第一章〜迷いと罪〜

携帯が鳴った。

彼からのメールだった。


恐る恐る、フォルダを開く。


「ひかりちゃん、今日はありがとう。

せっかく楽しく過ごしてたのに、ぶち壊してごめん」


どう返信したらいいんやろう。

もう、あの話には触れずにいよう。


「ううん、そんなことないよ。

ハンバーグ、ほんまに美味しかったね。ブリュレも!ジェラートも!」


送信ボタンを押してから、携帯を見つめたまま、ため息が漏れる。


あの重たい話題には触れなかった。

いや、触れられなかった。


それでも、彼の中に残った罪悪感を、少しでもやわらげたくて。


ふたたび携帯が鳴る。


「ブリュレな、今まで食べた中で一番美味かったわ。

ひかりちゃんが隣にいたからかもな」


そんな言葉、不意にくると、胸の奥がじんわり熱くなる。


心の中でつぶやく。


「そんなこと、言わんといてよ」


でも、送った返信はそれとは違っていた。


「それは言いすぎやと思うけど?」


私はそっと携帯を伏せて、再びソファに身を沈めた。


このまま、もう少しだけ。

彼の声が聞こえるような、そんなやりとりを続けていたい。


それが恋の始まりだったのだと気づくには、

もう少しだけ、時間が必要だった。



彼から電話がかかってきた。

ついさっきまでメールをやり取りしていたばかりやったのに。

戸惑いながらも、電話に出る。


「どうしたん? メール、送れてへんかった?」


「ひかりちゃん……会いたい」


その一言に、私は言葉を失った。

さっきまで交わしていたメール。

「おやすみ」で終わるはずのやり取りやったのに。

今、電話越しに届いた声は、あまりに真剣だった。


「……え?」


思わず聞き返す。

聞き間違いであってほしかったのかもしれない。

けれど、もう一度、彼の本心を確かめたかったのかもしれない。


沈黙が流れる。

心臓の音だけが大きく響く。

息をするのさえ、うまくできない。


なるべく平静を装って、言葉を返す。

でも、指先は小さく震えていた。


「帰ってきてからずっと、ひかりちゃんのことが頭から離れへん。

今日一緒に過ごした時間が……なんやろ、めっちゃ恋しい。……会いたい」


その声はまるで、胸の奥にそっと染み込んでくるようだった。

もう戻れないと、頭ではわかっているのに。

気持ちは、自然とその方向へ流れていく。


しばらくの沈黙。

ふたりとも、言葉を探していた。

けれど、本当はもう、心の中では答えが出ていたのかもしれない。


「……明日、空いてるよ」


その瞬間、彼の息遣いが少しだけ乱れたのが、電話越しに伝わってきた。


「明日じゃなくて……今からじゃ、あかん?」


「……いいよ」


「ほんまに?そしたら、あの信号の先の公園にする?」


「……マンションに来て」


その言葉の意味を、私自身が一番よくわかっていた。

男性を部屋に招くということ。

「マンションに来て」と伝えること

それが何を意味するのか。


ためらいは、ほとんどなかった。

その瞬間、ふたりの間にあった“線”は、もう意味をなさなくなっていた。


電話を切ったあと、私は部屋の照明を少しだけ落とした。

淡い香りのコロンをひと吹き。

鏡の前に立ち、髪を整える。

心の中で、そっと問いかける。


本当に、これでいいの?


