居酒屋 ゆめのはしら Remake

もちうさ

第1話 雨の追憶


 雨の夜、駅裏の細い路地。

 コンビニとビルの間を抜けると、筆文字の暖簾が揺れていた。


「居酒屋 ゆめのはしら」


 人は、後悔のまま年を重ねる。


 それでも、「今さら」と口にしたとき、

 誰かがその続きをくれることが、あるかもしれない──。


 ◇ ◇ ◇


 東村蒼司(あずまむら・そうじ/43歳)は、夜の墓地の手前で立ち止まった。


 手には墓参りセット──花、水、そして缶のハイボールが一本。


 10年以上、会っていない父の墓だ。


 大学に入った年、勘当同然で家を飛び出した。

 借金、喧嘩、嘘、暴力──自分でもクズだと思っていた。

 それでも父は最後まで怒鳴らなかった。

 ただ一言──「もう、帰ってこなくていい」


 父の死を聞いたときも、蒼司は泣けなかった。

 いまさら泣く顔じゃないと思ったのだ。


 それなのに、なぜ今夜、墓の前に立っているのか。

 自分でもわからない。


 酒の缶を手にしたまま、墓地の手前で足が止まった。


 ──もう、帰るか。


 そう思った瞬間、風に混じって懐かしい匂いがした。


 焼き鳥の香ばしい匂い。醤油の焦げる匂い。

 それは、父と最後に入った近所の居酒屋の匂いだった。


 顔を上げると、目の前にあった。


 ──「居酒屋 ゆめのはしら」


 路地裏の小さな店。

 この場所に居酒屋なんて、なかったはずだ。

 でも、足は自然と暖簾をくぐっていた。


 ◇ ◇ ◇


「いらっしゃいませ」


 店内に客はいなかった。

 カウンターの向こう、女将がひとり静かに立っていた。


「墓参りの途中で……酒を一杯ください」


「はい。では、こちらを」


 出てきたのは、グラスに注がれたハイボールと、塩とタレの焼き鳥が二本だけ。


 一口飲んだ瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。

 ──あの夜の味が、そのまま蘇った。


 父が無理して「酒でも飲むか」と連れて行ってくれた、最後の夜。

 言葉はなくても、ただ並んで焼き鳥を食べた夜。


「……ずるいな、こういうの」


「ずるいことではありません。あなたが覚えていただけです」


「……だったら、俺に今さら来る資格なんてないだろ」


 灯子は首を横に振った。


「来たという事実こそが、答えです」


「……墓の前で、何を言えばいいかわかんねぇ」


「言葉で謝れないなら、黙って思えばいい。

 黙っても伝わらないなら、何度でも来ればいい。

 それが、生きている者の特権です」


 蒼司は目を伏せ、焼き鳥を口に運んだ。

 味は特別でもなんでもない。

 ただ──涙が止まらなかった。


 ◇ ◇ ◇


 店を出ると、空気が澄んでいた。


 少し明るくなった夜空の下、蒼司は父の墓の前に立つ。


 ハイボールの缶をそっと置いた。


「……よう、親父。今さらだが……飲もうぜ。久しぶりにな」


 風がゆるやかに吹き抜け、空は静かに晴れていた。

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