Chapter13 「トイレの刺客」

Chapter13 「トイレの刺客」


 米子は学校の帰り道に京王百貨店に寄り道していた。セーフハウスで使うコーヒーカップを買うためだった。生活雑貨は極力100円ショップで購入する事にしていたが、大好きなコーヒーを飲むためのコーヒーカップは気に入ったものを使う事にしていた。数少ない贅沢の一つだった。


 米子は最近、常に周りを警戒していた。半径5メートル以内に人が入って来た時はブレザーの内側にさり気なく手を入るようにしていた。ブレザーの内ポケットには小型のサイレンサーを装着したSIG-P365を忍ばせている。手の平サイズのP365は小型ながら9mm弾を撃てるのでディフェンス用にはうってつけだった。ブレザーの内ポケットもP365が収まりやすいように改造している。米子は白地に浅葱色の網目模様の入った磁器のコーヒーカップを購入した。買い物を済ませた米子は京王百貨店のトイレに入った。


 米子は用を済ませた後、洗面台の鏡を見ながら髪の毛を手で整えていた。米子がトレイに入った時には居なかった清掃員がモップで床を磨いている。薄いピンク色のユニフォームを着た60がらみの太った女性で短めの髪は白髪混じりだった。腰には大きめのポシェット着けている。トイレの入り口には清掃中と書かれた立て看板が置かれていた。米子は鏡に写る清掃員を眼球を動かさずに周辺視野を使って観察していた。清掃員がモップで床を磨きながら米子の後ろを通ろうとする。清掃員の両手はモップの柄を握っている。

鏡の中の清掃員が素早く動いた。米子は体を左に捻りながら左足を後ろに動かした。鏡に対して体が真横に向いた。銀色に光る細い物体と清掃員の右手が米子の腹の前を通る。米子は右手で清掃員の右手首を掴んで左の裏拳を素早く清掃員の顔面に叩き込んだ。清掃員の右手には短いモップの柄に細い刃が付いた刃物が握られていた。モップは仕込み杖だった。鞘の部分だったモップが床に倒れて『カラーン』と音を立てた。カウンター気味に入った裏拳は確かな手応えがあった。

「うごっ!」

清掃員が声を出して右手に持った刃物を床に落とした。たとえ不意打ちで刃物を持っていたとしても米子に近接戦闘を挑むのは愚かな行為だった。訓練所で身に付けた格闘術にはナイフや拳銃を持った相手にも対応できる『クラウマガ』のような高度な護身術も含まれていた。

米子は清掃員の髪の毛を両手で掴むと体を右に捻って清掃員の顔面を洗面台の縁に5回連続で叩きつけた。トドメに蛇口のレバーに思い切り叩きつけたると『ガキッ』とうい音がして前歯が折れた。米子は清掃員の後ろ襟を右手で掴むと引きずるようにして個室に押し込んだ。清掃中の立て看板があるので人は入ってこないと考え、個室の扉は閉めなかった。清掃員の女は床に尻もちをついたような格好で米子を見上げた。その目は怯え、鼻と口から血を流していた。


 「大きな声を出したら殺すから。わかった?」

米子が低い声で言った。

「わかった」

女が何度も頷きなら言った。

「名前は?」

女は黙っている。米子はブレザーの内側からサイレンサーの付いたSIG-P365を取り出すと清掃員の女に向けた、親指で安全装置を外す。

「私の事知ってるでしょ? 躊躇なく人を殺せるって」

「裏社会のサイトであんたの事を知った」

清掃員の女が答えた。

「サイトにどんなふうに載ってたの?」

米子は懸賞金目当ての殺し屋に初めて接したので興味を持った。

「あんたの名前、住所、通ってる学校なんかが載ってた。写真も何枚かあった。それに政府の工作員って書いてあった。びっくりしたよ。18歳の女子高生が政府の工作員とはね」

清掃員の女が言った。

「それだけ?」

「あと、あんたの死体の画像と体の一部を提出すれば2億円が貰えるって書いてあった」

「それで私を狙ったの?」

「そうだよ。女子高生なら楽勝だと思ったよ。工作員っていうのがちょっと引っかかったけどね。でも2億円あればこんな生活を抜け出せるし、若い男でも捕まえて楽しい生活ができると思ったよ」

清掃員の女は殺されないと思って安心したのか口調が軽くなった。

「ポシェット中身を出して。早く!」

米子が厳しい声で言った。米子は女に嫌悪感抱いた。人を殺すにはもっと深く暗い理由が必要だと思っているからだ。金のために安易に人の命を奪う感覚が理解できなかった。女は腹のポシェットのジッパーを開けると床の上にスマーフォン、折り畳み財布、ハンカチ、口紅、折り畳み式ナイフを置いた。米子はしゃがんで折り畳み財布とスマートフォンを拾うと素早く立ち上がって財布の中を確認した。財布の中は現金とSUICAのカードしか入ってなかった。スマートフォンはロックが掛かっていた。

