7. 作詞をしよう【4/4】
「レギュラーサイズ三枚でええな。トッピングお母さんに任せてええか」
母が恵媛の手元のチラシをソファーの背もたれ越しに取りあげる。うちはいつも同じピザ屋の、トッピングの種類が四分割になっているクワトロタイプを必要枚数頼む。内容まで子供たちの希望を訊いていたら収拾がつかなくなるのがわかっているからいつもこんな感じだ。ぼくは言った。
「照り焼きチキンは必須やで」
「はいはいわかってる。お義母さんからどうぞ食べたいの選んでください」
母はぼくの横を通りダイニングテーブルにいる祖母の元へ行き二人でチラシを見ながらあれこれピザを決める。仲は良いが母は祖母に対してはずっと敬語だ。けれどそこには緊張感はなくて、ずっとそうしてきたからとても自然に聞こえる。子供には強めの口調で叱るし父に対してもどちらかと言えば強気な態度だから、間違えて祖母にタメ口で話してしまうような失敗はしないのだろうか、と昔は変な心配をしていた。兄が母に対して無理して使うようになった敬語は初めこそぎこちなかったけれど数年経ってそれなりに自然に会話できるようになった今となっては元々それは幼いときから当たり前に耳にしていた母の敬語を無意識のうちにモデルにしていたんじゃないかと思う。なんか皮肉な話だ。
「お母さんコーラ頼んでいい?」
澄治が言った。
「しゃーないな、特別やで」
「やった!」
「ぼくもコーラで」
「はいはい。恵媛ちゃんはオレンジやな」
「あ」
恵媛は挙手した。「恵媛もコーラ」
「ええ~、あんた、こないだ飲まれへんかったやないの」
うちの家は伝統的に子供にはオレンジジュースを飲ませる。だからみんな最初はオレンジジュースを好きになる。ジュースの選択権を得るためには自分で殻を破るしかなく、本人が他の飲み物に興味を示すことが通過儀礼となる。恵媛は年末に初めてコーラに手を出したが挫折していた。炭酸の刺激が強すぎた。
「今日はコーラにしてみる」
抑えた声には決意が込められていた。ぼくはダイニングテーブルの方へ顔だけ向けて、
「やっぱり今日はオレンジジュースにしとこかな」
と言った。母は目を合わせて頷いた。恵媛がコーラを飲めなかったら交換してあげるつもりでの申し出であることを悟ったからだ。もし今日も無理だったら泣くに決まっていて、そしたらこっちが言葉で慰めるだけじゃ妹の心は慰められない。母も祖母もどうせジュースは頼まずうちのお茶を飲みたいと思っているに違いないから恵媛に飲ませるものもお茶しかない。自信を喪失した状態ではいくらおいしいピザでもお茶を挟むたびにかなしくなる。
ぼくは小村家で一番澄治と恵媛に甘い。
この甘さが二人の性格に何らかの影響を与えている。
ぼくはいつもこのことを考える。しかしそれは厳しくしても無関心でいても何かになるわけで、一概に悪影響ばかりだという決めつけはできない。程度問題だ。例えばもっと甘ったるく接したら、さすがに二人とも違和感を感じて距離を置くだろう。かと言ってこれが自分の役割だ、なんて考えでこうなっているのではなく、したいように接しているだけだ。
澄治が言った。
「恵媛どうせあかんやろ。また泣くもん。ぼくは幼稚園のときから飲んでるけど、クラスにも飲めない女子おるで。ずっと飲めなくても恥ずかしいことと違うで」
「飲むもん。飲めるもん」
「いーや、無理やね。賭けてもいい。なんなら――」
「まあまあ」
ぼくは澄治を宥める。「飲めるか飲めないかじゃなくて、飲みたいものを選んだらええやん」
「まさつぐ」
恵媛はソファーから立ちあがってスリッパをぱたぱた言わせながらぼくのところへ来た。「恵媛が今日、コーラ飲めたら、まさつぐのぶんのナゲット一つちょうだい」