でも、もう答えは決まっていた。

ただ、彼の温もりを感じたかった。

それだけだった。


インターホンが鳴ったのは、それから10分も経たないうちだった。

ドアを開けると、彼がそこに立っていた。

さっきまで電話で話していた、そのままの彼。

でも、不思議と違って見えた。

彼の目が、迷いをたたえながらも、真っ直ぐに私を見つめていた。


ドアを閉めた瞬間、ふたりの世界は外と切り離された。

そして静かに、彼の手が私の肩に触れる。

あの夜のことは、もう言葉にならない。

あれは、心の奥の誰にも触れられない場所にそっとしまった、大切な「はじまり」の夜だった。


目が覚めた。

いつの間にか眠っていたらしい。

時計の針は、すでに0時を過ぎている。


隣には、寝息を立てる彼。

その寝顔はあどけなく、長く濃いまつ毛がふわりと揺れていた。

まるで少年のような表情に、しばらく見入ってしまう。


越えてはいけない線だった。

でも、私は越えてしまった。

これはたった一夜の出来事なのか、それともずっと前から心の中で始まっていた物語の、ほんの入り口だったのかもしれない。


やがて彼が目を覚ました。


「ごめん、俺……寝てた。ひかりは起きてたん?」


その呼びかけは、「ひかりちゃん」ではなく、「ひかり」。

その響きが胸にしみた。


「わたしも、ちょうど今、起きたところ」


そう言いかけた私の言葉を、彼の腕がさえぎる。

強く、でもどこか切なげな力で抱き寄せられた瞬間、彼の熱が肌を通して伝わってきた。


そして

狂おしいほどの想いを込めて、彼は再び唇を重ねた。


夜は静かに深まり、ふたりだけの世界が、また動き出す。


祈るように、確かめるように、彼は何度も私の名前を呼んだ。

その声に、私の心は少しずつほどけていく。

もう、逃げられない。

いや逃げたいとも、思わなかった。


そして私の唇から、初めて彼の名前がこぼれた。


「優……優……」


そのたびに、胸の奥が満ちていく。

呼ぶことのできなかった名前。

けれど、心の中で呼び続けていた名前だった。


この夜が、終わらなければいい。

そう思ってしまった。


「ひかり、今日の予定は?」


「特にないよ」


「このまま、ここにいてもいい?」


「うん」


そう言って、彼の腕の中でまた静かに眠りについた。


ふたりで迎えた朝は、罪悪感すらも上回るほど穏やかで、温かな時間だった。


「おはよう、起きて。もう8時回ったよ。ご飯食べよう」


カーテンの隙間から差し込むやわらかな朝の光。

寝ぼけた髪の彼を声で誘うと、ゆっくりと体を起こした。

キッチンからは、トーストの香ばしい香りと湯気の立つマグカップのコーヒーが漂う。


ただのトーストなのに、こんなにもおいしくて、心が満たされるのは初めての感覚だった。


朝食を終え、また彼のぬくもりに包まれながら、私は何度目かの朝を夢見ていた。


「今日はどうする?」


「ひかりはどうしたい?なにかやりたいことある?」


「ずっと一緒にいたい」


彼は優しい目で私を抱きしめる。


言葉はなくても伝わり合う温かな時間。

トクン、と静かに重なる鼓動。

彼の胸に顔をうずめたまま、私はそっと目を閉じる。

このまま時間が止まってほしい。

この腕の中だけが世界のすべてであればいいのに。


「今日は一日中、このままでいよう」


「うん」


その頷きには、愛の言葉や未来の約束も、過去の後悔も込められていない。

ただ“今”を全力で生きる、ふたりだけの証だった。


時計の静かな刻む音だけが、ふたりの誓いを見守っていた。


「明日からまた仕事やなあ。今週は東京出張もあるねん」


「そっかぁ……忙しくなるなあ」


「ひかり、東京ばなな好き?」


「ん〜、東京ばななより……銀座のいちごの方が好きかも」


「了解、買ってくるわ。他になんか欲しいもんある?」


「崎陽軒のしゅうまい弁当。めっちゃ好き。しゅうまいより、あのたけのこ。あれ、ほんま好き」


「残念やけど、弁当は持って帰られへんわ……」


彼は少し困ったように笑った。


「それなら今度、一緒に行こうや。横浜」


一緒に行こう


その言葉に、本当は応えてはいけない。

数ヶ月後には、お互い別の人と人生を歩む予定がある。

指輪がはまる日も、もうすぐそこまで迫っている。


それでも今、目の前にいる彼は、まるで未来なんて存在しないかのように、ただ“いま”の私たちを大切にしてくれていた。


この愛おしい時間は、どこへ向かうのだろう。

たどり着く場所なんて、あるのだろうか。


終わりが見えているからこそ、強く惹かれてしまう。

傷つくとわかっていても、もう引き返せない。


「このまま置いていかれてしまうのかな」


そんな想いが胸をよぎった瞬間、涙がこぼれそうになった。


「ひかり? どうしたん?」


「なんでもないよ。……東京から帰ってきたら、焼肉行こっか」


焼肉が食べたいわけじゃない。

でも、その一言しか出てこなかった。


また会いたい。

本当は、それだけを伝えたかった。


「焼肉ええな。行こう」


「うん。楽しみにしてる」


そう言いながら、私たちは胸の奥で別の言葉を飲み込んでいた。

この関係の先がどこに向かうのか、誰にもわからないまま。


その日、私たちは何度も何度も

“見てはいけない未来”に目を伏せるように、求め合った。


触れ合っている間だけは、現実を忘れられた。

離れた先にあるそれぞれの人生の輪郭さえ、見えなくなる。


「じゃ、そろそろ帰るわ」


彼がそう言ったとき、すべてが夢だったような気がした。


「明日から仕事やもんね」


「うん。……じゃあ、またな」


“またな”

たった三文字のその言葉に、どれだけの願いを込めてしまうんだろう。


“また”がある保証なんて、どこにもない。

ただ、時間だけが黙って流れていく。


月曜日の朝、優からメールが届いた。

「ひかり、おはよう。よく眠れた?」


「うん、ちゃんと寝たよ」


「明日から東京やから、帰ったら連絡するわ」


「うん、わかった。いってらっしゃい」


たったそれだけの、短いやりとり。

彼氏でもない、友達でもない名前のない関係。

それでも、「おはよう」と「いってらっしゃい」を交わせることが、どうしようもなく嬉しかった。



金曜日の午後、優からメールが届く。


「19:30に新大阪着くけど

ひかり、今日の予定は?

