第四章 新たな世界へ

第20話 運命はほんの一瞬の隙間に




「どうして、ナルサスさんは私が召喚されたとき、あんなタイミングで現れたんですか?」



 私がこの世界に召喚されてから、三日が過ぎていた。

 その間、召喚されたこの神殿に留まり、ナルサスさんからこの世界の基礎知識や常識について教わっていた。


 外は静かな山の空気が流れていて、古びた石の壁からはひんやりとした冷気が伝わってくる。

 そんな場所で、私は毎日少しずつ新しい世界のことを知っていった。


 だけど、朝食のパンを口に運びながら、ふと気付いた。

 ナルサスさんとの出会いは、あまりにも出来すぎていた。


 ナルサスさんがいたからこそ、私はそこに踏みとどまれた。

 ナルサスさんが静止を叫んだからこそ、私は黄金剣を掴めた。


 もし、五分早く現れていたら。

 彼とあの老人が対峙する場面を『殺人現場』と誤解して、私は迷わず逃げ出していただろう。


 逆に五分遅かったら。

 あの老人と不気味な剣を前に恐怖を耐えきれず、やっぱり神殿を飛び出していたと思う。


 でも、神殿から離れるの怖くて、月明かりの下で声を殺して朝まで泣いていたに違いない。


 たった五分。

 それだけで私の運命はまるで違っていた。


 もっとも、本音を言えば、一番気になっているのは仮面のこと。

 何故、顔を隠しているのか。初めて会った時から、ずっと気になっていた。


 しかし、ナルサスさんが仮面を着けているのは、きっと理由がある。

 そこへ踏み込む勇気を私は持てないでいた。



「うん、良い質問だね。

 世界と世界を繋ぎ、門を開いて望み通りの者を召喚するのには、非常に高い魔力と技術が必要なんだ」



 ナルサスさんはスープを飲もうとしていた手を止め、柔らかな笑みを浮かべた。

 その穏やかな口調と表情には、長年の経験と深い優しさが滲み出ていた。


 ちなみに、スープは私が作った。

 材料はナルサスさんが用意してくれた野草と根菜、乾燥肉を煮込んだもの。


 家庭料理の域は出ないけど、読書の次に料理が趣味な私としてはもうちょっと手の込んだ品を作りたいと思っている。

 でも、こんな辺鄙な場所でそれを望むのは無理だし、食材を用意してくれたナルサスさんに失礼だと思う。


 それに私が作る食事をナルサスさんは美味しいと言ってくれている。

 ただ、初日から食材を私に渡して調理を任せ、私が窺おうとする視線を向ける前に、まるで自分の口に合うと分かっているかのように、出来上がったものを躊躇わず食べるなんて、嬉しいけれど、ちょっと不用心だと思った。



