第9話

念を押されて、洋介は硬い表情のまま、力なく頷いた。


――何なんだろう、この人。


不穏な雰囲気を感じ、伊沙那は無意識に杏樹と距離をとっていた。


洋介も洋介で様子が変だが、杏樹はそれに輪をかけて妙だ。


いくら新郎の知り合いだとしても、結婚式当日に挨拶もなくいきなりこんなことをするなんて。


「あ、お義父さん」


廊下を歩いていく中年の男性――吉子の父である前島始まえじま・はじめだ――を追い、洋介はそちらへ小走りに去っていく。


「あー、喉渇いちゃった。待合室で何か飲まない?」


杏樹に手首を掴んで連れていかれそうになり、伊沙那はやんわりと振りほどいた。


「すいません。お手洗いに行きますので、先に行ってもらえますか」


トイレは新郎の出てきた控室の正面、ブライズルームから見て右側にある。


杏樹は伊沙那の態度に頓着する様子もなく、


「そっか。じゃあね」


あっさりとウェイティングルームのほうへ消えた。


トイレの鏡の前で、伊沙那は呼吸と動悸を整えようと大きく息をついた。


頭の中で、思考と血液が高速で駆け巡っている。


――何か変だ。何かがおかしい。


眉目秀麗な洋介。美しい吉子。鮮烈な印象を残す杏樹。


どうして不安な気持ちが鳴りやまないのだろう。


何か、言葉にはならない不吉なものが紛れ込んでいるような気がしてならない。


「お義父さん。お義父さん」


トイレを出たところ、チャペルのほうから洋介の声がして、伊沙那は壁際に身を隠して聞き耳を立てた。


立ち聞きすることへの罪悪感は、都合よく脳内でスイッチをオフにする。


どうやら、洋介が吉子の父に頭を下げているところのようだった。


「このような形になってしまったこと、深くお詫び申し上げます。お怒りは重々承知です。しかし、せめて今日だけは、僕たちを笑顔で祝福していただけないでしょうか。お願いします」


伊沙那は慎重に首を伸ばし、息を殺して様子を窺った。


洋介が直立不動の姿勢で、膝に頭がつくほど深く頭を下げている。


前島始の隣には美津子がいて、「あなた」と袖のあたりに手を置いて宥めている。


しかし、始の表情を見て、伊沙那は息を呑んだ。


始は洋介を睨んでいる。その顔は激怒していた。


ひそめた眉、歪んだ口許、目の奥には殺意にも似た憎悪がどす黒くわだかまっている。


そのまま無視して踵を返す始に、洋介は頭を上げて必死に追いすがった。


「お義父さん」


「黙れ」


耐え切れなくなったのか、始は冷厳な声で一喝した。


その形相たるや、無関係の伊沙那でさえ震え上がるほど鬼気迫るものがあった。


さすがの洋介も気圧されたのか、唇を固まらせている。


始は身長こそ洋介ほど高くないが、体つきががっしりしており、押し出しのいい紳士である。


その始が怒りに全身を震わせ、拳を握り締めて声をわななかせている。


一体、何が起こっているというのだろう。


「卑怯者が」


抑えた口調で始は吐き捨てた。洋介の顔がさっと青ざめる。


「あなた」


もう一度、今度は懇願するように美津子が言った。


すると始は、エントランスのほうへ早足で向かっていった。


慌てて付き従う美津子の足音が、慌ただしく廊下に響き渡る。


洋介はその場に立ち尽くしたまま動かない。


伊沙那は足音を忍ばせて、その場を去った。





























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