映画のセリフみたいなことを言った澄治が用意した展開はおそらくナゲットを賭けて勝負する、という流れだった。恵媛は澄治とできるできないで言い争うのが不毛だと感じたのか、それとも賭けを敏感に察知してやっぱりちょっと自信がないからぼくのところへ逃げてきたのか、あるいはもっと冷静に、クルトンの件で澄治からナゲットをもらうことは確定しているつもりだからややこしくなる前にその一つを守ろうとしたのだろうか。どういうつもりだったかはわからないけれどなぜかぼくにまでナゲットを要求した。確かに争いは何も生まないし自信がないなら安心させてやりたい。ぼくももう十五歳だからナゲットの一つや二つ妹にくれてやっても構わない。兄 和崇なら正義感が強いから恵媛にもわかる言葉でちゃんと振りわけられた個数を守ってみんなで幸せになることの大切さを説くかもしれない。けれど多分恵媛はこういう要求のしかたを兄 和崇にはしない。兄のそういうリアクションは六歳の恵媛にも充分想像できることで、説教されるのはうっとうしいからだ。ぼくは妹の申し出に快諾した。恵媛がコーラを飲めたらぼくのナゲットが一つ減る。飲めなかったらぼくがコーラを飲める。急にコーラが飲みたくなったとこやねん、とぼくはナゲットを一つお礼としてあげるだろう。
ピザは注文して三十分もかからずに来た。
母が「誰か運ぶの手伝ってや」と言うと澄治と恵媛はソファーから飛びあがって玄関へと走り、ついでにねこのびびすけまでが興奮して二人を追いかけたのでリビングの反対側のソファーでくつろいでいたぼくも急いでびびすけを捕まえにいった。玄関の隙間から脱走するかも、と慌てた。イエネコは事故や外のねこと喧嘩してケガをするリスクから室内飼いが推奨されていて、うちはびびすけを外には出さないようにしていた。二人ともピザに夢中で後ろのびびすけなんか見ちゃいなかった。なんとかダイニングと玄関を仕切るドアの前でびびすけを抱きあげ、二人が開けっ放しにしていたそこを閉める。
びびすけが外に出たらどんな行動をするのか、それはぼくにはわからない。案外初めてだと本人も出たはいいがどうしたらいいかわからずその場をうろうろしたりしゃがんで地面をくんくんしているだけかもしれない。身体の大きさからすればこの家の部屋数やリビングダイニングの面積はぼくらより複雑で広く見えるだろうけれど三ヶ月の子猫のときからいるからほとんどここしか知らないし、快適に過ごしてそうな印象も実のところこの環境に適応しただけなんじゃないか。びびすけは外の世界を窓から見えている範囲しか知らないが実はガラスの向こう側はあまりにも広大な、どこまでも走っていける世界がある。健診や去勢手術で病院に行ったときはキャリーバッグに入ってメッシュ張りの覗き窓から外を見ていたけれど、そのことを理解できただろうか。仮に脱走したとして、縄張りである小村家にちゃんと帰ってくるのならいいのだけど、活発な男の子だから冒険心に火がついてしきりに外ばかり行きたがるようになったりしないか。もしびびすけが外に出ることばかりを考えて行動しだしたら今の感じの生活ならきっと突破される。例えば洗濯のとき。ベランダに通じる部屋のドアだけはちゃんと閉めきって人間たちは外へ出るようにしているが、びびすけも持ち前の忍足で一緒に部屋に入り、サッシが開いた瞬間に本気で駆け抜けられたらこっちはきっと反応しきれない。あるいは春や秋の過ごしやすい時季に窓を開けているとき。網戸ストッパーは取り付けているけれどいつか仕組みを理解するんじゃないか。ぼくらの行動は普段よく見ているからストッパーが掛かっていない瞬間を窺ってサッシをこのぷにぷにした小さな手で開けるかもしれない。今日は澄治と恵媛を追いかけただけだけど、外へ出るために本気で考えて行動したらあんなに興奮せずしれっとドアの隙間を抜けてそのまま玄関まで行くかもしれない。今だって静かに歩かれていたらぼくも気付かなかっただろう。
「びびちゃんあっちが気になるねぇ。みんな行っちゃったねぇ」