なければ、そのままひかりんちに寄ろうと思うけど、どう?20:30頃」


私は短く返した。

「ごめん、今日から土日も予定入ってて」


この言葉に込めた意味を、彼はどこまで気づいているだろうか。

「そっか、じゃあ、都合のいい時知らせて」


「わかった」


今日から三日間。私は会えない。

会う人がいるから。



週末、私は結婚を控える恋人と一緒に過ごしていた。

いくつかの不動産屋をまわり、新居探し。

家賃払い続けるなら思い切ってマンション買おうか、そんな話もでる。

彼は終始、楽しそうだった。


私もその空気に合わせて笑顔をつくった。

けれど、心の奥には静かに罪悪感が広がっていく。

それでも、優に会いたい気持ちはどうしても抑えられなかった。


「一夜の過ち」として記憶にしまうなら、

たぶん、これが最後のチャンス。



数日前、優に抱かれた身体は

今夜、夫になる彼に抱かれている。


でも、もう無理だった。

身体が反応しない。

肌が、心が、どこかで拒んでいた。


どうしても、優を思い出してしまう。

会いたい。触れたい。声が聞きたい。


これが罰なのか。報いなのか。


「一生を共にしよう」と決めた相手に

触れられることすら苦しい。


この違和感、この拒絶感。

これが、この先も続くのだろうか。


そんな夜が、二晩も続いた。

触れられるたび、心はどんどん遠ざかっていく。



日曜の夜。ようやく彼から解放された私は

迷わず優にメールを送った。


「優、会いたい。」


すぐに電話が鳴った。

「ひかり、行っていいの?」


「うん」


「わかった」


ほどなくしてインターホンが鳴る。

ドアを開けた瞬間、どちらともなく、強く抱きしめ合った。


何も言葉はいらなかった。

ただただ、会いたかった。


「ひかり、大丈夫?」


玄関先で交わした言葉。それだけで、胸がじんわりと熱くなった。

優の声は、静かに心にしみてくる。


私はうなずくだけで、何も言葉にできなかった。


「ちょっと、座ろか」


彼はそう言って、自分のバッグから紙袋を取り出した。


「お土産。銀座のいちごやで。それと、これ。お客さんにもらったチョコ。一緒に食べよ」


ソファに並んで座ると、彼は袋を開けて、何気なくチョコをつまんだ。

私にもひとつ差し出してくれる。


「ひかりも、食べてみ? めっちゃ美味しいで」


そのさりげないひと言に、張りつめていた気持ちが、ふっとゆるんでいく。


「コーヒー、いれよか。俺淹れるわ」


立ち上がった優の背中を、私はただ黙って見送った。

そのあたたかさに、何度も助けられてきた。


その夜、私たちはいろんな話をした。


これまで聞いたことのなかった、仕事の話。

おじいさまの働いていた会社のこと。

幼いころ、「大きくなったら、おじいちゃんと同じ会社で働く」って夢見ていたこと。


その夢を叶え、今では一流の企業で、まっすぐにキャリアを築いていること。


その話をする彼の瞳は、まるで少年のように輝いていた。


私は思った。


ああ、この人は、やっぱり素敵な人やなぁ。


そうして、静かな夜は少しずつふけていった。



時計の針が、深夜を指すころ。


「ひかり、もう大丈夫やんな? 俺、そろそろ帰るわ」


そう言って、彼は私の頭にそっと手を置いて、優しく撫でた。


「じゃあな。おやすみ、またな」


そのまま、私を抱きしめてくれた。


そのぬくもりが、心の奥までゆっくりと染み込んでいく。


離れたくなかった。

けれど、私は何も言わなかった。




いつものように、月曜日の朝。


「ひかり、おはよう。ちゃんと寝れたか?」


優の声は変わらずやさしくて、それだけで少しだけ心が緩む。


「おはよう。うん、ぐっすり寝たよ」


「ひかり、今週の予定は?」


「平日はちょっと未定かな。週前半は残業あるかも。

でも、土日は空いてるよ」


少し期待を込めて返した言葉に、優は短く答えた。


「そっか、俺、土日あかんねん」


ほんの一瞬、胸がしんと冷える。


「わかった。また連絡して」


そう言うしかなかった。

なぜ彼が土日に会えないのか、もう知っているから。


先週末は、私が“婚約者”と過ごした。

今週末は、優が“婚約者と”と過ごす。


その意味を、ふたりとも理解していた。

けれど、あえて言葉にはしなかった。


その週、優からの連絡は一度もなかった。

私も、自分からは送らなかった。


ふたりの間に、静かな境界線が引かれたような気がした。

踏み越えてはいけないそのラインを、互いに確かめ合うように。


日曜日の夜。

優からメールが届いた。


「連絡できんくてごめん。ひかり、今どこおるん?」


「家にいてるよ」


「行っていい?」


「いいよ」


先週の日曜は、私から優に連絡した。

今週は、彼のほうからだった。


インターホンが鳴る。

ドアを開けると、優が穏やかな目で立っていた。


「ごめん、遅くに」  


その言葉と同時に、優は私をそっと抱きしめた。

その腕のなかで、張り詰めていた心の糸がふわりとほどけていくようだった。


言葉も交わさず、自然とふたりでベッドルームへ向かう。