「私でも、それを利用は出来ても、ゼロから再現することは出来ない。

 君を呼んだと思われる老人が、どれだけの魔力や技術を持っていたのか……。それはもう今となっては解らない」



 ナルサスさんはスープをひと掬いし、口元に運ぶ。

 ひと口飲んでから、静かに器を置くと、仮面の奥にある瞳をわずかに細めた。



「恐らく、あの老人は神託を受けたのだろう」

「神託……。ですか?」



 思わず私は聞き返していた。

 ここが私の生まれ育った地球とは違う世界だということは、もう理解している。

 だが、『神託』という言葉をこんなふうに現実の出来事として聞かされると、どうしても心が追いつかない。



「ああ、この世界には神が実在する。

 もちろん、その姿は見えないし、声も聞こえない。でも、確かに『居る』んだよ。

 そして……。とてもまれなことだけど、その存在が人々に接触してくることがあるんだ」

「つまり、それって……。私の召喚には神の意志が絡んでいるってことですか?」



 その言葉を口にした途端、胸の奥がざわついた。

 息が詰まりそうな思いで問い返すと、ナルサスさんは静かに、小さく頷いた。



「どんなに隠そうとしても、それは神の意志。非常に強大な力だ。

 見えなくても、聞こえなくても……。それを感じ取れる者は、確かに存在する。

 まあ、決して多くはないけどね。私もその一人で……。ここへ来たのは、実を言うと単なる好奇心だったんだよ」



 戯けた口調と共に彼の口元にわずかな笑みが浮かぶ。

 重くなった空気が、ほんの少しだけ和らいだ。



「ナルサスさん、この神殿は……。どうして、こんな山奥にあるんですか?」



 これも聞きたかった質問だった。

 神殿とはその名の通り、神を祀り、人々が祈りを捧げる場所のはずなのに、ここの神殿は山奥にある。どう考えても変だった。

 思わず問いかけると、彼は目を細めて優しく答えてくれた。



「良い質問だ。七大神については昨日教えたね?」

「はい、光、闇、火、水、風、金、土の七つですよね」

「結構、ちゃんと覚えているね。

 ここはその一柱、闇の神。闇と欲望を司る神の神殿だ」



 その言葉に、私は息を呑んだ。



「えっ!? 闇と欲望?」



 驚きと戸惑いが混じった声が自然と口をついて出た。

 根暗な私にとって、『闇』はまだしも、『欲望』は最も遠い存在のように思えた。


 だって、これまでの私の人生は、我慢と抑制の連続だったから。



「神殿が人里から遠く離れた山奥にあるのは、その教義が関係している。

 元来、闇の神の教えはこうだった。

 『己を厳しく律せよ。堪え忍ぶことこそが、解き放たれた欲望を最高の快楽へと昇華させる。闇が明けたその先に、眩い光が待っている』とね。

 しかし、永い時の流れの中、その教えはねじ曲がったのさ。

 『己を律するな。堪えず、欲望を解き放て。欲望こそが、あらゆる快楽の頂点であり、その闇こそが人の光なのだ』と……。」



 違った。正しく、その教義は私を表していた。

 元来の教義は、ぼっちな毎日を諦めながらも、どこか心の奥底に期待を秘めていた私の姿そのもの。

 ねじ曲がった教義は、ナルサスさんの静止を振り切り、黄金剣を手に取った今の私そのものだった。



「約500年前、この大陸に第五の魔王が現れた時。

 闇の神の教徒たちは、ねじ曲がった教義に従い、魔王側についた。

 だが、5代目の勇者が魔王を討ち果たした後、彼らには苛烈な弾圧が待っていた。

 それは大陸全土に及び……。その禍根は今でも、深く、この世界に根を下ろしている」



 ナルサスさんの声は静かだったが、言葉には重みがあった。

 それはまるで『力に溺れるな』と、私に言っているように聞こえた。



「だから、闇の神を信じる者たちは、人目を避けるように、こんな山奥に神殿を築くしかなかったんだよ。

 どんなにここでの暮らしが不便だろうと……。神を信じる心は誰にも止められないからね」



 再び重くなりかけた空気を、ナルサスさんはその一言でやんわりと和らげた。

 彼はほんの少しだけ肩を竦めると、とても小さな声で『まあ、人間は弱いからね。仕方ないさ』と呟いた。



「ただ、この神殿は……。随分と長い間、放置されていたようだね。

 闇の神の像こそ立派で綺麗に保たれているけど、それ以外はほこりまみれで……。人の手が入った形跡はほとんどない」



 そして、ナルサスさんは闇の神の像が立つ礼拝堂をぐるりと見渡し、仮面越しにわずかに目を細めた。

 私も同じことを感じていた。この神殿が放置されていた時間は、十年や二十年なんて生易しいものではない。


 空気の淀み、崩れかけた壁、石畳の隙間から伸びた苔や草。

 それらが、静かに、けれど確かに年月の重みを語っていた。


 掃除、大変だった。凄く、凄い大変だった。

 あの老人と『その現場』はナルサスさんが片付けてくれたけど、それ以外は私が掃除した。

 だって、ナルサスさんは自分が座って、寝る長椅子さえ綺麗ならそれでいいっていう性分で、届かない天井を除いた全てを私が担当することになったのだから。



「君を呼んだ老人は、街で暮らす『隠れ教徒』だったのかもしれない。

 神託を受けて、この場所に足を運んだ……。きっと、そういうことだろう」



 しかし、三日かけて綺麗にしたこの場所とも、今日でお別れ。

 昨夜、この神殿を朝食の後に旅立つとナルサスさんから告げられていて、私の心は期待と不安が入り混じっていた。



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