第3話-1
3話深夜、ヴァルグレア王国から二十キロメートル離れた原生林。
僕とフィナさんは、漆黒の森を縫うように駆けていた。 古い樹木が頭上で枝を絡ませ、まるで天然の屋根のように空を覆い隠している。 月明かりがわずかに木々の隙間から差し込む中、落ち葉を踏みしめる僕たちの足音だけが、死のような静寂を破っていた。
「目標地点まであと二キロメートル。周囲の様子は?」
フィナさんの声が、冷たい夜気に響く。
「...静か過ぎる。鳥も虫も鳴いていない」
僕は立ち止まり、呼吸を整えながら周囲を警戒した。 普段なら夜の森には様々な生き物の気配があるはずだが、今夜は異様なほどの静寂に包まれている。 まるで森全体が息を潜めているかのようだ。
僕のガントレット型術式兵装が淡く青白い光を帯び始めた。 金属の表面に魔力が収束し、微かな振動を発している。
「ノクスくん、そろそろ戦闘準備をしておいて」
フィナさんの表情が、任務モードへと切り替わった。
「了解」
僕は返事と同時に、ポケットから十センチメートル程度の球体を取り出す。 手のひらサイズの黒い球体は、まるで生きているかのように脈動していた。 そのボールに術力を注入すると、まるで水銀のように液状になり、僕の指先から腕、そして全身へと這い上がっていく。
液体は僕の体型に合わせて形を変え、黒いボディスーツの形状を作り出していく。
「申請出力は四〇パーセント。超えないようにしてよ」
フィナさんの声に、わずかな心配の色が混じっているように感じた。
「わかりました」
液状のスーツが全身に行き渡ると、僕の体型にぴったりと密着した。 まるで第二の皮膚のようにしなやかに動き、関節部分では柔軟性を保ちながら、筋肉の動きに完璧に追従する。
このパワースーツの真の役割は、装着者が意図的にリミッターを解除した際の反動を軽減することにある。 通常、人間が身体能力の限界を超えた力を出せば、筋繊維の断裂や神経の損傷は避けられない。 骨格にも想像を絶する負荷がかかり、最悪の場合は永続的な障害を負うことになる。
しかし、このスーツがあることで、ある程度までならその破壊的な反動を抑制できる──つまり、安全に「限界突破」が可能になるのだ。 ただし、それでも僕の肉体への負担は決して軽いものではない。
フィナさんはスーツの装着を済んだ僕を見て頷いた。
「よし、じゃぁ急ぐよ!」
その言葉と同時に、フィナさんの姿が霞のように消えた。 いや、消えたのではない──人間の動体視力では捉えきれないほどの超高速で駆け出したのだ。
僕も続いて彼女を追う。
(リミッター解除二〇パーセント)
そう意識すると共に、ボディスーツが反応した。 微細な電流のような感覚が全身を駆け巡り、筋肉の奥深くから力が湧き上がってくる。 本来なら激痛を伴うはずの筋肉への過負荷が、スーツの力によって和らげられる。
それでも痛みは確実に存在していた。 筋繊維が限界を超えて収縮し、骨格がきしむような感覚。 生身なら動くことすら困難になるレベルの負荷だが、スーツがその大部分を吸収している。
僕は歯を食いしばりながら思った。
フィナさん...本当にスーツなしで、生身でリミッター解除してるのか。 どれだけ規格外なんだ...。
目の前を駆けるフィナさんの背中は、まるで散歩でもしているかのように余裕に満ちている。 息も乱れず、足音も軽やか。 まさに人間離れした身体能力だった。
痛みを無視しつつ、僕は必死にフィナさんに追いつこうとする。 僕たちは暗闇の森を、まるで影のように駆け抜けていく。
しばらく駆け抜けていると、フィナさんが突然足を止めた。 僕も慌てて停止する。
「止まって。観測班から言われたのはこの辺り。こんな森林にいるやつらなんて、あいつらしかいない」
フィナさんは「わかってるでしょ?」と言いたげな表情で僕を見つめた。 その瞳には、獲物を見つけた捕食者のような鋭さが宿っている。
「ジェスパ=ブルーンですか...なら上空からの奇襲に注意しないと」
僕は周辺の警戒を強めた。 頭上の枝々、足元の根っこ、そして周囲の木々──どれが本物の植物で、どれが擬態した魔獣なのか判別がつかない。
フィナさんはそんな僕の様子を観察しながら、くすりと笑った。
「あんた...本当に任務の時は、人格のスイッチ変わるよね。普段のあんたなら、『そ、そんなに見つめないでくださぁぁい』とか言って、笑わせてくれるのに」
「そんな余裕、今の俺にはないですからね」
僕は嘆息するフィナさんを横目に、ぼやくように答えた。 戦場では一瞬の油断が命取りになる。 特に擬態能力に長けた魔獣が相手なら尚更だ。
「あぁ、やだやだ、若いのにそんなこと言わないでよ」
その時──
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