互いを求め合い、

そのまま離れずにベッドの中で寄り添った。

余韻に包まれながら、時間は静かに流れていく。


気がつけば、時計の針は1時を過ぎていた。


「また明日から一週間が始まるなぁ」


「今週は出張ないの?」


「ないよ。一段落ついたから、今週は定時で帰れそうや」


「じゃあ、仕事帰りにご飯行こう?」


「肥後橋まで来れる?連れて行きたい店があるんや」


「楽しみ。なに屋さん?」


「それは……内緒や」


「も〜、気になるやん」


「当日までのお楽しみってことで」


「うん、楽しみにしとく。……そろそろ帰る?」


「……まだ帰りたくない」


「明日から仕事やのに、あかんやん……」


そう言いながらも、

私はそっと彼の髪を撫でていた。

本当は、同じ気持ちだったから。


「ひかり、ちょっと話そうか」


「……何の話?」


胸の奥で、何かがざわついていた。

きっと私は、もう気づいていた。

けれど、耳にしたくなかった。

それでも、逃げずに向き合わなければいけないと、どこかでわかっていた。


「ひかり……彼氏とは、大丈夫なん?」


「優こそ。彼女、大丈夫なん?」


優は目を伏せたまま、ぽつりと呟いた。


「知ったら、また“死ぬ”って騒ぐんやろな……

昨日も今日も、楽しくなかった。ずっと、ひかりのことばっかり考えてた」


「……私も。先週ずっと、そうやったよ」


しばらく、ふたりの間に静寂が流れる。


「……セックス、した?」


「優は?」


私は問い返した。

すると、優は何も言わずに、私をそっと、そして強く抱きしめた。


それが、私たちの答えだった。

言葉よりも、ずっと重くて、深く胸に落ちていく真実――。


「そろそろ、2時になるよ?」


「……3時まで、いさせて」


「明日の朝、しんどいよ?」


「今帰る方が……もっとしんどい」


少しの沈黙が流れてから、私は問いかけた。


「優?話の続きは?」


優は目を伏せながら、静かに口を開いた。


「……ちゃんと、話さなあかんな」

そして、また少しだけ間を置いて言った。


「ひかり、このままじゃ……迷惑やんな?」


「迷惑なんて、思ってないよ。

だって、今こうしてる。

でも……結婚はすると思う」


「俺も、する。

それしか……選択肢がないから」


「じゃあ……どうなるの?どうするの?

どうしたいの、優?」


「……この先のことを語るとしたら、それはもう全部、俺のわがままや。

そしてひかりの負担にも……きっとなると思う」


「それって……結婚しても、この関係を続けるってこと?」


「現実的に、そんなの無理やろ?」


「うん。

結婚して、なお互いのパートナーを裏切り続けるなんて……それはもう、、、」


「でもな……ひかりの結婚と、俺の結婚は違う。

ひかりは、自分で選んだ彼と、一緒に歩いていこうと決めたんやろ?

けど俺は、そこに“幸せ”を求めてへん。

全部が……違うんや」


「でも、このままじゃ……」


「わかってる。

せやから、ひかりを苦しめてしまう前に……って思う。

けどな、それでも出逢ってしもた」


私たちは、出逢ってしまった。

こんなことになるなんて、想像すらしてなかったのに。

それでも今、こうして一緒にいる、それが現実だった。


「ひかりは……どうしたい?」


「今は、こうしていたい。ただそれだけ」


「……彼氏のこと、何も感じへんの?」


「……感じるよ。

なんとも言えない、苦しくなる。

優は?」


「その時点で、もうひかりを苦しめてるってことやな……

でもな、俺には罪悪感がないんや。ほんまに、ひどい男やろ?」


「優……それでも結婚するなら、ちゃんと“幸せ”に向かって歩かなあかんよ」


「せやな……でも、ひかりとは離れたくない」


「……どこかで、けじめはつけないと。

このままじゃ、あかんと思うねん」


「けじめ、か……

ひかりの言う“けじめ”って、このままじゃいられないってことやんな?

でも……もう少し、このままでいさせてほしい」


「……今、一緒にいるやん。

肥後橋にごはん、連れてってくれるんやろ?

楽しみにしてるんやから」


「……ひかりは、大人やな」


「優……先のことは、今は考えへん。

今を、ただ一緒に過ごしたい。

……私には、それが精一杯やねん」


彼はそっと私を抱きしめた。

そして私たちは、本能のままに、何度も求め合った。

このままではいけない。

そんなこと、わかっていた。

でも、どうしても線を引くことができなかった。


気づけば、時計の針は4時を過ぎていた。


「……ひかり、帰るわ」


「……うん。ごはん、楽しみにしてるね」


身支度を整える彼に、それしか言えなかった。

それ以上の言葉は、どうしても見つからなかった。


いつもなら届くはずだった

月曜の朝の「おはよう」

でも、今朝はなかった。


昨夜、あんなふうに過ごしたあとだから。

きっと、来ないんだろうな

どこかでそう思っていた。


それでも、やっぱり寂しかった。


そして月曜も、火曜も、何もなく過ぎていった。


水曜日の午後、不意にメールが届いた。


「金曜日、予定ない?

