信号待ちの猿

夜の二時、配達の軽トラで国道沿いの交差点にさしかかると、猿がいた。

横断歩道の点字ブロックの端に、背筋を伸ばして立っている。

毛並みは雨で濡れて、肩だけが人間みたいに丸い。顔は歩行者用信号のほうを向き、押しボタンの高さに手を添えている。押さない。ただ、待っている。


最初の夜は、山から降りてきたのだろうと思った。

二夜目、また同じ姿勢でいた。車を停めて窓を開けると、耳鳴りのように「ピヨピヨ」と渡り音がした。信号は赤のままだった。

猿は眉間に皺を寄せ、僕をちらりと見た。黒目が深く、妙に人間くさい。

「……青?」

口の形だけで、そう言ったように見えた。


その交差点は、去年、子どもが轢かれた場所だ。角の電柱には小さな花束が新しく束ね直されていた。

三夜目、猿は花束のほうを一度だけ見た。四夜目、押しボタンに当たる掌が、かすかに震えていた。


五夜目、僕は意地になって車を降りた。

「危ないぞ。山へ帰れ」

猿は動かない。肩が上下し、呼吸のたび「ピヨ……ピヨ……」と喉が鳴る。

風はないのに、信号機の笛だけが吹いているみたいだった。


六夜目から、猿は僕が来るのを知っているふうだった。

僕が歩道に上がると、半歩だけよけて、隣を空ける。人と並ぶ距離。

僕は肩を並べて立った。赤い人のシルエットがこちらを見ている。

「青になったら、渡るからな」

誰にともなく言うと、猿がわずかに口角を上げた。


そこへ、夜明け前のトラックが一台、黄信号を抜けて侵入してきた。

僕は反射的に一歩引いた。

その瞬間、冷たい毛の感触が袖をつかんだ。

猿だった。細い指が、びっくりするほど力強く僕の肘をつかんでいる。

「待て」

言葉に聞こえた。耳のすぐそばで。


青になった。渡り音が急に大きくなる。

猿は僕の袖を離さない。

「青だ、行ける」

僕が言うと、猿は首を横に振った。

「まだだよ」

今度ははっきりとそう聞こえた。喉の奥の金属音が、押しボタンの箱の中と同じ響き方をする。


僕は気がついた。

昨日、渡り音ユニットを交換したばかりだ。電源は今夜切ってある。

それでも「ピヨピヨ」は鳴り続けている。出どころは、猿の喉だ。

信号に合わせて、正確に、少し早めに。人の足を一歩、前に出させる速度で。


トラックが交差点の真ん中で止まりきれず、わずかにズレて停止した。

白い線の上に油が広がる。運転席の男が眠そうに目をこすっている。

もし今、僕が一歩踏み出していたら、ちょうど、ぶつかる位置だ。


猿はやっと握った手をゆるめた。

歩行者の青が点滅を始める。

猿は一歩も動かない。僕も動かなかった。

やがて赤に戻る。猿はまた、押しボタンの横に手を添えた。最初からそうしていたみたいに、じっと待つ姿勢に戻る。


「何を待ってる」

聞くつもりはなかったのに、口が勝手に動いた。

猿はもう僕のほうを見ない。信号だけを見て、喉の奥で、遠くの笛を真似る。


次の青、通勤の男が走ってきて、僕らの横に並んだ。

肩が触れそうな距離。

男は僕と猿に一瞥もくれず、青を睨んで体を前に傾ける。

猿の指が、静かに男の袖にかかった。

僕は思わず、その手を払った。

毛の中の骨が細くて、折れそうだった。


猿はゆっくりと僕を見た。

黒い瞳に、交差点の全方向の光が重なって映る。赤も黄も青も、車のヘッドライトも、花束のビニールの白も。

「——お前だ」

猿は言った。声はなかったのに、意味だけが喉の金属音に混ざって、はっきりわかった。


その夜を最後に、猿は出なくなった。

代わりに、僕が立つようになった。

配達が終わっても、帰り道でも、赤い人の前でじっと待ってしまう。

青になっても、渡り音が鳴っても、足が出ない。

袖のあたりが、いつも冷たい。そこに細い指が触れている気がする。

誰かが僕の隣に並ぶと、身体が勝手にわずかに寄って、半歩の空きをつくる。人と並ぶ距離。


朝、花束が増えていた。赤い水玉のリボンが一本、風もないのに震えていた。

僕は押しボタンの横に手を添え、信号を見つめる。

鳴っていないのに、喉の奥で渡り音がする。

青になったら、渡ろう。

今度こそ。

……まだだよ。

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