二章五話 判断ミス

 ──カオルを守りたい。


 ──カオルを助けたい。


 ──だから、見捨てなければならなかった。




 ──見捨てた結果が、あれだ。


 ──ココアは、カオルのことも、少女のことも、最悪な形で振り回した。


 ──死への恐怖と、カオルへの依存と、忘却のへ畏怖が、ココアから、失ってはいけないものを奪おうとした。


 なら、ココアは──


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「────」


 失われた頭部が、カオルの瞳の中に映っていた。


「──ココアちゃん? 顔色悪いよ?」


「──ぁ、」


 声が、漏れた。小さな、蚊の鳴くような声。


「──ココアちゃん?」


「──あ、」


 鮮明に、記憶が過ぎる。


 疑った。少女のことを。あの少女は、二度目の爆発寸前、何もしていなかった。


「──あ、……ぁ」


 殺そうとしていた。それがどれだけ恐ろしいことか、ココアは理解する。


 自分が殺されて、怖かった。

 あんな思い、カオルにもアウルにもして欲しくなかった。


 カオルに忘れられて、焦っていた。

 早く思い出して欲しくて、役に立ちたかった。


 ──カオルを、失いたくなかった。

 そのために、この手が血に濡れてもいいと、思っていた。


「──ココアちゃん?」


「────っ!!」


 カオルの声をきっかけに、ココアの中に、濁流のような感情が溢れ出す。


「──ちがう……」


「え?」


「わたしは……」


 胸の奥がじくじくと痛む。呼吸をするたび、心臓の周りに刺さった細い棘が、まるで位置を変えるように軋む。そのわずかな痛みが、いまの自分の脆さを突きつけてくる。

 言い訳も、理由も、整理もできない。心の中に沈んでいる黒い塊は、触れれば壊れて粉々になるのに、壊れた破片がさらに鋭く突き刺さってくるだけだと分かっている。そのくせ、放っておけば膨れ上がり、自分を内側から締めつけていく。


「────ぅ、」


 恐怖が胸を満たしていた。過去の痛みではない。失われるかもしれないという未来のほうが、ずっと冷たく、まだ形になる前から心の奥を凍らせていく。嫌われる想像だけで呼吸が止まり、胸がすぼまり、視界がぐらつく。


「────っ」


 逃げる場所もない。隠れる場所もない。目をそらせば、きっとその瞬間にすべてが遠ざかってしまう気がして、けれど見つめ返す勇気もない。自分がどれほど歪んで、必死で、弱かったかが、いやというほど露わになってしまう。


「──ココアちゃん?」


 胸の奥に沈んでいる黒い塊は、時間が経つほど重さを増していく。最初は心臓の上に乗っているだけだったそれが、次第に胸郭の隙間へ入り込み、肋骨の裏を這い、肺の奥に触れ、呼吸そのものを濁らせていく。息を吸うたびに冷たい空気がその塊に当たり、ひどく鈍い痛みを生んだ。吸っても吸っても足りず、吐くたび胸の奥が小さく軋む。


「どうしたの? どこか痛い?」


 罪悪感は、形を変えながら増殖した。一つ思い出すたびに、その裏側からまた別の後悔が顔を出す。後悔を押し隠そうとすると、今度は恐怖が浮き上がる。どれか一つを押し込めば、それを隠した暗がりの中でさらに巨大な影へ変質していく。


「ココアちゃん……? 大丈夫?」


 膝がわずかに震えた。足元の感覚が遠ざかり、自分の体重がどこにかかっているのかすら曖昧になる。存在するという実感が薄れ、身体が浮遊するような不安定さに襲われる。


「──ココアちゃん、聞こえる?」


 心の底に、静かに沈む音だけが響いた。まるで沼の底で気泡が一つ弾けるような、湿った、重たい音だった。

 沈む。どこまでも沈む。底があるのかすら分からない暗闇へ、心だけが落ち続けていた。


「──ココアちゃん」


 ひとつの感情の重みが臨界を超えた瞬間、心の壁が内側から静かに軋み、その次の瞬間には、抑えていたものすべてが音もなく崩れ落ちていた。

 まず、胸の奥にあった黒い塊が裂けた。圧縮され、凝固し、鈍い痛みを孕んでいたそれが、耐えきれず破裂したように広がり、破片となって心の内側に降り注いだ。破片一つひとつが鋭く、触れた場所を容赦なく切り裂いていく。痛みはもはや一点に留まらず、心全体へ散り散りに広がり、どれがどの感情なのかすら判別できなくなる。


「聞いて」


 呼吸が壊れた。吸うことも吐くこともできず、ただ喉がひきつり、空気の通り道が細く縮まっていく。胸が強く締めつけられ、心臓が暴れたように跳ね、身体は自分のものではないみたいに震えた。酸素を求めて必死にもがいているのに、肺は必要な量を取り込めず、頭の奥へ鈍い圧迫感だけが響いてくる。


「俺を見て」


 心の中の観念が、ひとつ、またひとつと形を失い、最後には自分という輪郭さえ曖昧になる。それでも感情だけは生々しく残り、その生々しさがさらに心を引き裂いた。


 胸が痛い。

 苦しい。

 怖い。

 逃げたい。

 消えたい。

 助けて。

 嫌だ。

 どうしよう。

 どうにもできない。

 どうしたら――。


「抱え込まないで」


 言葉が連続して押し寄せ、混ざりあい、圧力のような衝動になって全身を突き上げる。理性は押し潰され、呼吸は乱れ、四肢は痺れ、身体の内部だけが灼けるように熱く、その外側は氷のように冷たい。