大丈夫なら、19時に四ツ橋線の肥後橋出口で待ち合わせよう」


「何もないよ。了解です。着いたらメールするね」


日曜日のことには、一切触れてこない彼。

私も、あえて触れなかった。


なかったことに――なんて、できない。

でも、少しだけ、気持ちに蓋をした。

それが、今の私の精一杯だった。



金曜日。


約束の時間より少し早く、待ち合わせ場所に着いた。

彼の姿は、まだない。


ポケットの中で、携帯が震える。

画面に浮かんだ名前を見て、すぐに通話ボタンを押した。


「ひかり、ごめん。ちょっと遅れそう。待ってくれる?」


「うん、大丈夫やけど……

仕事なら、日にち改めようか?」


一瞬の沈黙のあと、彼の声が少しやわらぐ。


「待ってて。行くから。会いたいから」


「……わかった。また後でね」


“会いたいから”――

その言葉には、あえて触れなかった。

でも心の中では、何度も繰り返していた。


“会いたいから”

“会いたいから”


約束の時間から15分ほど経って、

向こうから彼が走ってくるのが見えた。


「ごめんな、お待たせ。……じゃ、行こっか。お腹空いたやろ?」


「うん、お腹空いた〜

お昼、コンビニのサンドイッチ1個で我慢してたもん。

何系ごはんやろ〜。楽しみ」


優がニヤッと笑う。


「えっとな、ゲテモノやったらどうする?

タランチュラの素揚げとか、トカゲのボイルとか」


「……帰るわ」


即答した私に、彼が吹き出す。

ふたりで笑って、並んで歩き出した。


「着いたよ、ここ」


「わぁ〜何々? 和食っぽい感じ?」


「釜飯屋さん。

ここな、炊き上がるのに時間かかるから、〆に食べるねん。

その間、軽く飲めるから」


「へえ〜、釜飯が〆ってちょっと特別感あるなぁ。楽しみ」


案内されたのは、個室のテーブル席。

ちょっとした隠れ家みたいな雰囲気だった。

その空間に、私の心も少し緩んでいく。


「先に釜飯頼んどこ。ひかり、何にする?」


「おすすめ、なんやろ?」


彼が笑いながら言う。


「またや〜。どうせ聞いといて違うの頼むんやろ?

こないだのハンバーグ、そうやったやん」


私も笑い返す。


「そうそう。一応、聞いとこかな〜って思って」


まるで、あの日のことがなかったかのように。

いつもの彼が、目の前にいた。


けれど、心の奥は、まだ少しざわついたまま。

お互い、答えは出せていなかった。

私も、優も。


生中を頼んで、軽めのアテをいくつか。

彼はこの一週間の出来事を、まるで漫談師みたいに面白おかしく話し始めた。

天性の話術。絶妙な間とテンポ。

私は何度も吹き出し、笑って笑って、お腹がよじれるほどだった。


今夜のメイン――釜飯が運ばれてきた。

彼は鯛と木の芽の釜飯。私は栗と山菜の釜飯。

「一口ちょうだい」「そっちのも美味しそうやな」

お互いの器に少しずつよそい合って、自然とシェアした。

どちらもすごく美味しかった。


「ひかり、お腹ふくれた?」


「うん、もうパンパン。はち切れそうやわ」


彼は笑いながら、「俺、まだ全然いけるで」


「え〜?わたしの分も食べてたやん。優のお腹は底なしやなぁ」


ふたりで笑い合いながら、店を出た。

そのまま夜の街を、肩を並べて歩いていく。


「軽く飲む?」


「もう無理〜。お腹いっぱいやし、酔っぱらいそう。優は?なんか食べる?飲む?」


「やめとくわ。大食漢と思われるのも本意やないしな」


「いや、そうとしか思ってないけど?笑」


「だってあの日、皆んなでもつ鍋〆の麺たらふく食べたやろ?

