第17話 初心

 男性更衣室。

 俺の帽子を手に持つ白槻と対峙して一時間が経過しようとしていた。


「そんなに時計が気になる? 時間を稼いでも無駄よ。薄井さんが来るのを待ってるのかもしれないけど、そうなったら私はキミに強引に連れ込まれたと言うわ。勘違いしてるようだから言うけど、薄井さんが来た場合、それは『救い』ではなく『終わり』なのよ」

「よく喋る女だな」


 更衣室の壁に掛かっている時計。

 チラチラ見る俺の視線に気付かれたらしい。

 確かに白槻の言う通り薄井さんがやって来るのを待っていた。

 だが、それだけではない。

 俺の頭に浮かんでくる言葉。


『視野を広げてフィールドを利用する、基本の一つだよ』


 薄井さんの言葉だ。

 彼はバイトの合間に『薄毛戦士』の先輩として色々教えてくれた。

 教えてくれた事は沢山あったが、今浮かんできたのはこの言葉だ。

 きっと何か意味がある。

 無意識に俺が自分に気付かせようとしてるのだ。

 探せ。

 きっと答えがこの空間にあるはずだ。

 

 そして薄井さんだが、恐らくこの状況に気付いている。

 バイトが全員帰っている時間を大分過ぎているからな。

 男性更衣室の電気が付いているのは外からでも分かる。

 薄井さん程の薄毛戦士が気付かないはずがない。

 それでも来ないのは、つまりそういう事だろう。

 俺は試されているのだ。

 バイトの最終日にして最大の試練。

 薄毛戦士なら一人で乗り越えてみせろ。

 そういう事なのだろう。

 

「あら、目つきが変わったわね。帽子を脱ぐ覚悟が決まったかしら?」

「ああ、覚悟は決まった」


「じゃあ早速脱いでもらおうかしら」

「ああ、そうだな」


 俺は脱ぐために手を伸ばす。

 だが、その行き先は帽子ではない。

 ズボンだ。

 カチャカチャとベルトの留め具が音を立てる。


「キミッ一体何をしているの⁉ 脱ぐのは帽子よ!」

「いや、脱ぐのはズボンだ」


「何を言っているの! この状況を分かってないの⁉」


 俺がズボンを脱ぎ出し、明らかに動揺する白槻。

 なるほど。

 薄毛戦士に対する鬼畜な所業をする彼女でも乙女という事か。

 それに、彼女は勘違いをしているようだ。


「状況が分かっていないのはお前だ、白槻」

「な、何ですって!」


「ここは更衣室、男性用のな。ズボンを脱いで着替えるのは普通だろう?」

「ハッ⁉」


 ようやく気付いたようだな。

 そう、ここは男性更衣室。

 男が着替える場所だ。


「つまり、俺が今ズボンを脱ごうが全裸になろうが、この場であれば許されるという事だ」

「何て事を……、恐ろしい子……」


 視野を広げてフィールドを利用する。

 薄井さん、こういう事ですよね?

 何となくだが、薄井さんが微笑みながら頷いている気がした。

 

 ズボンを脱ぐと、白槻の顔は茹蛸のようになっていた。

 俺の選択は正しかったようだ。

 流石にパンツまで脱ぐのは抵抗がある。

 だが彼女がこのまま帽子を返さないのなら、それも致し方あるまい。


「あ……あ……」


 顔を真っ赤にした白槻が目をグルグルさせている。

 先程までの威勢は感じられない。

 ふん、中途半端な覚悟で薄毛戦士の帽子を奪おうとするからそうなる。


「どうした白槻、俺はまだ脱衣出来るぞ?」

 

 そう、俺はまだズボンを脱いだだけ。

 上着、シャツ、パンツ、帽子、おっと帽子は駄目だ。

 まだ脱げる衣服、弾があるのだ。

 おもむろに上着をたくし上げる。


「ちょっ、待って! あぁぁ!」

 

 面白いほどに動揺する白槻。

 まるで俺が脱衣を見せつける変態のようだが、それは違う。

 ここは男性更衣室。

 この場に変態が居るとしたらそれは白槻の方なのだ。

 あくまで俺は着替えを見られた被害者。


 一時はどうなるかと思ったが、俺は乗り越えた。

 今、俺は完全にこの場を掌握している。

 白槻は動揺し過ぎて固まって動かなくなってしまった。

 もういいだろう。

 そろそろ終わらせるか。


「早く帽子を置いて帰れ」

「ハッ! 私は……この程度で負けたり……」


「ほれ」

「ひゃぁっ⁉」


 上着を少したくし上げ、へそを見せるだけでこれ。

 初心過ぎるだろ。

 最初の強キャラ感はどこへ行った。

 いや、俺が薄毛戦士として成長し過ぎたのか。

 白槻は悔しそうに顔を赤くして震えている。


「こ、この変態ッ!!」

「いてっ」

 

 白槻は手に持っていた帽子を俺に投げつけると、走って逃げて行った。

 ふふ。

 最後に少し痛い思いをしたが、俺の勝ちだ。

 帽子は守り切ったぞ――。


「お見事、君はもう一人前の『薄毛戦士』だね」

 

 背後から声をかけられ振り向くと薄井さんがいた。

 男性更衣室の壁に腕を組んでもたれかかり微笑みを浮かべている。

 一体いつからそこに?

 完全に気付かなかった。

 背筋に冷たいものが走る。

 

 俺は今、完全に無防備な後頭部をさらけ出していた。

 帽子を被っていたから、相手が薄井さんだから。

 だから大丈夫と安心したらいけない。

 もしこれが雪子だったら。

 くっ、完全に油断していた。


「私は事務室に戻っているよ、着替えが済んだら制服を返しに来るといい、私から君に最後の教えを施してあげよう」

 

 微笑みから一転、暗い表情で更衣室を出て行く薄井さん。

 その背中はどこか哀愁が漂っていた。

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