9. でも、間違いなく神には近いね【1/7】
ノートの書き始めというのはたいてい綺麗な字を心がけるものだ。
それは小学生のとき勉強用に使い始めた大学ノートで、最初の三ページくらいはお母さんに渡された英語の教材を書き写すような用途で使ってたやつだけど、英語の勉強自体は続けたがこっちのノートはあまり意味がないな、と悟って日記帳へと転生させたものだった。大掃除で自分の机を整理していたら出てきた。
丁寧に書かれた緊張感すらあるアルファベットは一ページ目だけで、二ページ目から早くもすべての文字がうにょうにょと乱れ、不意に途切れ、四ページ目をめくると日記が始まる。2Bのえんぴつ特有の濃いめの筆跡の、心機一転って感じで日本語の文章が丁寧に書かれている。ひらがなは多めだ。ノートはめくっていくうちに行頭の日付が飛び飛びになり、筆跡も割とすぐまたうにょうにょしだして、自分でも判読に苦しむくらい汚い字があったり、一言で終わる日があったり、日記と呼べないくらいの、三ヶ月四ヶ月飛んで一、二日だけという頻度がザラになってくる。そんなノートが計三冊あって、三冊目は三分の一くらいで止まってそれ以降は白紙だけど、この日記とは到底呼べなくなったそのときどきで思ったことを書くという習慣はまた始めてみてもいいかもしれない、などと思い大掃除が全然はかどらない。後期のほうは日記というより詩のようなものだった。でもそれだってその日付にしか書けなかった言葉だから日記のようなものだ。
大人たちが言うには日記とブログの境界線は昔はもっとはっきりしていたって話だ。日記というのはとても古くからあるもので、ネット上にアップロードするものではなくて本来誰に見せるわけでもなくひっそりと書くものだった。だからそこには何を書いてもいいわけで、モラルとか公序良俗とかも無視していいわけだけど、おれはそっちの「言葉の暴力」的な過激さに流れていかずに「詩」という、それは=「言葉そのものの持つ暴力性」について考え、そいつと向きあうことに惹かれていった。日記とは元々は他人に見せるようなもんじゃないから、そこにポエムが書かれていたって恥ずかしくないわけだ。
「詩」の目覚めのきっかけは小四の終わり頃、正嗣兄さんがバンドの歌詞を考えていてそれを真似してみたことだった。確か二冊目のノートの真ん中あたりにその日のページがある。この日は思うような「詩」を書けず失敗に終わっているのだが、変な文章を書いたのでずっと記憶に残っている。読み返してみよう。その日のページには「きょうもだれかにみられてる」とあって、タイトルのつもりだったんだがおれはそれだけ書いてついうとうとと寝入ってしまって妙な夢を見た。一時間くらい机で寝てたらしいおれは次のページにその夢の内容だけじゃなくて妙な夢を見るまでの経緯みたいなものを走り書きしている。
まさつぐお兄ちゃんとかしを考えるためとなりでうでを組んでいる男がいました。
男は小学四年生でした。
きょうもだれかにみられてる と書きました。
なんとなくいいなと思ったから題名にすることにした。
昔はいつもだれかにみられているような気がしてあたりをきょろきょろと見回してはだれもいないと安心し、それでもうまくかくれている相手のいひょうをつくように急にふり返ってみたり、相手が思ってもみないような、よそくできないような行動をとることを前ぶれなくやるくせがありました。
そんなだから変なゆめを見るのかもしれません。
男は別のだれかになりたい、と思っていたから。
男はきおくにないけしきを目の前にしてこれは他人のきおくだと思いました。
その男というのはぼく小村澄治で、だから小村澄治のゆめは別のだれかのきおく。
おぼろげにおぼえているはんい 1
ゆめのなかで男は何度もぼくに会っていた。
男が会っていた小村澄治のようしはいつもばらばらで、きれいな服を着たりきたない服を着たりする。
すごく小さなときもあり、逆に大人になった小村澄治も会う。
その「男」のせいべつが男であるかくしょうはない。
おぼろげにおぼえているはんい 2
