充たせ、充たせよ鼎

狩野緒 塩

青年と神獣の出会い

第1話 邂逅

「うっ……すみません」


 永陽えいよう八年、処暑のことである。小雨の降る中追い立てられるようにして、時々誰かにぶつかりながら線の細い青年――銀聡ぎんそうは人ごみの中を走っていた。道の両側には露店があり、商品や食べ物が売っており賑わっている。


 銀聡ぎんそうは着古した麻の短衣たんい袴褶こしゅうという身なりで、長い距離を走っているのに裸足であった。


 さらに目立つことには、銀聡ぎんそうの黒髪は短く切られていたのである。厳密に言えば、頭の低い位置で髪を無理やり縛っているのだが、雛鳥の尾のように短いので髪を縛っていないのと変わらない。


 ぶつかって振り返った男が、銀聡ぎんそうを一目見て思わず声をあげた。


「うわっ、罪人か?」


 一人の呟きから人々の視線が銀聡ぎんそうに集中し、口々に好きなことを言った。


「本当だ、髪が短い」

「でも、罪人は赤い短衣を着ているはずだろう?」

「じゃああれだ、髪が木の枝にでも絡まって千切れたんだろうよ」

「なんにせよ、ああはなりたくないな」


 銀聡ぎんそうは自身の髪を押さえ、驚いたように振り向いた。 


「…………!!」


 酷い言われようであるが、この時代髪の毛を切られる罰があるほど、長くのばされた髪の毛は大切であった。


 銀聡ぎんそうも好きで短い髪になったわけではないし、罪人でもない。だからといって、周りにいる見知らぬ人間たちに弁明する元気もない。結局、何も言わずに鋭い目つきで人々を見回し、また走り出した。



 人ごみを抜けると大きな門があり、門を抜けると住居の立ち並ぶ場所に出た。銀聡ぎんそうは足に強く大きな痛みを感じて、倒れこむように土壁にもたれかかった。足を見やると、裸足で走っていたためか泥だらけで、足の裏が切れて血が滲んでいた。


 銀聡ぎんそうは急に体に力が入らなくなって、大きく息を吐き、ずるずると地面に臥せってしまった。逃げなければ、逃げなければと思うのに、起き上がることができない。感情も体も泥に溶け込んでしまい、地面の一部になってしまったような気がした。


 銀聡ぎんそうにとって、これはいつものことだ。罰として足を木の棒で打たれたときも、転んで腕に傷を作っても、その後すぐに体の力が抜けたようになって倒れてしまう。


 銀聡ぎんそうの意識が遠のきそうになった、その時だった。


「あれ、君、何をしているのですか? 地面の真似?」


 その声で、銀聡ぎんそうの心は現実に引き戻された。落ち着いているが、夜空に小さく光る星のようなきらきらとした輝きがある声が降ってきたのだ。この声に呼びかけられれば、どんな人も思わず顔をあげてしまうような。


 銀聡ぎんそうも例外ではなく顔をあげると、品のある顔立ちの青年が立っていた。枯黄色の長い髪に、瞳はぎょくのような翠色だ。小さな冠を被り、金属のかんざしを何本か付けているが髪を全て纏めずに背中に垂らしている。絹でできた直裾袍ちょくきょほうを身に着け、その上から高級そうな紗の袍を重ねている。二十代半ばくらいに見えるが、若々しさよりも老人のような落ち着きが勝っている。


「君、そのまま地面の真似をしていても良いけれど、あの人たちは君の追っ手でしょう?」


「……え」


 青年の指さす先を見ると、銀聡ぎんそうの見知った顔の男たちが武器を持ってうろついているのが見えた。


 追っ手たちと目が合う。


「いたぞ、あいつだ!」


 銀聡ぎんそうを見つけたとたん、追っ手たちが一直線に走ってくる。まずいと思うと同時に、銀聡ぎんそうは起き上がって逃げようとしたが、やはり足にも腕にも力が入らない。どうやら、自分で思っていたよりも体力を消耗していたらしい。