せやのに“〆食べてへんから”って、さらにサンドイッチ食べてたやんか」


「でもほんと、食べたかったら付き合うよ?」


彼はいたずらっぽく笑って、「じゃ、後で……ひかり食べていい?」


ちょっと呆れながらも笑って答えた。


「わたしは、食べ物じゃありませんっ」


「ひかり、HEPの観覧車、乗ろうや。俺、乗ったことないねん」


「ちょっと怖いねん、あれ……苦手かも」


「……誰と乗ったか、聞いたらあかんのかな?」


「それは……あかんな笑」


「ほな、帰ろっか。ひかりのマンション、行ってもいい?」


「“あかん”言うても……どうせ着いてくるんやろ?笑」


そのとき、初めて手を繋いだ。

ごく普通のカップルみたいに、肩を並べて笑いながら歩く。

でも本当は、違う。

セックスはもう何度もしているのに、

“手を繋ぐ”というその行為のほうが、よっぽど重たく感じた。


外では手を繋げない。

誰に見られるかわからないから。

見られたらいけない関係だって、お互いにわかってる。


それでも今だけは、ただ、手を繋いでいたかった。

何の言い訳もなく、当たり前のように。


人混みの中でも、改札を抜けるときも、電車の中でも。

指先は、ずっと離れなかった。

交わることよりも、その手の温もりの方が、なぜか心に深く響いた。


マンションに着くと、私が先に部屋へ入り、彼はいつものようにドアのロックを確認した。

それが「安心」の証みたいで、毎回少し、胸があたたかくなる。


「飲み直す?おつまみも作るよ?」


「何もいらん。ひかりがほしい」


そう言ってシャワーへ向かう背中を見送る。

その夜も、私たちは何度も身体を重ねた。

互いの存在を確かめるように。

心ではいけないとわかっていても、本能には逆らえなかった。


気がつけば、時計の針は3時をまわっていた。


「ひかり、帰るわ」


「……うん」


真っ白なワイシャツに袖を通し、ジャケットを羽織る彼は、

やっぱりどこか遠い世界の人みたいだった。

でも確かに、さっきまで私の隣にいた。


玄関先で、最後にもう一度、目が合う。


「ひかり、またな。おやすみ」


「おやすみ」


ドアを閉めたあと、静まり返った部屋には、彼の残り香だけが漂っていた。


「またな」


その言葉に、明日を託す。

でも、それは「また次があるよ」とも聞こえるし、

「これが最後かも」とも思える――曖昧な言葉。


それでも、心は期待してしまう。

もう一度、会えるかもしれないって。

彼の温もりを、また感じられるかもしれないって。


彼と出会って、1ヶ月が過ぎた。


「ひかり、GWってどう過ごすん?」


「前半はちょっと予定あって、後半はまだ決めてないかな。優は?」


「今んとこ特に何も。空いてるよ」


“特にない”

彼女とは過ごさないの?

それとも、過ごせない理由があるの?


その答えは、彼の口から聞かない限り、わからない。

でも、私は――聞かないって決めていた。

この距離感を、壊したくなかったから。


「彼女って、どんな人?」

その言葉が喉元まで出かかったけど、呑み込んだ。

お互い、あの日以降パートナーのことには触れない。

踏み込まないことでしか、守れない何かがある。


1ヶ月――

まだ、たった1ヶ月。

だけど、想いは確かに深くなっていて。

もう“ただの過ち”では済まされないものが、静かに育ち始めていた。


「前半って、旅行行くの?」


「まあ、そんなとこかな」


「どこ行くん? 国内?海外?」


「セブ島。金曜の仕事終わり、そのまま関空から」


「そっか。日焼け気ぃつけや、ひかり色白いし。将来、シミだらけなるで〜」


「余計なお世話やわ、ほんま(笑)」


「じゃあさ、後半の休み、俺と旅行行かへん? …しんどい?」


「ううん、しんどくなんかないよ。行こう!どこ行く?」


「うーん……しっぽり温泉? ディズニー? 北海道?」


「でも今から予約取れるかな?取れても、値段高いやろうし……行かなくてもいいよ」


「“行かなくてもいい”はあかん。“行かんでどうするん”」


「じゃあ、お互いの家でのんびり過ごすってのは?」


「ほな、俺んちでゆっくりしよっか。気が向いたらドライブでも」


「うん、それがいいな」


……どうして、”旅行”行こうなんて言ったんやろ

私が彼氏と旅行に行くって、わかってたから?