この世界はぼくののうみその働きによってぼく自身ののうみそがゆめとして見ているゆめとするには信じがたい点がある。
知らない漢字、知らないちしきがたくさん出てくる。
寝てたのはたった一時間らしいけど、本当に長い時間ゆめのなかにいた。一秒の長さをげんじつと同じ長さで感じている。
おぼろげにおぼえているはんい 3
このあいだの初もうででえひめがいなくなったさわぎがゆめにも出てくる。
きれいな女の人がえひめを連れさろうとしていくように見えたがだれかがそれを発見し、そしする。
ここまでが見開き左ページ「きょうもだれかにみられてる(以下白紙)」の隣の右ページに小さな字でびっしり書かれていた。この二ページはこれでワンセットというか、左の白紙であることに対する注釈とかライナーノーツみたいな雰囲気だ。このページを夢を見た直後に書いた記憶はあるのだが、夢の内容自体は憶えていない。変な夢なんていつだって見るからどうだっていいんだけど不可解な箇所がある。最後の「おぼろげにおぼえているはんい 3」だ。
「このあいだの初もうで」というのはこれを書いたのが二月だったから間違いなくおれが小学四年だったときの一月だ。その年の初詣は例年とは違った。いつもは元旦か二日の日中に行く。近所の神社か電車に乗っていくような有名な神社かは年によって違うがとにかく日中で、必ずおばあちゃんも一緒に明るい光のなかを歩くのがおれの初詣のイメージだ。だけどこの年だけは厳密に言うと違う。例年通り一月二日に家族みんなで神社にも参ったが、この年の初詣は元旦の日付が変わってすぐ、真夜中の真っ暗なときに近所の神社へお父さんと和崇兄さんとおれと恵媛で行ったのだ。
ことの経緯を記憶の底からひっぱり出す。
映画を兄さんたちと観終わったおれは大晦日だけど早々に寝た。何時間後かに恵媛の声が聞こえてきて目を覚ます。
トイレにも行きたかったので様子を見にいくとダイニングで恵媛が泣いていてお父さんと和崇兄さんが笑ってそれを宥めている。聞けばどうやら正嗣兄さんが家にいないのがどういうことかわからない恵媛に対して初詣という文化を説明している最中だった。
夜中に外へ出ていくようなことがたとえ新年が明けたからと言って許されるわけがない、と頑なに信じない恵媛。
「なんならもう今からみんなで行く? ほら、澄治も起きてきた」とドアを開けてそこに突っ立って見ていたおれに気付いてお父さんが言った。
おれは昼間にリビングのソファーで昼寝をしてたから夜は眠りも浅くて全然寝ぼけてなんかいなかった。だからすぐに状況を察してこんな夜中にみんなで外に出れるなんて、ていう非日常感が嬉しくて大はしゃぎだった。
玄関を出てからも収まらなかったおれのはしゃぎ声が聞こえたらしい上の階に住んでいる武田瑠花さんが二階のベランダに出てきて、やりとりの末同行するから待ってくれと言って和崇兄さんが待つことに。瑠花さんはおれの初恋の人なんだけどその話は今はいい。
お父さんと恵媛と三人で神社に到着したらすぐそこに正嗣兄さんがいた。正嗣兄さんは当時よくツルんでた、家にも何度も来たことあるスミエダさんとサカキさんと三人で来ていて、新年の挨拶をしたおれたちも一緒に列に並んだ。
恵媛は着くなり正嗣兄さんに抱きついて最後までべったりだった。本当にこの頃の恵媛は正嗣兄さんが大好きで、おれと恵媛の関係性には正嗣兄さんを巡って争うライバル同士のような側面があった。かと言ってバチバチに決闘するようなことはなかったけれど。お互いに土俵が違うって認識はあっただろう。詳しく掘り下げたことはないけれど正嗣兄さんにかわいがってもらえたときの喜びとか満足感とかは個人的なものだから、当然恵媛の感じていた喜びや満足感はおれのそれとはまったく別物で、想起される色も匂いも違うし、脳波を測定してみたらボルテージの波形も違うはずだ。それにこの真夜中の神社という非日常空間へのアクセスができたのは恵媛のおかげなのだからこのときのおれは出しゃばるのは違うなって気分がずっとあって、基本スミエダさんとサカキさんの二人と喋っていた。
