爺さん、気難しくて有名なんだぜ。普通の客は、門前払いされるって話だ」


「だろうな。だが、あそこ以上に、この街で珍しい素材が手に入る場所はない」


 リアムは立ち上がると、分析のために取り出した夜光苔の欠片を、小さなガラス瓶に収めた。


「行くぞ、ナギ」


「お、おう!」


 リアムの緑色の瞳には、既に職人としての強い光が宿っていた。フィアとの約束を果たすという、静かで確かな決意の光が。


 二人が向かったのは、第四話で訪れた市場の喧騒をさらに奥に進んだ、職人たちが集まる一角だった。槌の音が響き、革の匂いや金属の焼ける匂いが立ち込めている。その中でも、ひときわ古びた、石造りの建物が目的の店だった。看板には、ドワーフの古い文字で『頑鉄がんてつ鉱石店』とだけ、無骨に刻まれている。


 重い木の扉を押すと、カラン、というよりはゴトン、という鈍いベルの音が鳴った。


 店内は薄暗く、ひんやりとしている。壁一面の棚には、様々な色や形の鉱石、動物の骨や牙、乾燥した植物の根などが、所狭しと並べられていた。空気は少し埃っぽいが、不思議なエネルギーで満たされているようだった。


「……何の用だ」


 カウンターの奥から、地の底から響くような、しわがれた声がした。そこに座っていたのは、店の雰囲気そのもののような、頑固そうなドワーフの老人だった。石のように固い筋肉。雪のように白い、長く編み込まれた髭。そして、客を値踏みするかのような、鋭い眼光。


 リアムは動じなかった。彼はカウンターに歩み寄ると、持参したガラス瓶を静かに置いた。


「これを探している」


 ドワーフの店主――頑鉄は、チラリと瓶に目をやると、興味なさそうに鼻を鳴らした。


「エルフ細工に使う夜光苔か。そんなもんは、とっくに扱っとらん。よそを当たりな」


「ただの夜光苔じゃない。白水晶と月長石の粉末を混合し、ミスリル銀の溶液で定着させたものだ。純度は90パーセント以上を求める」


 リアムは、冷静に、そして正確に要求を伝えた。

 その言葉を聞いた瞬間、頑鉄の目の色が変わった。彼は椅子から身を乗り出すと、ガラス瓶を掴み取り、眉間のシワを寄せながら、食い入るようにその中身を観察し始めた。


「ほう。この処理法を知っているのか、小僧」


「ああ」


「これを何に使う。まさか、お前さんのような若造が、エルフの古式魔道具を修理するとでも言うのか?」


「そうだ」


 リアムの淀みない返答に、頑鉄はしばらく黙り込んだ。そして、リアムの顔、その手、服装、そして彼の瞳の奥にある光を、じろりと品定めするように見つめた。


 やがて、彼は満足したように、ふん、と短く息を漏らした。


「面白い。近頃の若い衆には、道具の価値も分からん奴ばかりだと思っていたがな」


 頑鉄はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、店の奥へと消えていった。しばらくして、埃をかぶった小さな桐の箱を手に戻ってくる。


「こいつの価値が分かる奴に渡るなら、本望だろう。持っていけ」


 箱の中に収められていたのは、まるで満月のかけらのように、静かで清らかな光を放つ、最高品質の夜光苔だった。


「代金は」


「出世払いでいい。その代わり、見事、その小箱を直してみせろ。このワシに、お前さんの腕前が本物かどうか、見せてみろということだ」


 ドワーフの老人は、その無骨な顔に、ほんの少しだけ、挑戦的な笑みを浮かべた。素材を手に入れ、店を出たリアムとナギの足取りは、来た時よりもずっと軽かった。


「やったな、リアム! あの頑固爺さんを認めさせやがった!」


 ナギが興奮してリアムの背中を叩く。リアムは何も言わなかったが、この街にも、自分の言葉が通じる本物の職人がいたことに、静かな喜びを感じていた。


 工房に戻れば、フィアが不安そうな顔で彼らを待っているに違いない。リアムは、手の中の桐の箱を強く握りしめた。


「これで、直せる」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る