そんな気持ちが、胸の奥でざわついていた。


ゴールデンウィークを目前にした、ある土曜日。

優からメールが届いた。


「今日は何してるん?」


「今、洗濯中。終わったらマーケット行くよ。冷蔵庫すっからかんで食糧難やねん、笑」


「じゃあ、うちの下見に来る?」


「下見って、笑。でも……行こうかな」


「何時ごろになりそう?」


「15時くらいかな」


「わかった、出るとき連絡して。信号渡って左に入ったところの、3棟目の茶色のマンション。下に降りとくわ」


「了解!何か買っていくものある?」


「あとで一緒に行こや」


そう言われて、私は急いで洗濯を干し、着替えて準備を整えた。

「今から出るね」とメールを送って家を出る。


着いてみると、彼の姿はまだ見えない。

「着いたよ」ともう一度メールすると、すぐに電話が鳴った。


「ひかり?おらんやん」


「え?おるよ?」


「……あ!ひかり、こっち!」

少し先で手を振る彼の姿が見えた。


そうだった。彼は言っていたーー「3棟目の茶色のマンション」と。

でも私が立っていたのは4棟目。

ベージュのレンガが陽にあたって、優しげに見えたマンションだった。


「ごめんな、迎えに行けばよかったな。でも……ひかり?これ、茶色ではないよな?笑」


「えー似てるやん。日当たりによっては茶色に見えるって、ほんまやで?」


「そやな、ひかりの感性ってことにしとくわ。でも、4棟目やけどな、笑」


ふたりで笑い合ったその瞬間、

ちょっとしたすれ違いが、むしろ心を近づけてくれた気がした。


エントランスを抜けて、エレベーターで7階へ。

彼が鍵を開け、ドアを開けてくれる。


「はい、どうぞお上がり」


「おじゃまします」


靴を脱いで、ふたり並んで部屋へと上がる。

玄関脇には、丁寧に磨かれた黒い革靴が2足、きちんと並んでいる。

部屋の中は整っていて、少し無機質。でも、それが優らしくて、どこか落ち着く。


クローゼットの前には、真っ白なワイシャツが何枚か。

アイロンの折り目が、まっすぐきれいに残っていた。


几帳面な暮らしぶりが、そっと伝わってくる。


私が部屋を見回していると、優が声をかけてきた。


「あとで車出すから、イカリスーパー行ってみる?ちょっと高めやけど、他では見かけへんもんとかあって楽しいで」


「うん、楽しそう」


「せやから今はお酒やめとこな。コーヒーでいい?」


「うん、コーヒーで」


“お客さん扱い”されてるような照れくささと、でも、どこか大事にされてる嬉しさ。

彼の暮らしに、ほんの少しだけ足を踏み入れたような午後だった。


ふたり並んで、ゆっくりコーヒーを飲む。

まだ何も始まっていないようで。でも、確かに何かが始まりかけていた。


「綺麗にしてるんやね。ワイシャツも家で洗ってるんや。靴もピカピカやし」


「クリーニングって、地味に高いやん?持っていくのも、取りに行くのもめんどいしな。

靴も、俺、磨くの好きやねん。野球やってたから、スパイクもグローブも自分で手入れしてたし。

あれと一緒や。全然、めんどくさないで」


そう言って、彼は少し照れくさそうに笑った。


彼は元・高校球児。

背番号は〇ポジションは〇〇甲子園の土も踏んだことがある。

打順は○番。派手さはないけれど、堅実に守って、しっかり打つタイプ。

大学や社会人から声もかかっていたけれど、プロの道も選ばずに、野球から一歩引いて進学して、就職した。


「スーツだけはな、さすがに出してるけど」

冗談めかしてそう言う彼の横顔を見ながら、私は思う。

彼には、彼なりの想いや選択が、たくさんあったんだろうな――と。


「ひかり、土曜日やし、道混んでるかもしれん。ちょっと早めに出よっか。ドライブがてら、スーパー行こ」


「うん、そうしよ。行こっか」


そうして、ふたりでマンションを出て、駐車場に停めてある彼の車に乗り込む。

助手席に座るのは、あの日ハンバーグを食べに行った時以来だった。


「シートベルト締めてな」


彼の何気ない声かけにうなずきながら、ふと気づく。

……この角度、前と違う。

少しだけ倒れた背もたれ――誰かが座っていた証拠。

「彼女、やろうな」

そう思っても、口には出せない。

言葉にすれば、何かが壊れてしまいそうで。

触れられないまま、彼の横顔を見つめていた。


彼はやっぱり、よく喋る。

話題があるというより、日常の小さな出来事をユーモアに変えて話す人。

その語り口はまるで、漫談師のようで、

「この人、綾小路きみまろさん、超えるんじゃないかな」なんて、思わず心の中でつぶやいてしまう。


彼の話を聞いていると、自然と笑いがこぼれて、

ふと「この時間が、ずっと続けばいいのに」と思った。


車は、スーパーに到着した。


「ひかり、イカリスーパー初めて?」


「うん、初めて。近くにはないし」


そう言いながら、ふたりで並んで店内を歩く。

ワインやビール、珍しいおつまみやお惣菜に目を奪われながら、

「これ美味しそう」「これ見たことない!」と、他愛ない会話を交わす。

レジを済ませ、そのまま彼のマンションへ戻った。

帰り道でも、彼の“漫談”は健在だった。


「イカリとひかり……ひかりスーパーやな」


「それ、全然おもんない。田舎のローカルスーパーみたいな名前やん」


ツッコミどころ満載のジョークに、思わず笑ってしまう。

どうでもいいような話を延々としているうちに、気づけばもうマンションに着いていた。


「腹減った〜」


「いつも減ってるやん、笑」


「そんなことないで?寝てる時は減ってへんし」


「それ、お腹いっぱいで寝てるだけやろ?笑」


「せやな。起きたら減ってるけどな」


「ちょっとキッチン借りるね」


「ええよ、ご自由に」


その「ご自由に」という声と同時に、背後からすっと回された腕。

ぴたりと体を寄せられて、思わずドキリと心臓が跳ねる。