「暗証番号教えて」

米子が言った。

「1107だよ。イイオンナさ」

清掃員の女が答える。米子が4桁数字を入力するとスマートフォンの画面が表示された。米子はスマートフォンをブレザーのポケットに入れた。


 「もう一回訊くけどあなたの名前は?」

「大山久美子」

「字は?」

「大きい山に普通の久美子だよ」

米子はショルダーバックかタブレットPCを取り出すとスイッチを押してスリープモードだったタブレットPCを使用可能の状態した。画面が表示されると内閣情報統括室の検索サイトにアクセスした。拳銃を持ったままの操作だったが家では食事の時でもエアガン持っているので拳銃を持ったままの操作は手慣れたものだった。

「今から大山久美子で組織のデータベースを検索するけど、もしヒットしなかったらあなたの命は無いから」

米子は女の目をじっと見つめた。米子の恐ろしく澄んだ透明な瞳に清掃員の女は恐怖を感じた。米子は大山久美子と文字を入力した。

「待って! ごめんなさい! 本当は『平野加奈子』。たいらの平に野原の野に加えるに奈良の奈に子供の子」

米子が入力した文字をバックスペースキーで消して平野加奈子と入力すると検索ボタンを指でタップした。ヒットした平野加奈子の情報は以下の通り。

『平野加奈子、61歳。1964年生まれ。フリーの殺し屋。ランクB。刃物を使った暗殺を得意とする。現在までに判明しているだけで12人を殺害。20代~30代の頃はクラブのホステスを生業とする傍らヤクザの情婦であった。38歳の時に当時付き合っていた暴力団組員と共謀して保険金目当てで2人を殺害。それ以来暗殺で稼ぐようになった。殺しの報酬は1人120万円から』

「あなたのプロフィールを読んだよ」

米子が言った。

「私の事をどうするつもりなの? もう全部話したんだから開放してよ」

平野加奈子が言った。

「あなたの他に私の事を狙ってる人は?」

米子が訊いた。

「それはわからないよ。私は裏社会のSNSで懸賞金の事を知って、そこからリンクで詳しい情報が書かれたサイトにアクセスしたからね。でも2億円だからあんたを狙うヤツは多いと思うよ。ただ三輝会からあんたの暗殺をしないよう通達が出てるから暴力団関係者は少ないと思うけどね」

「懸賞金が無くなったらどうなるの?」

米子が訊いた。

「そしたら誰もやらないよ。金にならない殺しなんかリスクしかないよ。まあ猟奇的なサイコ野郎ならやるかもしれないけどね。あんたカワイイから」

「懸賞金を掛けたのは誰だか知ってるの?」

「それは知らないよ。こんな事これまでになかったからね。だけどあのサイトは信用できるよ。でも不思議だね。2億円も払って高校生のあんたを殺そうとするなんてね。あんたどっかの大物によっぽど恨みを買ってるんだね」

平野加奈子が面白そうに言った。


 「この仕込み杖みたいなモップは自分で作ったの?」

「そうだよ。私は刃物を使った殺しが専門だからね。現場に応じて自作する事もあるんだよ」

「何で私がこのデパートに来るのがわかったの?」

「あんたを何日も尾行してたんだよ。掃除のおばさんの制服を服の下に着込んであんたがどこかのトイレに入るのを待ってたんだよ。そのモップは4つに分解できるようになってるんだよ」

「尾行には気付かなかったけど」

「そりゃそうだよ。これでもキャリが長いから気配を消す事ができる。重要なのは尾行だよ。刺すのなんて一瞬さ。肝臓を刺せばそれで終わりだよ。今回はしくじったけどね。あんた強すぎだよ。工作員ってのも伊達じゃないね。それよりこの歯、どうしてくれるの? 鼻だった腫れてるし。治療代を払ってもらいたいよ」

