第2話 飛跳

 遠ざかって怯える銀聡ぎんそうに、不思議そうに瞬きをした後、扶泫ふげんが歩いて近づいてくる。


「こ、こっちへ来るな!!」


「ああ。先程、わたしが人間を食うと言ったからですか。あれは嘘ですよ。わたしは草食なので安心してください」


 先程の追っ手たちとの対峙が噂となったのか、二人の周りには続々と人が集まってきていた。扶泫ふげんは自身のことを草食動物(神獣?)だと言うが、先程の老獪ろうかいで邪悪な笑みが頭から離れず、銀聡ぎんそうはその言葉を信じられない。


 銀聡ぎんそうの心を知ってか知らずか、扶泫ふげんは止まることなく歩き迫ってくる。そして、あともう一歩進めば銀聡ぎんそうにぶつかってしまう、という所でぴたりと歩みを止めた。


「先程も申し上げましたが、わたし扶泫ふげん、神獣です。君は何と呼ばれていますか?」


「…………銀聡ぎんそうだ」


 名前を聞いて、扶泫ふげんの表情が一瞬曇ったように見えたが、すぐに元の柔和な表情へと戻った。扶泫ふげんはきょろきょろと辺りを見回して銀聡ぎんそうに提案してきた。


「ここは人が多くなってきましたね、話す場所を変えましょうか。……では、失礼しますよ」


 銀聡ぎんそうの返答を待たずに、扶泫ふげん銀聡ぎんそうを軽々と抱えるようにして持ち上げる。身分の高そうな見た目をしているのに、泥だらけになることをいとわないらしい。


 そして、扶泫ふげんが地面を蹴るとふわりと体が飛び上がった。この間、数秒ほどの出来事である。


「……え?」


 銀聡ぎんそうが拒む暇もなく、扶泫ふげんは家屋の瓦屋根を蹴って空へと跳び、どこかへ向かっていく。


「――お、おい、降ろしてくれよ!? 助けてもらったのは感謝するが、どこかへ連れて行けと頼んだ覚えはないんだが!」


「君の傷だらけの身体を休めねばなりませんし、君に聞きたいこともあります。わたしの住む山へと戻りますよ」


 扶泫ふげんが空中高く飛び上がって進むと、家屋の屋根も人々も米や麦の一粒のように小さく遠ざかり、むら全体が見回せるほどになった。おまけに、風が顔や体に強く吹いてきて、銀聡ぎんそう扶泫ふげんが身に着けているほうにしがみついて目を瞑った。


「誰か、誰か助けてくれ……!!」


わたしが追っ手を蹴散らしたでしょう。危険は去ったのに何故助けを求める必要があるんですか?」


「お前だよ…………!! お前から助けてほしいんだよ!!」


 扶泫ふげん銀聡ぎんそうの言葉に首を傾げながら、地面を蹴っては飛んでを繰り返し、山々を超えていくのであった。地面から遠ざかる度に銀聡ぎんそうが気を失いかけたのは、ここだけの秘密である。



 扶泫ふげんの住まいである、無仙山むせんざんの山頂付近にある家屋へと到着した。


 無仙山むせんざんは瑞々しい果実が生る木や艶やかな緑色の葉を持つ木が生い茂り、透き通った水で満たされた小さな湖や、魚や動物の住処となっている川が流れている自然豊かな山である。


「着きましたよ、ここがわたしの家です」

 

 土壁に瓦屋根の建物、その建物を囲むようにして植物の垣があり、入り口には小さな木でできた門がある。神獣の家と聞き、銀聡ぎんそうは木の上や洞窟を想像していたが、人間の住む家屋と見た目は変わらないようである。


 扶泫ふげんはげっそりした銀聡ぎんそうを背負ったまま、意気揚々と門をくぐって家屋の中に入っていく。


「あのさ、そろそろ俺を降ろしてくれないか?」


「君はまだ歩けないでしょう、しょうまで運びますよ」


「ここでいい。しょうが泥だらけになってしまうから……」


 扶泫ふげんの高級そうな直裾袍ちょくきょほうは、銀聡ぎんそうの身体についていた泥ですでに汚れてしまっている。これ以上、扶泫ふげんの持ち物を汚したくないというのが銀聡ぎんそうの本音だった。銀聡ぎんそうには銭も地位もなく、高価な物は弁償できそうにないからだ。


 だが、扶泫ふげんは自身の持ち物が汚れたり壊れたりすることに対して、一切気にかけている様子がない。一体この美丈夫は何を考えているのだろうか、と銀聡ぎんそうは不安に思う。


「君がそこまで言うのなら、濡れた布と替えのほうを持ってきましょう」


 銀聡ぎんそうは木の板が張られた部屋の隅に降ろされて、扶泫ふげんを待つことになった。やることがなく暇なので、扶泫ふげんの部屋を観察する。部屋の中央にしょうがある以外は、つくえと思しき調度品の上に、竹でできた書簡が何冊か置いてある。


 部屋の中までも人間の住まいとほとんど変わらないらしい。人を食うという話も嘘ならば、神獣だという話も嘘の可能性がある。なんにせよ、銀聡ぎんそうにとっては扶泫ふげんが得体の知れない信用できない存在であることに変わりはない。


 そうこうしているうちに、扶泫ふげんが布と替えのほうを両手に持って部屋に戻ってきた。


「持ってきましたよ、さあ足を拭いて差し上げましょう」


「は? やめろ、自分でできる!!」


 うろたえた銀聡ぎんそうは布を扶泫ふげんから奪い取った。初対面の人間の足を拭こうなんて、扶泫ふげんが何を考えているのかさっぱり分からず、銀聡ぎんそうは大いに困惑した。


 ちなみに手足を拭いた後にも、扶泫ふげんが着替えを手伝おうとしたため、銀聡ぎんそうは威嚇した後、手早く自分で着替えたのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る