「ど、どうしたん?」


「ご飯、ちょっと後にしよ?」


「お腹すいてるって言ってたやん……」


「我慢できない……」


低く、熱のこもった声。

耳元にかかる吐息。

その瞬間、料理のことも、食材のことも、頭から吹き飛んでしまった。


彼の“空腹”は、私への渇望だった。

言葉より先に、身体がすべてを語っていた。


彼の温もりに触れると、それだけで――

他のことなんて、どうでもよくなっていく。


ソファに身をあずけたまま抱き合う。

テーブルには、さっき飲んだコーヒーのマグカップがそのまま置かれている。


ソファからフローリングにかけて、硬い床に押し倒されそうになりながら、

私も優の熱に応える。




「シャワー、しよっか」


ふたりで浴室へ向かう。


彼が背後からそっと抱きしめて囁く。


「ひかりがいっぱい感じてくれて、嬉しかった」


濡れた髪からぽたぽたと落ちる雫の音。

バスルームにほんのり残る、彼の低い声。


その響きが、心と身体にじわりと染み込んでいく。


シャワーを終え、バスタオルを巻きながら――


「お腹すいてるやろ?笑」


「……それ、いま言う?笑」

「でも、ほんまや。今度は、物理的に腹減ったわ」


「ほら、さっき我慢できへんかったからやん笑」


ふたりして笑いながら、キッチンへ向かう。

濡れた髪をバスタオルで軽く拭きながら、冷蔵庫を開ける。


「何か手伝おうか?」


「座っといて〜。その代わり、文句は言わないこと」


「文句?言うわけないやん。楽しみやわぁ」


床の冷たさも、さっきまで感じていた彼の熱も、まだ体のどこかに残ってる。

けれど、今はもう、“ふたりの日常”へと静かに戻っていく時間。


「ひかり、これめっちゃうまいわ〜。やっぱ俺、ひかりと飯食うのが一番楽しいかもしれん」


「ほんま?……それ、ビールのおかげちゃう?笑」


「いやいや、本音やって。

さっきの”メインディッシュ”も最高やったけど、今のメインも、なかなかやで?」


「もう、黙って食べてください。冷めるよ、笑」



ふたりの笑い声が部屋に広がっていく。

ビールを注ぎ合って、テレビはついてるのに誰も見ていない。

時計の針だけが、静かに少しずつ時を刻んでいく。


何気ないこの時間が、どうしようもなく愛おしい。

こんな夜がずっと続けばいいのに。

……でも、それが叶わないことも、ちゃんとわかっている。


だから今夜だけは、なにも考えずに。

満たされた心とお腹で、「おやすみ」を言いたいと思う。


キッチンに立つふたり。

食器を流す水音と、食後の静けさ。

その中でぽつぽつと交わす何気ない言葉が、なによりのぬくもり。


「楽しかった。ひかりと、こんな日常が過ごせたらって思うわ」


「夢の中の“日常”なら、叶うかも。

GWはその夢の中ってことにしようよ」


「そやな……夢の中なら、ずっと一緒におれるもんな」


「うん。目覚めるまで、ならね」


生き急ぐような彼。

その理由を、私はもう知っている。

過去に背負ったもの。現在の縛り。未来への不安。

――でも、私は急がない。

今ここにある、この時間を、大切に抱きしめたいだけ。


「そろそろ帰ろうかな。下見もできたし」


そう言いながら身支度を整える私に、

彼がふと呟く。


「ひかり、泊まっていったらあかん?」


帰ったところで、土曜の夜に何か予定があるわけじゃない。

明日の日曜も、きっと特別な予定なんてないのに。


「今日は下見できたから、ね。笑」


「じゃあ、送っていく」


「自転車やし、大丈夫やで?」


彼は「いいから」とだけ言って、玄関の鍵を手にした。

その自然な仕草に、私はもう何も言い返せなかった。


たぶん彼は、ただ「一緒にいたい」っていう気持ちを、最後まで伝えたかっただけ。

エレベーターの中、ふたりきり。

言葉は少なくても、空気は優しく、穏やかだった。


外に出ると、春の夜風が肌を撫でていく。

彼の歩くペースに、私は自然と歩幅を合わせた。

「ここでいいよ、自転車乗るから」

「ちゃんと家ついたら連絡して。……じゃあな、ひかり」


「うん。ありがとう。またね」


ペダルを踏み出した瞬間、背中に彼の視線を感じる。

優しく、まっすぐな、視線。


「下見」という名の時間。

だけどそれは、ふたりにとって確かに“本物の時間”だった。


けじめなんて、最初から存在しなかった。

許される関係でもないし、約束された未来でもない。

それでも、ふたりは出会ってしまった。


正しさや、境界線。

そんなものを探そうとしていたのかもしれない。

でも、線を引こうとするたびに、

心は何度でも、それを越えてしまう。


夜風が頬をかすめる。

ペダルを踏むたび、街の灯りが少しずつ遠ざかっていく。


彼の“急ぐような生き方”に、私は知らないうちに呼吸を合わせていたのかもしれない。


「今、着いたよ」


たったそれだけのメッセージに、

今日という一日を優しく終える気持ちを込める。


優からすぐに返信が届いた。


「ひかり、今日もありがとう。下見、ちゃんとしてくれて。GW、楽しみや」


それがどこまで本音なのか――もう聞かない。

でも、きっと彼なりの精一杯のやさしさ。


「こちらこそ。じゃあね。おやすみ」


会ったからといって、すべてがわかるわけじゃない。

でも、会うことで確かめられることがある。

触れて、笑って、沈黙をわかち合って、

そのひとつひとつが、今のふたりの「かたち」なんだと思う。


お互い、明日の予定は聞かない。

たぶん、聞かなくていい。


聞かないこともまた、優しさなのかもしれない。


私はただ、

彼が生き急がないように。

少しだけ、立ち止まれる場所でありたいと願う。


それだけで――

今夜は、もう十分だった。



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