11. 想像のなかのお姉ちゃん/理想のお兄ちゃん【4/6】
自分が言葉を覚えて気持ちを発すると相手からリアクションが来る、というのは単純明快な図式だ。あんたは一番年下で全員からかわいがられてたやん、と家族親戚洩れなくみんな思ってるだろうけど、わたしは言葉を覚えてそれを伝えられるようになるまでは結構キツかった。この感覚を言語化すると、「みんなから相手にされてないな」「あしらわれてるな」て思いがそれまではずっとあった、てことになるのかな。そして、でも感情を言葉にできたと実感したときは周囲のわたしへの接しかたがちゃんとした受け答えとして成立するようになったよな、という変容は割としっかり憶えていて、両親もおばあちゃんも兄たちもそれぞれ赤ちゃん扱いされてたときと会話が成立するようになってからとで表情の違いすらあったやん、と記憶の識別もできるくらいはある。わたしは言葉で意思疎通できた、ということは喜びを伴う感動体験であったため世界観が書き換えられたし、言葉に対してだけはこだわりが強くてちょっと偏執的というか過剰な思い入れがある人間のように思う。自覚もあるから意図的にそのように振る舞うこともままある。だって言葉というのは丁寧に選び続ければ思いを正確に伝え得る可能性を持ってるし、大雑把な感じが良ければ言葉を尽くしてどこまでもその「大雑把さ」を追求できる。その解釈でいけばどうしたって無視できないツールなのだ。それはときめきだったし、それからのわたしは言葉を憶えることも文字の読み書きもすごく楽しくて、絵本を読むのがまず大好きになり、当時まではお話を「父ちゃん」や「まさつぐ」に寝る前に読んでもらってそのまま落ちる、というのも確かな幸せだったけども、自分で読む、受けとって理解する、寝る前に想う、翌日以降思い出す、なんだかおもしろい心地良い、というサイクルにハマって家にあった子供向けの本はとにかく読みまくった。その習慣は途切れず続いて今も本は読みまくってる。自分でも新しい小説を買うし家にある古いのは時間をかけて読み漁ってる。
そして「てがみ」も書くようになった。これはちょっと黒歴史的な恥ずかしさもあるのだけど、言葉を覚え、さらに文字を覚えてからはうちのコピー用紙を拝借して色々書き飛ばした。何と言うか、癖みたいなもんだ。「てがみ」といっても宛名を書いて郵便ポストから送るようなやつじゃなくて、自分だけが知っていればいい自己満足の、そういうやつだ。誰宛とも取れる抽象的な内容から、具体的な相手、あのときの自分へ、あるいは単なるメモ、アイデア、読書感想文、そういった類のものをなんでもかんでも書いた。リビングのプリンターが置いてる台の下のA4の真っ白なコピー用紙に。あとで読み返してみても訳のわからない言葉の殴り書きもある。けれどもバランスの悪いヘタクソな文字列のすべてが愛おしくなるという、不思議な魅力を感じてる。世界でわたしだけが知っている喜び。不意に昔の自分が恋しくなる。
まただ。
このあいだあの動画を見させられてから頻繁にこの感覚が起こる。阿部たちをバス停まで送ったあとリビングでスミ兄に促されて見た、自分の幼い頃の姿。
わたしはそのときのことはさすがに憶えていないし多分カズ兄にカメラで撮られている自覚もなかっただろう。なんで昔の自分を見て涙が止まらなくなったのかは今でもよくわからない。
けどもあれ以降、事あるごとに「ちっちゃいエヒメちゃん」が思考を遮るように現れて、あの頃の自分だったらこれをどう感じただろう、とか、あのままで小中学校を過ごしたら今は全然違う人間で違う高校に通ってるまったく別の人生かもしれない、などと、わざわざ考えなくてもいいようなことを考えてしまう。これって無駄な時間なのか? 考えなくていいような、って、わざわざ考えてしまうってことは無駄じゃない何かがあるのか? みたいに考えはとりとめなく続いて、だいたい誰かに話しかけられたりご飯食べたりしたらいつの間にか忘れてる、それを繰り返していた、ということを何度目かに思い出して、このこと自体をまた忘れるんだろうなー程度には自覚できるようになってきていた。
けれどもこれはまぁ嫌じゃない。
どちらかと言うと心地良い、好ましい変化だ。ただただ意味がわからないというだけなのだ。意味はわからんけど、ええもん見せてもろたで、カズ兄撮っててくれてありがとうな、て感じだ。こんなこと考えてるとまたあの映像を観たくなってきた。
元々わたしは昔の写真を見るのが好きで、よく一人でいるときはこっそりリビングダイニングの角の本棚にある昔の写真のアルバムを眺めてるけど、次はそんな感じであの映像を観てみたい。そのアルバムは父が昔フィルムのカメラにハマっていた頃に撮られたもので、兄たちと違ってわたしの写真はごく小さな時代の姿ばかりだが赤ちゃんから二歳くらいまでの期間だけなのに誰よりも枚数が多かったりする。カズ兄が撮影したあの映像は多分三歳になる前くらいの、見慣れた写真のなかのわたしだ。それが動いて、歌ったり飛び跳ねたりしてればそりゃわたしにとっては興味深い。
