3. 割食う役割【2/3】

 まず、母の教育観が行きすぎていることについて、ちょっと落ち着いたほうがいいとかそういう感じでさっきまで母が諭されてたんだな、というのが部屋に入ったときの雰囲気で一発でわかった。何も聞かなくても自分が間違ってはいないことが証明された気がしたら、なんだか母があわれにも見えてきて、別に二人とも寄ってたかって口撃したりするような人ではないけど、小村家の嫁という立場で一人だけ違う教育観で暴走して、家出しかねない様子で長男がいなくなればまぁ落ち着けよくらいは言われるだろう。全部聞いたわけじゃなくて想像だけど、空気感がまさにそんな感じだった。リビングのテレビの前のソファーには澄治と恵媛がちょこんと並んで座っていて、テレビの音量は小さめで、こっちをしきりに気にしてちらちら見てくる。あーあ、こんなヘンな空気、と思って、

「新刊の漫画、コンビニにあるかなって思って行ったけどなくて、遠くまでコンビニハシゴしたけどどこもなかったわ」

 と言った。

「そうか」

 父さんの目を見て言ったから父さんが応えた。母はこっちに背中を向けてたから顔は見えない。みんなそれっきり無言だから部屋に行こうとしたら、

「和崇。何か言いたいことは?」

 とおばあちゃんが言った。

 言いたいこと? そんなもの山ほどあったんだけどもうどうでもよくなっちゃってたし、すぐにはまとまらないから無言で考えていると、

「ちょっとお母さんも考えを押しつけすぎたわ」

 と母がこちらへ顔を向けて言ったから、

「もういいです」

 と言った。「こっちも早くからもっと意見を言うべきでした」

 母はきっと父さんたちから「和崇の気持ちをもっとわかってやれ」的なことを言われているはずだからそう応えて、あ、これ、なんか敬語で受け応えするとちょっとバリアを張ってるような、こっちもオトナな、対等な立場で喋れてるような気になるぞ、というのを発見した。「あ、言いたいことは、進路は自分で考えて決めたいです。塾は受験終わるまでは通うので大丈夫です。あ、あと、吉岡は友達なので吉岡の家のことは悪く言わんといたってください」

「はいはい。わかりました」

 と母は言った。

 これ以上この、小村家に今までなかったヘンな空気が耐えきれなくなって、

「風呂入って寝るわ。お風呂って沸いてる?」

 とおばあちゃんに訊くと、

「さっき沸いたとこやから行ってき」

 という返事で、救われたと思いさっさと風呂に入った。頭を洗ってるときちょっと泣きそうになったけど、なんで泣きたいのか、泣く理由が自分でよくわからなくて説明できそうにないから答えは出さず、髪も乾かさず布団を被って無理矢理楽しいことを考えて涙を引っ込めて寝た。

 その日から母には敬語で喋るようになった。元に戻したいとも初めは思ったが会話の機会も減ったし、慣れればそれなりに堅苦しさもほぐれて柔らかい敬語になった。将来大人同士で喋るときのために敬語を使う練習になっていいか、とも思った。

 母の学業至上主義なところ自体はそれ以降も特に変わらなくて、さっき言ったみたいにギターを買えば激怒するし、正嗣にはやっぱり勉強のことはちょっとうるさいかな、とか、また父さんたちに怒られちゃうよ? とか内心思うときがある。多分あの人はああいう人で、こっちへの風当たりが弱まっただけで(諦められたと言うべきか)、標的を変えてまた繰り返すのかもしれない。現に澄治や恵媛にはどこかから教材を仕入れてきて英語を勉強させようとしている。別に知ったことではないが、結局最後どうするかは澄治たちが決めることだ。

 で、最近ずっと読書をしている正嗣、それに影響されて本を読みだした澄治、その真似をする恵媛、それぞれに対して母は「ケッコウなことやないの」と感心していて、正直な本音を言ってしまえばこいつがなかなかヘビーだった。自分が疎かにしてきたそっちの感性を弟たちが早くから養っていることへの焦り、とさっきは言ったけどそれはどんどん養ってくれればこっちだって兄として喜ばしいことで、だからやっぱり焦りというのは少し違って、母の発言がいちいち胸にズキッときたり癇に障ったりすることがその時間帯特有の居心地の悪さの原因なんだと思う。

 母はいわゆる「読書=教養」「読書家=勉強家」というイメージに囚われているタイプで、でもじいちゃんや父さんは本棚を見る限りとてもそういうタイプにゃ見えないから、なんかちょっとズレてんだよなぁこの人は、といらいらする。じいちゃんも父さんも映画や音楽が好きで、多分それと同じように小説を楽しんできた。それは話していればわざわざ掘り下げて訊かなくてもわかるし、本棚は二人とも小説ばかりだから、決して教養のためにブンガクを学んだり社会的な評価のために読書を嗜んできたのではない。そんな本を小村家の息子が読み始める……いや、それは単に芸術への目覚めだろ。もちろんそれだって大いに「ケッコウなこと」ではあるが、晩ご飯のあと寝るまで映画を二本観たり、こっちから頼んでもいないのに父さんにギターを買ってもらっただけで怒られた身としては腑に落ちないところがある。

 母は正嗣に対してもまた、息子の芸術への目覚めなんか見えちゃいないから気付いてはいなくて、気付いたところできっとどうでもよく、いずれ読書をしてきた次男の行為が全然勉学に結びついていないことだけには気が付く。途端に正嗣の読書そのものを不良行為と見做して厳しく取り締まろうとするのではないか。それと同じようなことをまた次は澄治、恵媛に向けてもどうせやってしまうんだろ? そんな想像が働いて、胸くそが悪い。もしそのようなことになれば長男として全力で止めよう。そのときは自分ももっと大人だから、このあわれな母親に拳ではなく言葉で、丁寧に、ちゃんとわかるような理屈をつけて説明してやらないといけない。そんな日が来るだろうと予測して今後も目を光らせておく必要がある、と、自分の高校受験を棚に上げて熱くなってしまうのだった。

 今日も本当はリビングのでっかいテレビで映画を観たいのだけれど、最近は図書室みたいになるから遠慮しようか、それとも部屋でタブレットで観ようか、と考えてみたが答えは出ず、家に着いた。竹とんぼをしていた弟二人に声はかけなかった。どうせ家で会うのだから。



3.【3/3】へ続く

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