第7話

一瞬、聞き違いかと思ったが、吉子はじっとこちらを見つめている。


伊沙那は大きく首を振った。


「そんな。何で。全然そんなこと」


うまく言葉にならなかったが趣旨は伝わったらしく、吉子は懐かしむような目で言った。


「伊沙那ちゃんの家にピアノを教えにうかがわせてもらってたときね、いろいろお話してる中で、伊沙那ちゃんがわたしにこう言ったことがあったの。

自分で決めて、自分で選んだことなら後悔しないって」


必死で記憶をたぐっていくと、思い当たる場面が一つだけあった。


高校二年生の十一月頃、志望校を決めた伊沙那に、吉子がその理由を尋ねたときだった。


「受験する学校は、親や先生や周りの人が決めるんじゃなくて、自分で決めて自分で選ぶんだって言ってた。

そのときわたし、すごく恥ずかしかったの。今までわたしは人に決めてもらってばっかりで、自分で何かを決めたり選んだりしたことなんて、ほとんどなかったから」


吉子は手袋をはめた指を重ね、愛おしむようにゆっくりと一言ずつ口にする。


「それから少しずつだけど、いろんなことを自分で決めるようにしたの。

最初はきょう着る服や、はいていく靴。次は観る映画や買う本。今度は会う人や、参加する集まりみたいなぐあいに、ちょっとずつ。

そしたら、だんだん自分のことが見えるようになってきて、自分がほんとうは何を考えているのか、何を望んでるのか、わかるようになってきたの」


伊沙那は目をみはった。


何も変わらないと思っていた。


昔と同じく、物柔らかでおっとりとしていて、世間知らずのお嬢さんのままだと。


けれども違っていた。彼女の内面は劇的な変化を遂げていたのだ。


意思を持たない操り人形から、自分の頭で物を考える人間に。


それをもたらしたのが他ならぬ自分の言葉だということに、伊沙那は身のすくむ思いだった。


「洋介さんと結婚することも、以前のわたしだったら決断できなかったと思う。

でも、これでよかったって、後悔はないって一ミリの迷いもなく思えるの。

伊沙那ちゃんのおかげよ。ほんとうにありがとう」


そう言って吉子は立ち上がり、伊沙那の肩に手を回して抱擁した。


心地よい体温と、薔薇の香りにうっとりと目を閉じる。


体が離れると、伊沙那は遠慮がちに言った。


「正直、あんまり考えて言ったわけじゃなくて。今思えば、何て生意気なこと言ったんだろうって思うんだけど」


吉子は心強く頷いた。


「だいじょうぶ。それでいいの。伊沙那ちゃんがあのときわたしに言ってくれたこと、忘れないね。伊沙那ちゃんは、伊沙那ちゃんのままでいて」


安定し、満ち足りた思いが伝わってくる。


揺るぎない幸福を手にした人間特有の、静かな自信が吉子からは感じられた。


「幸せなんだね、吉子ちゃん」


呟くと、吉子は花が咲きこぼれるような笑顔を見せた。


「ええ、とても」


よかった。伊沙那はなぜか、途方もなく深い安らぎを覚えた。


吉子が幸せなら、言うことは何もない。


「昔からよく言われたの。あなたは幸せねって。恵まれた人だ、悩みなんて何もないんでしょうって」


鏡に映る自分の姿を見つめながら、吉子は淡々と言った。


「そう言われるたびに腹が立って、さけび出したくてたまらなかった。あなたにわたしの何がわかるのって」


伊沙那は目を細めた。


口に出したことこそないが、同じように思っていた。


昔から吉子は幸せで、幸せでない吉子など見たことがなかったから。


「でもね。今、心の底から、しあわせだと思えるの。こんな気持ちになったのは初めて。やっとほんとうの自分になれたような気がする」


「本当の自分?」


問い返すと、「そう」と吉子はひとひらの優しい笑みを浮かべた。


美しく豊かで愛に満ちた、箱庭のような世界。


決して傷つくことも虐げられることもなく、大事に守られて彼女は生きてきた。


それがずるいとか、いけないことだとは思わない。


ただ、そういう場所に生まれついたというだけのことだ。


けれど、彼女はそこを出ていく。


本当の自分として生きるために、みずからの手で道を選んだのだ。


そのときドアが音を立てて開き、熱気を帯びた何かが勢いよく室内に転がり込んできた。

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