 すると、裾が泥だらけになるのも構わずに、青年がしゃがみこんで銀聡ぎんそうの肩に手を置き、耳元で囁いた。


「その傷だらけの身体を休ませたほうがいいです。君の代わりにわたしがあの者たちを追い払ってみせましょう、いいですね?」


 青年が微笑みかけてきたが、銀聡ぎんそうはか細い声で答えた。


「……危険だから、やめたほうがいい。どうせ逃げても……俺は”あの場所”に戻されるだけだ」


 銀聡ぎんそうはあきらめたように目線を下げたが、青年は優雅にやる気を見せていた。しかし、追っ手たちは各々手に剣や矛を持っているというのに、目の前の青年は丸腰だ。細身の体格で、腕っぷしが良いわけでもなさそうなのに、本当に対処できるのだろうか、と不安になる。一人だけならともかく、追っ手は何人もいるのだ。


わたしは強いですから、安心してください。…………それに追い払うのをやめてしまうと、君はもっと傷だらけになってしまう。誰かが傷つくのをわたしは見過ごせないですから」


 どうして銀聡ぎんそうが体中傷だらけだと分かったのかは分からないが、この青年はこの世に比類なき心優しい性格らしい。


 青年が立ちあがり、追っ手たちと対峙した。朗々と、そして不遜に追っ手たちに語りかける。


わたし扶泫ふげん、神獣である! 君たちには申し訳ないが、私の好物は人間だ。傷だらけのこの男、わたしがもらい受けるが、良いな?」


 そう言い終えた瞬間、青年――もとい扶泫ふげんの温和な微笑みが、得体の知れない老獪ろうかいな笑みへと変化した。この美丈夫、人間を食うらしい。


「ひっ……!?」


 銀聡ぎんそうの心の中に別の種類の恐怖が生まれた。いくら弱っているとはいえ、会ったばかりの人間(神獣?)を信用すべきでなかったかもしれない、と思い直す。体の力を振り絞り、這いつくばって少しずつ扶泫ふげんから遠ざかる。


「何をぬかしてやがる! 扶泫ふげんなんて神獣、聞いたことがねえぞ!」


「嘘をついているんじゃないのか?」


「こいつを逃してしまうと、天明てんめい様に顔向けができない!」


 追っ手たちが口々に叫び、武器を構えて扶泫ふげんに向かって走ってくる。対する扶泫ふげんは優雅に立ち、自身の髪に挿していた金色のかんざしの一本を抜き取った。


「うぉおおおおりやあああ!!」


 追っ手の一人が剣を振り上げ、扶泫ふげんに斬りかかった。だが次の瞬間には、派手な金属音が鳴り響き、追っ手の剣が弾かれていた。


 扶泫ふげんが金色のかんざしを投げたのだ。剣は追っ手の手から離れ、空虚な音を立てて地面に落ちた。


「うぉっ!? 何をしやがる!」


 それを見た残りの追っ手たちも武器を構えて向かってくるが、金色のかんざしが飛んできて扶泫ふげんの手に戻り、何度も何度も武器を弾き返した。


「くそっ…………」


 繰り返すこと数十回。さすがの追っ手たちも疲れてきたようで、息は切れ、手からは今にも武器が抜け落ちそうだ。


 扶泫ふげんは金色のかんざしをくるりと回し、髪に挿した。


「幾度やっても同じことだ。それよりも、君たちは為すべきことがある。わたしが君たちを殺さぬうちに逃げ帰り、この人間のことは諦めよと君たちの主に伝えてくれ!」


 扶泫ふげんの言葉には、聞く者を従わせてしまうほどの風格があった。言葉を聞いた追っ手たちは、はっと気が付いて逃げ帰るように戻っていく。


 扶泫ふげんはその場から一歩も動かず、かんざしのみで追っ手たちと戦ってみせたのだ。


「怪我はないですか。いやあ、わたしの言葉にあの人たちが素直に従ってくれて良かったですね! どうですか、少しは威厳があるように見えましたか? …………あれっ、なんで君そんなに離れてるんです?」


 扶泫ふげんが両手を合わせてにこやかに振り向いたが、銀聡ぎんそうは三丈ほど離れた先にある住居を囲む土壁にもたれて隠れていた。扶泫ふげんが戦っている間に地面を這って遠ざかっていたのである。


「だってお前、人間を食うんだろ…………?」


 銀聡ぎんそうが震える指で扶泫ふげんを指さした。銀聡ぎんそうの顔は、今までにないほど青ざめている。


 それが、二人の出会いだった。

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