第6話 フィア1

 春の陽気は、リバーフェルの人々を少しだけ活動的にさせるらしい。


 最近、リアムはそう感じていた。工房の前を通りかかる人が、以前よりも増えた気がする。中には、遠巻きにこちらを指差しながら「あそこが、腕のいい道具屋さんだよ」と話している子供たちの声が聞こえてくることもあった。おそらく、パン屋のエルナさんが、オルゴールの件を誰かに話したのだろう。


「お前も、すっかりこの街の名物だなあ」


 工房の隅で漁網の補修をしていたナギが、茶化すように言った。


「余計なことを言うな」


 リアムは、手元の魔道具から顔も上げずに応じる。決して悪い気はしなかったが、過度に注目されるのは彼の本意ではなかった。静かに、目立たず、穏やかに暮らす。それが、彼がこのリバーフェルに来た理由なのだから。


 そんなことを考えている、穏やかな午後だった。

 コン、コン……。

 工房の扉を、誰かが叩いた。ナギが勢いよく開けるのとは全く違う、とても小さく、遠慮がちな音だった。ナギとリアムは、顔を見合わせる。


「お客さんか? 珍しいな」


 ナギが立ち上がろうとするのを、リアムは手で制した。なんとなく、自分が出るべきだという気がしたのだ。


 リアムは席を立つと、少しだけ緊張しながら、ゆっくりと木の扉を開けた。そこに立っていたのは、小さなエルフの女の子だった。


 森の苔のような色の柔らかな薄緑色の髪から、長く尖った耳がのぞいている。生成り色のシンプルなワンピースの裾を、小さな両手でぎゅっと握りしめていた。そして、黄色の煌めくような大きな瞳で、不安そうにリアムの顔を見上げている。

 その姿は、まるで森の中で迷子になった小動物のようだった。


「何の用だ」


 できるだけ穏やかな声を出そうとしたが、人と話すことに慣れていないリアムの口から出たのは、自分でもぶっきらぼうだと分かるような低い声だった。


 その声に、少女の肩がびくりと震える。大きな瞳には、みるみるうちに涙の膜が張っていった。


「こらリアム! そんな低い声出すから、怖がってるだろ!」


 工房の奥から、ナギが慌てた様子で駆け寄ってきた。そして、リアムをぐいと押しやると、少女の前にゆっくりとしゃがみこみ、目線を合わせる。


「よしよし、大丈夫だぜ。こいつ、すげぇ無愛想だけど、悪いやつじゃねえからな」


 ナギは、垂れた耳と、ゆっくりと揺れる尻尾で、自分が敵ではないことを示すように、優しく微笑みかけた。その太陽のような明るさに、少女の緊張がほんの少しだけ解けたのが分かった。


「こんにちは。俺はナギ。こっちが、この工房の主人のリアムだ。君の名前は?」


「……フィア」


 蚊の鳴くような、小さな声だった。


「フィアか。いい名前だな! それで、フィア。俺たちに何か用かい?」


 ナギに促され、フィアと呼ばれた少女はおずおずと、ずっと胸に抱えていた小さな布包みを差し出した。リアムはそれを受け取る。布は何度も洗濯されたのか、とても柔らかく、陽だまりの匂いがした。


 丁寧に結ばれた結び目を解くと、中から現れたのは、手のひらに収まるほどの、古びた木製の小箱だった。


「これは……オルゴールか?」


 リアムの問いに、フィアはこくりと頷いた。

「星屑の、オルゴール……です」


「星屑?」


「蓋を開けると、昔は……きらきら光る星みたいなのが見えて、綺麗な音がしたの。でも……」


 フィアの言葉が、そこで途切れた。大きな瞳から、こらえきれなかった涙がぽろりと一粒、こぼれ落ちる。


「でも、今はもう、音も、光も……出なくなっちゃったの」


 その声は、悲しみで震えていた。


 ナギは何も言わず、フィアの隣に座ると、その小さな背中を優しく撫でた。リアムは、手の中の小箱に視線を落とす。エルフ族特有の、植物を模した繊細な彫刻が施されている。確かに、ただの道具ではない、特別な品だということが伝わってきた。


「どうして、これを直しに?」


 リアムが尋ねると、フィアはぽつりぽつりと、一生懸命に話し始めた。


 それは、彼女が少し前の誕生日に、大好きなお母様から贈られた、たった一つの宝物なのだという。毎晩、そのオルゴールの光と音色を聞きながら眠るのが、彼女の日課だった。


「……昨日、ベッドから落としちゃって……。お母様には、まだ言えてないの」


 フィアはワンピースの裾をさらに強く握りしめた。


「お母様が、すごく大切にしてた小箱だって……。これをくれた時、すごく嬉しそうだったから……。壊れちゃったって知ったら、きっと悲しむから……」


 だから、一人で来たのだ、と。

 その健気な言葉に、リアムは胸を締め付けられるような感覚を覚えた。

 子供の純粋な想い。家族を大切に思う気持ち。それは、リアムが王都で失ってしまった、温かくて、かけがえのないものだった。


 同時に、彼の脳裏に苦い記憶が蘇る。自分の技術への過剰な期待。大きな責任。そして、その果てにあった絶望。子供のおもちゃとはいえ、この小さな手に握られた「宝物」の重みは、決して軽くはない。もし、直せなかったら……。


 リアムが黙り込んでいると、ナギが彼の顔をじっと見つめて言った。


「リアム。お前なら、できるだろ?」


 その声には、絶対的な信頼が込められていた。ナギはリアムの技術を信じている。そして、目の前の少女もまた、なけなしの勇気を振り絞って、リアムの技術を信じ、ここにやって来たのだ。


 リアムは、フィアの涙で濡れた瞳をもう一度、まっすぐに見つめた。そして、静かに、しかしはっきりとした口調で言った。


「やってみよう。少し、預からせてくれるか?」


 その言葉を聞いた瞬間、フィアの顔が、ぱっと花が咲いたように明るくなった。不安に曇っていた瞳に、希望の光が宿る。


「……! ほんと……?」


「ああ。約束する」

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