「息をして」


 次いで、内側から世界が崩れる感覚が襲う。視界がにじみ、光と影の境界が消え、頭の中に張られていた細い何本もの糸が、一斉にぷつりと切れたような虚脱が訪れる。


「ココアちゃん」


 破綻は、爆発ではなく、静かな崩落だった。壊れる音すらしない。ただ、戻れない境界線をひっそりと越えてしまうだけだっ──


「ココアちゃん、しっかりして!!」


「──え?」


 泥のような濁流が、終わることのない思考が、突如としてシャボンのように弾き飛ばされる。


 愛しい声と、待ちわびた温度が、ココアの体を掴んだ。

 その事実をゆっくりと咀嚼し、ココアの瞳に、カオルが映る。


 瞬間、肺を酸素が満たし、世界に色が戻った。

 そして、最初に世界に現れてくれたのは──


「──ご主人様……?」


「ココアちゃん、大丈夫……じゃないよね。ごめん。アウルさん、一回停めてください! 休みましょう!」


「──? 分かった。……もしかして、ココアちゃんになにか?」


「多分そうです。俺が話を聞いてみます」


「そっか。そうしてあげて」


 馬車がゆっくりと速度を落とし、ココアの体がカオルの方へと倒れ込む。

 それに、嫌がる様子もなくカオルはココアの髪を撫でた。


 ココアの心の内を流れていた濁流が、ゆっくりとなりを潜めていくのを感じる。


 だが、それは、悲しみが消えてくれるわけではなく。


「──ご主人様……?」


「──うん、ごめんね。ちょっと、話そう」


 カオルの暖かな声だけが、ココアの凍りついたような心に、触れることが許されていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「落ち着いた?」


「──はい。ごめんなさい、さっきは……」


「ううん。俺の方こそごめん。ココアちゃんのこと、全然考えれてなかった」


 膝を向かい合わせ、ココアとカオルは二人きりの空間で話す。


 カオルの話によると、ココアは頭を抱え、呻き声を上げながら泣き伏せていたそうだ。

 呼吸も忘れ、虚ろになっていく瞳を見て、焦ったカオルが肩を掴んだところ、意識がこちらへ戻ってきたのだと。


 思い返せば、時々、カオルの声が聞こえていた気がする。

 あれは、カオルが懸命に話しかけていてくれた結果だったのだろうか。


「──俺、ね」


「──っ! はい!」


「……ココアちゃんは、強い子なんだって思い込んでた」


 カオルの言葉に、ココアは面食らい、黙る。

 カオルは申し訳なさそうに眉を下げたまま、ココアの細い指を手に取り、ぎゅっと握る。

 温もりが心地よく、振り払うことはしないが、行動の意味がよく理解できず、ココアは混乱してしまう。


 ──何故、こんなことを?


 ──カオルは、ココアを覚えていないはずなのに。


「俺は君を覚えてなくて、君に頼ってばかりで……アウルさんみたいに物知りでもないから、君に、生意気なことを言ったらダメだって思ってた」


「────」


「だから、君は強い子で、俺なんかが助けなくても、口を出さなくてもいいんだって思うことで、自分の心を守りたかったんだと思う」


 カオルの言葉は、彼の本音だろう。

 だが、ココアは、それを笑顔で受け止められない。


 ──カオルに、気を遣わせてしまった。

 ただでさえ記憶をなくして困っているカオルの心に、負担をかけてしまった。

 その事実が、ココアの全身に冷たい感覚をめぐらせる。


 どうしよう、どうしよう──


「──ち、がいます。ご主人様は悪くないんです、わたしが……わたしが、ちゃんと……」


「ううん、違う。ココアちゃんは普通の女の子で、特別な力なんてなくて……だから、そんな風に思ったらいけなかった」


「────」


 特別な力なら、ある。


 誰も真似出来ない、ココアにしか出来ないことを、するための力。


 だが、そんな思考を裏切るように、ココアの喉奥からは、吐息しか漏れず、反論は叶わなかった。


「──君が俺をご主人様って呼ぶ度、期待を裏切ってるのが申し訳なくて……でも、同じくらい、君を思い出したいって思って」


「────」


「──君が、初めて見せた顔は、すごく明るかったけど……俺の記憶のことを知ってから、ずっと暗くて……多分、俺のせいだって、分かってた」


 その言葉を聞いた瞬間、ココアの瞳は見開かれる。


 カオルのせいではない。ココアがこうなのは、ココアのせいで、カオルは悪くない。


 それなのに、それを伝えるだけの言葉が、口から出ていってくれない。


「だから、君に笑って欲しくて……でも、君の気持ち、分かってなかった。笑って欲しいのに気持ちを分からないなんて、ダメだよね」


「──ご主人様……」


「──だから」


 ココアの手を取り、カオルはココアの体を引き寄せる。


「──何があったのか教えてほしい。君の力になりたいんだ。俺じゃ、足りないかもだけど……」


「──ぁ、」


 嬉しかった。


 カオルが、ココアに寄り添おうとしてくれたことが。


 本当に、嬉しかった。


 だから、


「──ご主人様」


「──うん」





















「──なんでもありませんよ。少し、落ち込んでしまっただけです」


「──ぁ、」


 カオルの顔が、失意に沈むのを、ココアは見ていなかった。

 瞳を閉じて笑っていたから。


「────」


 ──カオルにだけは、言えない。


 これ以上負担を、背負わせたくないから。

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