第25話 紫の瞳に眠らされて




「アオイ君……。君が私へ好意を持ってくれるのは嬉しい。

 だが、その感情は偽りのもの。それを本物だと勘違いしてはいけない。だから、度を超してもいけない」

「えっ!?」



 肩が大きく揺れた。

 一口だけ飲んだコップの水が私の手を濡らす。


 ナルサスさんは嘘を言っている。

 そうでなかったら、この胸の痛みは何なのか。

 恐る恐る俯いていた顔を上げると、ナルサスさんは固い表情で腕を組んでいた。


 だって、ナルサスさんはこの世界で生きる術も戦い方も教えてくれた人で。

 私を召喚された時、近くにいたからたまたま立ち寄っただけなのに、『乗りかかった船だ』と笑って助けてくれた人で。

 代価を求めず、ただ傍にいてくれた人で。


 だからこそ、血を求められた時、私は嬉しかった。やっと恩返しができるって。



「はっきり言おう……。

 君が私に抱いている心、それはただの依存心だ。決して、恋なんかじゃない」

「ち、違っ!? わ、私は!」



 たまらず立ち上がり、ナルサスさんの胸に飛び込もうとした。

 だけど、突き出された彼の右掌が私をベッドに座ったままにさせた。


 明確な拒絶に顔を伏す。 

 私は男の人を知らない。今まで恋もしたことが無い。


 でも、どうしても高ぶりを抑えられない夜は来る。

 でも、自分を慰めた後に襲ってくる虚無感と自己嫌悪。


 正直に言おう。

 私は私に唯一話しかけてきてくれた上野君のことを、いつも思い浮かべて自分を慰めていた。


 その結果、翌日はいつも以上に上野君を見れなくなり、ますます自分が嫌いになった。


 結局、それは恋でも何でもなく、ただの寂しさの代償行為。

 私は人の視線を避け、触れ合うことから逃げてばかりだった。いつも異性から逃げてきた。


 それなのに、ナルサスさんだけは違った。

 初めての夜、吸血の途中で絶頂して、気を失った。

 今はなんとか耐えられるようになったけど、耐えられるようになったからこそ、もっと欲しくなる。


 ナルサスさんに、もっと吸って欲しい。もっと喜んで欲しかった。

 ナルサスさんが望むなら、お母さんが『結婚するまで大事にしなさい』と厳しく躾けられたソレを捧げるのも嫌じゃない。


 これが恋でなかったら、何だというのか。

 やっぱりナルサスさんは嘘を言っている。



「いいや、違わない。君はこの世界で初めて出会った私に懐いているだけなんだよ。

 そう、雛鳥が最初に見たものを親だと勘違いするように……。

 しかし、私も間違えた。

 この街へ着いて、君の冒険者登録を済ませた時点で別れるべきだった。

 居心地の良さに甘えてズルズルと……そして、吸血までしてしまった。

 恐らく、君も気付いているのだろう? 

 吸血には二つの効果がある。一つは痛みを緩和させる催淫効果。もう一つは吸血という禁忌を和らげる魅了効果だ。

 それが君の依存心を強めてしまった。……これ以上は駄目だ。完全に君は壊れてしまう」

「そ、そんなことはありません! 私は、ナルサスさんのことを!」



 ナルサスさんは黙り込んだ私にとくとくと説いた。

 こうなったら、この胸の内を告げよう。そう私が意を決して、頭を跳ね上げたその時。



「では、この街へ来てからの自分を思い出すんだ。

 私と宿の主人、ギルドの受付嬢。この三人以外に、自分から話しかけた者がいるかな?」

「そ、それはっ……。」



 喉の奥が詰まって、言葉が出てこない。

 反論したかったが、胸に突き刺さった言葉をどうしても外せなかった。



「一人も居ないだろう? この三日間、他のパーティと共同依頼をしていたにも関わらずだ。

 若い女の子が何度も話しかけてきたのに、君は私の背に隠れようとすらした。……それでは駄目なんだよ」



 私は再び顔を伏せた。図星だった。

 唇が震えるだけで、言い訳すら出てこなかった。



「君は勇者だ。自分の意思で黄金剣を手に取ったんだ。

 そして、その瞬間から、魔王を倒す義務を背負ったんだ。

 断言しよう。今のままでは絶対に勝てない。

 魔王は君が思う以上に強大だ。世界は君をただの女の子であることを望んでいない」



 ナルサスさんの言葉が空気を震わせ、部屋の中が急に冷たくなった気がした。

 サイドテーブルのランプの炎が大きく揺れ、影が大きく壁に広がる。


 私の心臓の鼓動だけがやけに大きく響く。

 胸の奥でざわめきが広がり、強烈に嫌な予感がした。



「だから決めた。今夜、私はこの街を離れる」

「なっ!?」



 頭の中が真っ白になった。

 手に持つコップを落ち、立ち上がる。


 スカートの前が濡れているが気にしていられない。

 それよりも、目の前の人を失ってしまう恐怖の方がずっと大きかった。



「私は吸血鬼だ。いつまでも同じ場所に留まれない。……潮時なんだよ」

「だ、だったら私も連れて行ってください!」



 躊躇いは無かった。

 ナルサスさんに抱きつき、顔を上げて縋る。



「それは無理だ。私は吸血鬼、君は人間。生きている時間も違う」

「な、なら、私を吸血鬼にしてください! そ、それなら、ずっと一緒に!」



 感情も、言葉も止まらなかった。

 子供みたいに駄々をこねているのは分かっていても、この温もりを手放したくなかった。


 ナルサスさんの腕が一瞬だけ強張った。

 すぐに彼は目を伏せ、顔を背けて、深く息を吐く。



「君は戻りたくないのか? 自分の生まれた世界に」

「え?」

「父親や母親、弟……。もう一度会いたくないのか?」



 その一言に私は凍りついた。

 忘れようと思っていたもの。生まれた世界に残してきた存在を突き付けられた。



「君さえ望めば、また会える。

 少なくとも、チャンスが一度はあるのを私は知っている。それが魔王を打ち倒した時だ。

 何度も言うが、魔王は強大な存在。その身に内包している魔力も桁違いなくらい膨大。

 だから、魔王を打ち倒した時に放出される魔力を利用すれば、世界の壁にだって穴を空けられる。

 そう、君は戻れるんだよ。自分が生まれ育った世界に……。

 しかし、吸血鬼になってしまったら、私との縁が君をこの世界に縛り付けてしまう。そうなったら、二度と元の世界には戻れなくなる」



 ナルサスさんがサングラスを外す。

 やっぱり、その素顔は想像していた通りに二枚目で、間近にある紫の瞳は私を吸い込むようだった。



「えっ!? あっ!? ず、ずるいっ……。」



 だが、その素顔は見られたのは、ほんの一瞬。

 抗えない強烈な眠気が私を襲った。


 いつだったか、教えてくれた吸血鬼の特性の一つ。魔眼による催眠。


 慌てて太腿をつねるが、駄目だった。

 瞼が落ち、力なく崩れ落ちる寸前、ナルサスさんが抱きとめてくれるのだけが分かった。



「大丈夫さ……。アオイ、お前ならきっとやれるよ。俺が保証するよ」



 遠くなる意識の中、その優しい声が温もりのように胸に染み込んでいった。



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