祖母が言った。びびすけは元々抱っこが嫌いだからぼくのみぞおちを後ろ足で蹴って腕から飛びおりると、ダイニングテーブルにいる祖母の足元まで走り、ターンして今度はさっき澄治たちがいたソファーへ、そして再びぼくのほうへ来て床にあったねこ用のY字型のトンネルにその勢いのまま滑り込んだ。お尻が見えていて尻尾をぶんぶん振っている。「びびちゃんもご飯にしよか」
祖母が立ちあがる。
「びびすけ、ご飯やて」
ぼくが声をかけると勢いよくトンネルから出てきて、うぉきゃんん と声を上げ祖母のいるキッチンのほうへ走った。びびすけのご飯はシンク上の戸棚のなかにおやつと一緒にまとめてある。ねこは食べてはいけない食材が多いので基本的にキッチンには入れないようにしている。入口にあたる場所の床から天井にホームセンターで買ってきた二本の長い突っ張り棒と大きなワイヤーネットを結束バンドでそれぞれに取り付けて観音開きの扉を父が作った。オーダーメイドでそういう扉を設置できるらしいのだけれど自分で作りたかったようだ。閉じるときは大きな洗濯ばさみで二枚を一緒に挟む。天井まで隠すにはそれだけじゃ高さが足りず、その二枚の上にも小さめのワイヤーネットを重ねて壁を作った。びびすけはよじ登って天井との隙間からキッチンへ行こうとするだけじゃなく、正攻法で頭を押しつけて二枚のあいだから強引に入ろうとするから低い位置にどんどん補強用の洗濯ばさみが増え、さらに押しつけ防止用の小さめのワイヤーネットも百均で調達して増設した。観音開きの閉じた状態にさらに蓋をするのが狙いだ。こんなに不恰好になるならオーダーメイドするべきだったが、徐々に不恰好になっていったので誰もそこに気付いていない。それに、ごちゃごちゃと増えたけれど洗濯ばさみもワイヤーネットも結束バンドも安いので総額でもオーダーメイドの十分の一以下だろう。それにきっと父は費用を抑えることよりも自分で作って愛情を示したかった。
びびすけはキッチンのシンクの前のカウンターに飛びのった。このカウンターにもワイヤーネットは張られている。ねこ一匹のために料理を手渡したりできて便利なカウンターキッチンの利点を潰したことで母からは不満が出たが、すぐに慣れた。びびすけのためだからしょうがない、今やそれは小村家全員の共通認識となっている。たまにしか食べれないウェットフードをお皿に盛る祖母の手つきをびびすけはじぃっと見ている。
そこで母がドリンクとサラダの入った袋を、澄治が重ねたピザの箱を持って戻ってきた。続いて恵媛が両手で大事そうにナゲットの箱を持って現れる。瞬間温かいピザのいい匂いがリビングダイニングに広がる。
キッチンから祖母が出てくるとびびすけはカウンターから飛びおり、いつもご飯を食べている自動給餌器と給水機のあるリビング奥へとフローリングを爪でかりかり言わせながら猛ダッシュした。ピザをテーブルに置いた澄治が反射的にびびすけを追いかけ、食べ始めたびびすけのお皿を覗き込み、丸くなったその背中を一撫でして戻ってくる。
みんなで手を合わせていただきますをした。恵媛はナゲットを口に放り込み、早速コーラを手に大きな深呼吸一つしてからごくりと飲んだ。「んげ。喉が灼ける」
無理かと思ったが、ピザを食い、サラダを食い、ナゲットを食い、合間にコーラを挟む。泣きながら、それでも敗北はせず、何度もゲップをしながら飲めるようになった。ぼくは約束通りナゲットを一つあげて、すでにクルトンとナゲットを交換していた澄治がぼくの真似をしてか「さっき無理って言って馬鹿にしたからぼくもあげるわ」とさらに一つ恵媛にやって、それじゃ澄治のん二個しかないやん、とぼくは澄治にも一つあげたのだけれど、
「おばあちゃん、こんなに食べられへんわ。一個でええわ」
と祖母が孫三人に一つずつ配って、こうやって言っているとわかりにくいが本来一人四つずつ、合計二十ピースあったナゲットのうち八つを恵媛が食べた。
8.へ続く
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