そしてあの頃はまだ字が書けないから「てがみ」じゃなくて絵を描くのが好きだったな、というのも思い出した。どんな絵を描いてたっけ。絵本の感動が絵そのものよりもお話のほうにある、と気付いてからはだんだん文字を覚えるに連れて絵の時間が字の練習に使われるようになったけど。初めて「文章」と呼べるようなものを書いたのはずっとあとになってからだけど、字を書けるようになるとそのときどきで見聞きしたことを書き写したり、感じたことはなんでもかんでも文字化していた。それこそ意味がわからなくても、だ。そして書いたものは小さく折りたたんだりハサミで切り取ったりして直接誰に渡すこともせずに勉強机の引き出しの一番下の段に隠してる秘密の箱に入れていた。懐かしい。これも昔の写真を眺めるのと同様たまにやるからこうやって自覚できるのだけど、特に整理せず今もそこにあるからアルバムってほど整理整頓されたものじゃない。
これも今日遠足から帰ったら久しぶりに掘り起こしてみようか。全部に目を通して整理しながら記憶を辿るのは相当時間がかかるだろうけど、昔のアルバムをめくるのに近い楽しさが確かにあって黒歴史とは言ったけどこれは本当に自分一人だけのものだから実はちょっとした宝物だ。ひらがなもろくに書けない時期から小学校卒業くらいまでこの癖は続いて相当な量の紙を消費したはずだけどコピー用紙は一回につき一枚しか拝借してないから多分家族の誰にもバレてはいない。
「まだ家出んでええの」
「ぎゃっ」
昔を懐かしんでびびすけを撫でてたから急に話しかけられたわたしはびっくりして声が出る。正嗣だった。床に寝っ転がったまま片肘ついた状態で頬杖をついてわたしを見上げていた。
「起きたんかい。びびちゃんごめんねぇ。びっくりしたねぇ」
びびすけはわたしが発した奇声がうるさかったからそのままの姿勢で撫でられ続けてはいるけど尻尾をぶんぶんと振り回していた。「びびすけ怒ってるやんか。ついさっきまで爆睡してたくせに急に話しかけるから」
「おお。なんでぼくこんなとこで寝てたんやろう」
「いやいやいや。こっちが訊きたいわ。人の部屋の前で酒くっさい」
「――せや、飲みにいってな、昔話に花咲いてもうて、そしたら盛りあがってなぁ、」
などとおっさんくさいことを言いだす。父がよくやるみたいな言い回し。本人は記憶がよみがえるにつれ思い出し笑いでにやけてなんかキモかったのだが、「今日遠足ちゃうん。カレンダー書いてた」
と、わたしがまったく興味なさそうな返事をしたことで意識を現在に戻した。
「そやで。そろそろ行かなあかんねやわ。てかよう見てたな」
うちは人数が多いからキッチンの一番奥の冷蔵庫の扉にでっかいカレンダーが貼ってあって事前にわかっている予定がある場合はその日付のマス内に各々書き込むというしきたりがあった。お母さんが晩御飯を用意するときに必要だからと家族のルールとして何年も前に始まったものだけれどもう学生じゃないカズ兄も正嗣もそこに何も書かないしスミ兄だって書いたり書かなかったりだし、お母さんも今は別にもう晩御飯の準備数のためにそこをチェックしたりはしない。「残り物があったら食べたらいいし好きにすれば?」て感じだ。まめに書き込んでいるのはわたしくらいで、おばあちゃんも父も本当に晩御飯が要らないときだけそこに書く。そんな日は月に何回もない。正嗣の名前なんてカレンダー上に存在しないからとっくに忘れてるし絶対見ていないと思ってた。けれども驚いたのはそのほんの一瞬で、それはこっちの思い込みだったんだとすぐに改める。家で過ごしてる時間帯が違うからこういう風に顔を合わす機会も最近減ったけど、正嗣だって冷蔵庫の扉くらい毎日開けてる。カレンダーが視界に入ったら見てたって自然だ。見るだけで自分は書き込まない、というのも考えてみればうちの兄貴たちらしい一番自然な姿なのだった。
「恵媛好きな人おるんやなぁ。そうかぁ」
とか不意に想定範囲外の発言をして正嗣はねこみたいに横になったまま伸びをした。わたしは心臓に爆撃を喰らった。何何何、急にそんな話題。反則やろ。カレンダー見てた、とかそんなレベルじゃねぇ。もし飲み物を口に含んでたら噴きだすレベル。ついさっきびびすけに話しかけていた内容を聞かれてたってことだ。
まじでたじろぎかけて咄嗟に取り繕いたくなったけどそんな自分を想像するとこの恥ずかしさが増幅するだけだと心臓ばくばくながらも瞬時に判断。
「まぁ、ね」
と素っ気なく返すに留めておく。しかしこれはやはりわたしとしては堪え難い恥辱なので顔を背けざるを得ず、そいつを誤魔化すためだけに再びびびすけを撫で始めていた。
「かっこよくてええ奴なんやろうな」
と正嗣は言った。
茶化すとか厭味とかそんなニュアンスじゃなく、わたしに向けて言ってるのでもない、素朴な独り言って感じだ。だからまぁ無視してびびすけを撫で続けるわけだけども、顔が熱い。
これ、絶対耳が赤くなってる。
「――こないだうちに呼んだ友達の子らも是非また連れておいで。びびすけも遊んでもらっててんな。よかったねぇ~」
正嗣は寝そべったままオーディオスピーカーの上のびびすけに視線を向けて話しかける。
「どんだけわたしらの会話盗み聞きしとんねん」
「『会話』て。恵媛がドア開け閉めする音で起きてん」
「確かにわたしが一人で喋ってるだけやけども。何よ、別にええやないの」
「そういやさっき起きるまで恵媛の夢見てたわ」
「どんなん」
「てか行かんでええん」
「せや、そろそろ出なやばい」
「初詣」
正嗣はそれだけ言って目をつむり、んんー、としばらく唸る。
11.【5/6】へ続く
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます