第2話 ほうれん草と雨の夜
雨の日、駅裏の狭い路地。コンビニとビルの隙間をすり抜け、誰も通らないような裏道を進むと──
暖簾には、筆文字でこう書かれていた。
「居酒屋 ゆめのはしら」
こんな店、前はなかったはずだ。
だが、今日もまた足が止まってしまう。
大学を卒業したばかりの葵(あおい)は、就職活動や人間関係に疲れ切っていた。
帰る家も、気楽に話せる相手もいない。
──どうしても、帰りたくなかった。
そっと暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませ」
店内は、相変わらず温かい。カウンターが7席、テーブルが2つ。雨と畳、だしの香りが混ざる懐かしい匂い。
カウンターの向こうには、女将・灯子。落ち着いた着物姿で微笑むその姿は、この店そのもののようだった。
「お好きな席へどうぞ」
「……じゃあ、そこ」
葵が座ると、灯子はそっとお銚子と湯のみを置いた。
「今夜はぬる燗がよく合いますよ。ご注文は?」
「メニューは……?」
「うちは、決まったものしか出しません。今夜のお客様に、必要なものだけ」
「……また変わってるね」
「ですが、きっと気に入っていただけますよ」
灯子は台所の奥へ下がる。やがて湯気とともに現れたのは──
ほうれん草の白和え、塩焼きの鯖、あさりの味噌汁、そしてぬる燗の酒。
葵は箸を取る。口に運ぶと、胸の奥に眠っていた記憶が蘇った。
──小学生の頃、母と並んで食べた晩ごはん。
母が忙しくて慌ただしかった日も、鯖の塩焼きだけはいつもあった。
無言でも、どこかあたたかかった。
「……どうして、これがわかるんですか?」
灯子は微笑んだ。
「この店は、忘れたくない味を出すんです。
記憶の底に沈んでいても、今夜だけは、思い出せるように」
葵は目を閉じ、湯気の向こうに浮かぶ母の顔を思い浮かべた。
そして、そっと呟く。
「……ありがとう、灯子さん」
雨はまだ降っている。だが、葵の心の中の長い雨は、少しずつ止み始めていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、葵は自分の部屋の台所に立っていた。
冷蔵庫の中には、昨日買ったほうれん草と白味噌。スーパーの袋には、焼く前の鯖が1匹。
スマホを手に取り、迷った末に母の番号を押す。
ワンコール、ツーコール──
『……葵?』
「……もしもし。昨日、突然すまなかった。……今夜、晩ごはん、一緒にどう?」
沈黙の後、懐かしい声が答えた。
『……うん。いいよ』
雨の夜に現れた、夢のような居酒屋は、今日も誰かの心をそっと照らしていた。
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