第31話 通じる思い
継承式は取りやめになり、婚姻の宣言は正式にされず次の朝を迎えた。
白々とした夜明けの光が石造りの城の回廊を淡く照らす。人々のざわめきはまだ収まらず、広場の喧騒はまるで悪夢の余韻のように残っていた。
その頃、ベッドの上でマコはただ目を伏せ、呼吸の浅さだけで生きていることを示していた。
蝋燭の炎に照らされた横顔は透けるように白く、胸の上下はかすかに揺れるだけ。
一旦は王妃の命により地下牢へと囚われたマコだったが、ほどなくその采配で、別の部屋――治療が施せる明るい部屋へと移されていた。王妃自身が、ルークへと奇跡を施したあの光景を目の当たりにしてしまったがゆえに、聖女の力を諦めきれなかったのだ。彼女は己の執念と欲望に従い、城所属の研究者にその望みを託す。
その研究者の名は、リィ。
柔らかな長い髪を後ろで無造作にまとめ、白衣の裾を翻しながら、彼女は机に器具を並べていく。ガラス瓶に入った薬液、乾燥させた薬草の束、銀の匙とすり鉢。並べられた品々は戦場や貧民街で命を繋ぐために使われるものと大差なかったが、そこに立つリィの所作は、学問と経験に裏打ちされた冷徹な正確さを纏っていた。
「……あなたが“聖女マコ”ね」
リィの声は澄んでいて、その瞳は冷静で観察者の光を湛えていたが、奥底には温かな憐憫がかすかに宿っていた。
マコの瞳は半ば閉じられ、問いかけに応じることもできない。細い指が布団の上に落ち、ただその存在だけが生を示していた。
リィは手際よく薬液を調合し、匙にすくってそっとマコの口元にあてがった。
「大丈夫。これは毒なんかじゃないわ。少しでも体が楽になるように、私が調合したものよ」
冷えた唇がかすかに開き、マコはわずかに喉を動かした。薬が舌に触れると、弱々しい反射で咳き込み、胸が小さく震える。リィの眉がわずかに寄った。
それでもマコは懸命に薬を飲み下そうとした。喉を上下に動かし、わずかな液体を体に取り込む。その様子を見て、リィは静かに頷いた。
「……飲み込む力も残っていないのね。命を削って施すものを奇跡とは呼ばないわ。悲しむ人がいることを忘れちゃダメよ」
その声には叱責の鋭さと、同時に母のような慈しみが混ざっていた。
リィはマコの着ていたドレスの紐を解き、労わるようにゆっくりと脱がせていく。煌びやかな布地は、弱りきった体には重く、まるで鎖のように彼女を縛っていた。代わりに用意されたのは、柔らかい麻布の服。袖も裾も簡素で、しかし動きやすく温かい。
「私のお古だけど、使い勝手がいい服よ」
リィがそう囁くと、マコは少し微笑んで会釈をした。その小さな仕草が、リィの心をほぐした。
学者として冷静であろうと努めてきた彼女の胸に、知らず柔らかな温もりが広がっていく。
やがて促されるままに、マコはまた瞼を閉じ、微睡みの中に沈んでいった。
――その時、扉を叩く音がした。
「入って」
リィが扉を開くと、鎧を纏った影が立っていた。黒鉄の甲冑を纏い、面頬に隠された表情は読み取れない。だが、その姿から滲む気迫と重さは、部屋の空気を一変させた。
「マコは!」
「寝てるわ。殺気を消しなさい、ダダ漏れ」
リィは言葉を切り、視線をベッドへと向けた。鎧の隙間から、低く押し殺した息が聞こえる。彼がどれほどの感情を抑えているか、リィにはすぐに察せられた。
レオンがベッドに近づくと、マコは浅い眠りから目を覚ました。重たい瞼がかすかに揺れ、青白い頬に微かな赤みが差す。
レオンは黙したまま、鎧越しにマコの手を取った。硬い金属の感触を隔てても、その温もりは確かに伝わる。すると、その青白い顔にわずかな血色が戻っていった。
リィは思わず息をのむ。
「レオン……あなた……」
レオンの拳は震えていた。
彼の胸を締めつけるのは、マコを護れなかった悔しさだった。地下牢に囚われ、無力に横たわる姿を前に、剣も盾も意味をなさない。護るべき存在を護れなかった騎士の痛みが、喉元まで込み上げてくる。
――もう、これ以上は誤魔化せない。
鎧がきしむ音が響いた。外套が床に落ち、硬い面頬を外した瞬間、そこに現れたのは鋭い瞳を持つ青年の素顔だった。汗と涙を堪えるその表情は、仮面の下に隠されていたすべての感情をさらけ出していた。
「……帰ろう」
その声が部屋に溶けた瞬間、閉じられていたはずの瞼が震えた。
かすかに目を開いたマコは、信じられないといったように彼を見た。頬が震え、唇がわずかに動く。
「……れ、……おん……?」
涙がじわりと頬を伝う。牢獄の孤独、希望を失いかけた時間、すべてがその声と温もりに溶けていく。
レオンは膝をつき、そっと彼女を抱きしめた。鎧の冷たさなど気にならない。ただ、その腕の温もりだけが、消えかけた命を呼び戻す。
「……すまなかった。君を守るはずなのに、何もできず……でも、もう二度と離さない」
リィは視線を逸らし、静かにその尊さを守ろうとした。
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