100物語

@mugichaa

第1話 聞こえない人

表で母がヒステリックに叫んでいる。

慌てて家の外に飛び出すと、母の標的になっているのは還暦過ぎた母よりも二回りか三周り上であろう歳の骨と皮ばかりの弱々しい老婆だった。なんとか母をなだめて家に入れ、老婆に謝罪する。老婆は耳が遠いのか、何が起きたのが分からないというように固まっていたが、平謝りする私を一瞥して去って行ってくれた。通行人が立ち止まってこちらを見ていたが、当人達が居なくなってそちらも散っていった。

母は若年性認知症になり、日によっては攻撃的になる。今までそれだけ気を張って頑張ってきたのかもしれない。私は母を看るために仕事を辞めて実家に戻ってきた。今のところ退職した父が嘱託職員として働いてくれている。子供のようにわがままになったり、逆に子供の世話をするように口うるさくなったり、そうかと思えば正気に戻ったように話をする母に振り回されながら介護をするのは父には耐えられないと思う。かといって施設に預けることを考えると、この先の母の寿命と預金を計算するようで堪らなくなる。


翌日、庭で水やりをしていると昨日の老婆が家の近くを歩いていた。急いで駆け寄り昨日の母の非礼を詫びて怪我の有無を聞いたが、ぽかんとしていた。その様子に気づき、耳元に近寄りゆっくり大きな声で「きのうは、ははが、どなって、すみませんでした。おけがは、ありませんか?」と問いかけてみた。初めて老婆がこちらと目を合わせた。うれしそうに頷いている。

老婆の口がもごもごと動く、入れ歯が動き発音が聞き取りにくい。「…あう”いてた”」

どうやら歩いていただけで何も問題は無いと言いたげだ。こちらが加害者なのだが、老婆は自分の正当性を主張したいのか、首からぶら下げた大きなスマホを見せてくれた。

タップする指に満身の力が込められている。画面をじっくり確認しながら時間をかけて目的のものを開いていく。私は帰りたかったが立場上何も言えず、また老婆がスマホを使いこなしている様相に驚きを覚えていた。

健康を管理するアプリには日時と距離、時間、歩数、消費カロリーが並んでいる。老婆はなんと毎日13キロ歩いていた。縮小されたマップに通ったルートがぐるりと円を描いている。


それから日常の端で老婆を目にすることが増えた気がする。決まったルートをゆっくりと歩いて祠や樹の前でしゃがみ込み祈っている。

近所の人に聞いたらKさんという名前で、昔から祈りながら歩いているそうだ。それを目にする人たちはお遍路さんが巡礼しているようだとありがたく見守っていた。Kさんの姿を見るとあやかろうと手を合わせて祈る者もいる。


ある日、用事で立ち寄ったそばでKさんがお祈りしていた大樹をみつけた。

私もKさんにあやかってみようとその大樹に近寄った。

大樹の根元はゴミや雑草がなく、人の手で綺麗に整えられていた。正面の足元は踏み固められ土が凹んでいる。

「わっ」

バランスを崩して転びそうになり、とっさに樹に手をやったが変な質感がした。

ふと木の裏を見てみた。

おふだがびっしりと貼ってある。

あまりのことに逃げ帰った。

おふだは見たことのない文字で一般的な神仏の類ではないのは一目で分かった。


母がKさんに何を言っていたのか聞いてみた。

「だってKさん変なおふだ貼って回ってるのよ。気持ち悪いじゃない。うちの近くでも祈るから、やめてって言ってただけよ?ほら、Kさん耳が遠いじゃない。近寄るのは気色悪いし、でも何度言っても駄目ね。」

思い出してぷりぷりと怒っている。

私は呆気にとられた。

母は至極真っ当だったのだ。


Kさんは今日も祈っている。

町を囲むように一周しながら。

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