平野加奈子が悪態をつくように言った。

「人の命を狙っておいて随分な言いぐさだね。でも聞きたい事は聞いたから開放してあげようか?」

「そうしてもらえると嬉しいね」

「生きてて楽しい?」

米子が訊いた。どこか自分に問いかけているようにも感じた。

「楽しいわけないでしょ。こんな事やって生きていくしかない人生なんてさ」

平野加奈子が答えた。米子は平野加奈子の答えに、はたして自分は生きてて楽しいのだろうか、幸せなのだろうかとふと考えた。

「じゃあ開放してあげるよ、そんな人生から」

米子はSIG-P365の銃口を平野加奈子の額に向けた。

「ちょっ、やめ! やめてよ! やめてください! やだ、死にたくない!」

平野加奈子は米子の目を見た。その恐ろしく澄んだ瞳にハッとした。

『バス』

9mm弾が平野加奈子の眉間を撃ち抜いた。米子は懸賞金目当ての刺客は殺す事にしていた。自分を狙った者は必ず返り討ちに合う事を示したかった。


米子は神楽坂の部屋で平野加奈子から奪ったスマートフォンを通話履歴や電話帳内の電話番号を内閣情報統括室の検索システムに入力したが、特に目ぼしいものはなかった。

今後も懸賞金目当てに襲ってくる者がいるとしても今のところ防ぎようがなかった。今回のような至近距離での襲撃には特に気を付けなければならないと思った。


 17:00、米子は西新宿の事務所に顔を出した。事務所には木崎、ミント、樹里亜、瑠美緯が自席に座っていた。

「樹里亜先輩、予想問題は解きましたか?」

「一応全部解いたけど、正答率は85%だったよ」

「やるじゃないですか。私なんか78%ですよ。中国語はどうでした?」

「中国語は90%だったよ」

「いいですね。私、英語は90%でしたけど、中国語は75%でした」

「二人ともどうしたの? 何の話?」

ミントが訊いた。

「1級工作員の試験、来週なんです」

樹里亜が言った。

「そうか、2人とも1級を受けるんだよね?」

「そうなんです。木崎さんが作った予想問題をやったんですけど、中国語の点数が悪かったんです。物理や数学や法律は自信があります。暗号とか化学も大丈夫かな」

瑠美緯が言った。

「2人とも第2外国語は中国語なの?」

米子が訊いた。

「そうです」

樹里亜が答えた。

「米子は中国語だったよね? 私はロシア語だったよ」

ミントが言った。

「そうだよ。でも工作員の試験はリスニングとスピーキングがメインだから筆記はあまり気にしなくていいよ。それより体力検定と実技は大丈夫?」

米子が言った。

「大丈夫っす。ここ半年間、毎日ランニングしてましたし、本部の格闘訓練にも参加していました」

瑠美緯が言った。

「私もランニングと自重筋トレは続けてました。苦手だった懸垂も大丈夫だと思います」

樹里亜が言った。

「2人とも格闘と射撃は問題ないよね。やっぱ学科だね」

ミントが言った。

「なんとか1級になりたいっす。1人暮らしに憧れます」

瑠美緯が言った。

「でも、家賃は組織が出してくれますけど、食費は自分で払うことになるんですよね? 養護施設はタダでしたから出費が増えます」

樹里亜が不安そうに言った。

「だよねー、給料は2万円しか上がらないからね。私も1級になった時はきつかったよ。特に樹里亜ちゃんは食いしん坊だから辛いよね」


 「米子先輩とミント先輩はいつ1級に合格したんですか?」

「私は高校に入学してすぐだったよ。5月だったかな。訓練所で習った事を忘れないうちに1級の勉強をしたんだよ」

米子が言った。

「私は高校1年生の夏休みだったよ。ロシア語の勉強が大変だったよ」

ミントが言った。

「樹里亜も瑠美緯も年齢の割には実戦経験が豊富だから実技は問題ないだろう。戦闘チームや他の部署に配属になった同期達よりも暗殺部門のニコニコ企画の方が実戦の出動回数は遥かに多い。よかったな」

木崎が言った。

「その点は感謝してます。特別訓練で狙撃の技術も身に付けられましたし、ニコニコ企画に配属になって良かったです」

樹里亜が言った。

「私も潜入工作の特別訓練を受けさせてもらいましたし、戦闘チームや他の部署に行った訓練生よりも遥かに実戦経験は多いです。変な話ですけど、訓練生の同期が6人いましたが、まだ人を殺した経験があるのは私含めて2人だけなんすよ」

瑠美緯が言った。

「どうせ経験するなら早い方がいいよ。躊躇してたら命を失うからね。早めに慣れたほうがいいよ」

米子が言った。

「だよねー、瑠美緯ちゃんなんて去年ウチに配属になった時は中学3年生だったよね。 私も米子も訓練所を卒業したの中学校を卒業した時だったよ。瑠美緯ちゃんは優秀だったんじゃないの?」

ミントが言った。

「卒業は早かったですね。私、訓練所に入ったのが早かったです。小学校6年生でした」

「なるほどねー、まあみんないろいろ事情があるからね」

「しかし実戦での射撃と試験での射撃は要領が違うから試験の要領で練習した方がいいな」

木崎が言った。

「明日の放課後にお台場の射撃場に樹里亜先輩と練習に行きます」

「明日は俺も暇だ。付き合ってもいいぞ。試験官の目線で指導してやるぞ」

木崎が言った。

「お願いします。心強いです」

「いいっすね。お願いします」


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