とにかく恵媛はずっと正嗣兄さんの側を離れなかったから、いなくなるような騒ぎはなかった。
だから夢の内容は現実とは別物のはずだ。
次に書かれている「きれいな女の人がえひめを連れさろうとしていくように見えたがだれかがそれを発見し、そしする」という部分はいよいよミステリーじみている。これではまるで誘拐事件ではないか。なんせ並びで書いてあるものだから初詣で失踪した恵媛に起こった出来事のようにしか見えないが事実に基づいているわけでもないのが厄介なところだ。何度も言うがあの年の初詣にこんなことはなかった。
あの日、和崇兄さんと合流して神社に来た瑠花さんは、スミエダさんとサカキさんとは初対面だったみたいだけど「遥希もスタ中の同学年だから」と妹さんを呼びだそうとしていた。そのときの正嗣兄さんの顔にははっきりと緊張が走っていたのをおれは憶えている。結局遥希さんは呼ばなかったのだが、正嗣兄さんがあの頃もうすでに遥希さんとの接点が薄くなっていたことは雰囲気でわかっていた。
呼ばなかった原因はそれだけじゃなくてお父さんが寒いから帰ると言いだして、まだもっと遊びたいとおれと恵媛が駄々をこねたら、「お兄ちゃんたちが一緒に付いていてくれるならいいぞ」てことになって、そんな空気もおかまいなしにマイペースな和崇兄さんは眠いから帰ると宣言。で、日和ってた正嗣兄さんは責任感を前面に押しだして「ぼくがこの子らの面倒を見なあかんから来てもらっても相手にできへん」と妹さんを呼ぶのを瑠花さんにやめさせたのだ。一時間もしないうちに解散したがおれはスミエダさんもサカキさんもやさしくてかっこいいから楽しかったし、恵媛もすっかり機嫌が治ってよく笑った。
一つ気に掛かったのはそこからちょっと不貞腐れたような様子の瑠花さんで、初めは提案を却下されて不機嫌なのかと思ったんだけど、よくよく考えてみたら一緒に来た和崇兄さんがさっさとお父さんと二人で帰ってしまったからなんじゃないか、とおれは思った。瑠花さんはおれの初恋の人だがもうすでに過去の人だったからなんのモヤモヤもなく「多分瑠花さんは和崇兄さんのことが……」と考えていた。今となっては当時の印象に対しての確信はない。短絡的すぎる。
現在東京で舞台女優をしている瑠花さんはそれこそもう次のステージへとっくに行っちゃてるだろう。記憶を辿ってみるとあの日の瑠花さんはちゃんと化粧をして綺麗な格好をしていたから、眠いから帰ると言ってすたすた歩き始めた和崇兄さんの行動はそんな瑠花さんに対してあまりにも無遠慮で「無神経な男」ということになる。和崇兄さんはおれから見てもデリカシーに欠けるところはあるから、異性として意識した場合ならなおさら浮き彫りになるだろう。和崇兄さんがいなくなって十五分くらいで「あたしもそろそろ帰ろっかな」と言ってバイバイしたけれどあれ以来歳の離れているおれが一緒に遊ぶような機会なんてものはやっぱりなくて、瑠花さんは高校を卒業し進学のため東京へ行き、学生を続けながら女優になった。当たり前だがあの日見送った背中は全然女優っぽかったわけではない。でも「さみしそうな女の子の背中」を脳裏に植えつけられていたおれは、後に女優になったと聞いて事実が記憶に追いついた、と鳥肌が立った。
昔からよく映像を撮っていた和崇兄さんは当時の瑠花さんを撮ったりはしていないんだろうか。過去をどうこう言ってもしょうがないけれど、今や帰ってビールばかり飲んでお腹がぽっこりしている和崇兄さんを見るとなんかせつない。青春時代はまるごと全部の要素が一塊になって青春時代だから、二人の関係にお互い未練を抱いていたとしてもごく一部の感情でしかないそれは「そんなこともあったなぁ」て思い出としてすでに清算済みなのだろう。だって二人とももう大人だから。大人になったから清算ができるのか清算なりをすることで大人になるのか、十五歳のおれにはわからないけれど。
9.【2/7】へ続く
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