彼辞怪奇百物語 怪談短編集

彼辞(ひじ)

静かな出欠

四月、私は臨時の保育補助として町外れの保育園に入った。教室はいつもクレヨンと消毒液の匂いが混じっていて、窓の外では朝から工事の音が響いていた。この町には古い井戸が多く、今はその大半を埋め立てる作業が進んでいる。


初日、前任の先生から引き継ぎを受けた。鍵束とファイルを渡されたあと、彼女は声をひそめてこう言った。


「ここでは点呼のとき、名前を二度続けて呼んではいけないの。子どもが返事をすると、ついて行くものがいるから」


彼女は冗談めかして笑ったが、目は笑っていなかった。


「迷信でしょう?」と私が聞くと、彼女は首を横に振った。

「去年、二人いなくなった。どちらも点呼のあとだった」


最初の一週間は、普通に点呼をした。「ゆいちゃん」「はーい」、「そうくん」「はーい」、「まおちゃん」——そのとき、換気扇の向こうから同じ名前が聞こえた。「まおちゃん」。低く、湿った声だった。


まおは不思議そうに振り返った。私は慌てて「なんでもない」と言い、次の名前に移った。その日から、二度目の声は毎日聞こえるようになった。換気扇から、床下から、時にはトイレの排水口から。


二週目の朝、廊下の角で「ゆい」と呼ぶ声がした。私のものではない。続けて「ゆい」ともう一度。今度は教室の方から。振り返ると、赤いゴムで髪を結んだゆいが立っていた。


「先生、呼んだ?」

「呼んでない」と私は言い、人差し指を唇に当てた。「聞こえても、返事しちゃだめ」

ゆいは不安そうにうなずいた。


その日の夕方、ゆいは帰り道で姿を消した。母親が迎えに来て、手をつないで歩いていたはずなのに、角を曲がったところでいなくなったという。警察が来て、先生たちは何度も同じ説明を繰り返した。翌朝、ゆいの席に赤い髪ゴムだけが残されていた。


人手不足の会議で、園長がため息をついた。「これ以上は限界です。事故は防ぎたいけれど……」

私は突然理解した。一人減れば、その分だけ目が届く。点呼を一度で済ませれば、時間に余裕ができる。二度目の声に答えさせなければ——その日から、私のやり方は変わった。


「そうくん」

粘土遊びの時間、私は一度だけ名前を呼んだ。床下から「そう」と二度目の声が響く。そうは落ち着きのない子で、いつも私の手を焼かせていた。彼が顔を上げて返事をしようとしたとき、私は人差し指を唇に当てた。

「しー」

そうは戸惑いながらも黙った。私は名簿に○をつけて、何事もなかったように次の名前を呼んだ。


夕方、そうの母親が言った。「最近、家でも落ち着いてきて。先生のおかげです」

私は笑顔で応えた。心の中で、何かがざらついた。


点呼は簡単になった。名前は一度だけ。二度目の声が聞こえても、子どもたちには「しー」と合図する。みんなすぐに覚えた。返事を飲み込む小さな喉が、上下に動くのが見える。


その夏、もう一人いなくなった。そうではなく、別の子だった。川で溺れたと聞いた。私は葬儀に参列し、線香を上げた。煙がまっすぐ立ち上り、途中でふと横に流れた。まるで何かに引っ張られるように。


秋になって、前任の先生が育休から戻ってきた。

「点呼、ちゃんとやってる?」と彼女は聞いた。

「一回で済ませています」

「そう。二度目を聞いたら、もう呼ばない。それでいいの」


彼女は窓の外を見た。埋め立てられた井戸の跡が、雨で濡れて黒く光っていた。

「でも時々思うの」と彼女は続けた。「私たちが聞かないふりをしているだけで、あの声の主は本当は——」

彼女は言葉を切った。「まあ、いいわ。これで事故が減るなら」


今朝も点呼をする。「まおちゃん」「はーい」、「そうくん」。床下から「そう」と声がする。そうは口を開きかける。私は指を唇に当てる。

——しー。

そうは慣れた様子で黙り、私は名簿に○をつける。連絡帳には「よく座って活動に参加できました」と書く。


保護者は満足している。子どもたちは静かだ。事故は減った。

ただ時々、換気扇の奥から、床下から、井戸の底のような深い場所から、子どもたちの名前を呼ぶ声が聞こえる。一度、二度、三度と。返事を待っているように。

私はもう気にしない。聞こえないことにしている。


夕方、門を閉めて振り返ると、窓に自分の顔が映る。口元だけが笑っている。前任の先生と同じ笑い方だ。


明日もまた点呼がある。名前は一度だけ呼ぶ。それで、だいたいのことはうまくいく。

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