第33話 シャワー
俺の体調も万全になったことで、椎奈との朝練が再開となった。今日の椎奈は、大げさなスポーツバックを抱えていた。まぁ、気にしないことにしよう。
集合して、簡単な朝の挨拶を交わす。すぐにストレッチを始め、その後は公園のマラソンコースを3周する。計6キロのコースだ。男女の体力差はあるものの、今日の椎奈は余裕を持って俺のペースに付いてきていた。
まだ椎奈は、パラメーターを意識した練習を始めて数週間。だがその成長ぶりは圧倒的で、思わず感嘆してしまう。やはり、鬼畜ヒロインのスペックは高い。俺よりも、はるかに上位の存在だ。そんなことを考えながら、二人でランニングを終えた。
自動販売機の前で休憩する。スポーツドリンクを手に取り、喉を潤す。初日に奢って以来、椎奈も一緒に買いにくるようになっていた。俺が奢ろうとしても、椎奈は「わるいよ」と少し申し訳なさそうに言うので、無理強いせず素直に言葉を受け取っていた。
休憩を終えると、噴水の前の広場で剣道の素振りが始まる。俺たちは室内練習用の短い竹刀を手に取り、正面素振り、左右面素振り、前進後退素振りと、各百本ずつ――計三百本をこなす。
椎奈の素振りは美しく、速さや正確さだけでなく、力の入れ方や腕の使い方まで洗練されていた。俺の付け焼き刃の素振りとは明らかに違う。
「やっぱり、椎奈の素振りは綺麗だ。俺も参考になるよ」
思わずそう口にすると、椎奈は少し照れくさそうに答えた。
「ありがとう。私は龍二くんみたいな身長やパワーはないから、少しでも速く振れるようにしてるの。それに、小手先の技術も伸ばしたかったから」
「なるほどな。確かに椎奈の技術は本当に凄いと思うよ」
褒め言葉に、椎奈は小さく笑いながら、ぼそっと言った。
「上手くなってるのも、龍二くんのおかげだけどね」
その言葉に、少し胸が熱くなる。俺と椎奈は互いに認め合いながら、今日も練習を重ねていくのだった。
◇
練習を終えた俺たちは、公園で解散した。以前なら、家の場所を知られるのを少し警戒していたため、俺は少し時間をおいて帰宅していた。しかし今日からは、その必要もない。椎奈と一緒に歩きながら、帰路につく。
自宅の前に着き、俺は立ち止まった。「また後で」と挨拶しようとしたその時、椎奈はいつもより重そうなスポーツバックを持ち上げて、にっこりと笑いながら言った。
「お家、寄っていい?」
驚きで、俺は思わず「へっ?」と間抜けな声を漏らす。
「実は朝、そのまま一緒に登校しようと思って、着替えとか、全部持ってきちゃった」
「あっ、お母さんには許可とってるよ?」
可愛く話す椎奈。その言葉に、俺は頭が一瞬真っ白になった。言葉を選べず、ただ「あっ、ああ。いいぞ」と返す。
「ご、ごめん。忙しかったなら、一回家に戻るよ。ダメかな?」
「いや、大丈夫だ。気にするな」
椎奈は子どもみたいに跳ねるように喜び、満面の笑みを浮かべて「やったー♪」と叫ぶ。その様子に、俺は苦笑いを浮かべ、仕方なく受け入れるのだった。
◇
椎奈を家に招き入れる。さぁどうしよう。「とりあえず座って」と告げると、椎奈は照れくさそうに頬を染めて、
「あの、シャワー借りていい?」
と聞いてきた。
俺の思考が止まる。永遠のような一瞬の静寂。
いや、失念していた。シャワー?そりゃ浴びるだろう。あれだけ汗をかいたんだ。しかも夏だ。当社比1.5倍の汗だ。牛丼なら丼が汁で浸かるくらいだ。当然、俺だって浴びる。頭が沸騰し、思考が止まった俺は、つい余計な質問をしてしまった。
「いいけど、下着は?」
聞いた瞬間、冷や汗がダラダラ。自分の馬鹿さ加減を呪う。椎奈はボっと顔を赤くして考えているようだった。意を決したように、
「下着も…。その替えを持ってきたから…」
と答える。あぁ、俺は椎奈になんて事を答えさせているんだ。だが後悔先に立たずである。
「そっ、そうか。じゃあ先に浴びてくれ。俺は後でいいから」
そう告げると、椎奈は少し部屋を見渡して、
「あの…着替えは?どこで?」
と聞いてきた。
さて説明しよう。俺の部屋は一間である。俺の位置から部屋の全貌が見渡せる。風呂場は小さい扉の奥、小さなタイルが貼り付けられた人1人入るのがやっとの四角い浴槽が一つ、取ってつけたような少しだけ新しさを感じるシャワーと洗面台だけ。着替えるスペースなどない。
俺は気まずさを隠すこともせず、
「着替える場所は…。ない」
と答える。さすがに椎奈も理解した様子だ。朝練後にシャワーを浴びないのも論外だし、椎奈も「今日は家に帰ろうかな」と答えるだろう。俺は椎奈がそう答える事に期待していた。いや、実際は少しは邪な期待もしたのだが。だがそれは置いておく。
「じゃ、じゃあ。ちょっと向こう向いてて」
と、真っ赤になりながら告げる椎奈。まじか。神はいないのか。いやラブコメの神は間違いなく俺に微笑んでいる気がした。焦った俺は「わかった!!」と三部屋先まで響きそうな声をあげて同意した。急いで背を向ける。
「あっタオルは!?」
「だいじょぶ。持ってきたよ」
ガサガサと鞄からタオルと着替えを取り出す音。落ち着いたかと思うと、スルスルと衣擦れの小さな音が耳に届く。心臓が跳ね、鼓動が耳まで響く。ぱさっ、ぱさっと服が床に落ちる音。今、彼女は何を脱いでいるんだろう…。その想像だけで、俺の意識は少し熱を帯び、息が詰まりそうになる。
ふと視界に入ったテレビの液晶。
―――声にならない声をあげる俺。液晶に反射して、椎奈の後ろ姿が視界に入る。椎奈は何も身に着けていなかった。モノクロの裸体。剣道部で鍛えられた筋肉が、スレンダーな身体に美しくのっている。背中はほっそりと伸び、くびれが柔らかく曲線を描く。筋肉の輪郭が見え隠れするのに、腰から丸くしなやかな尻へと流れるラインは艶めかしい。――やばいと思い、視線を下げる。心臓は早鐘のように打ち、下半身が熱くなっていくのを感じた。
しばらくして、キィという扉の開く音と、シャーというシャワーの水音が静かに部屋に響く。俺はこれまで経験したことのないほど深く、体の奥から絞り出すような息をふぅ、と吐いた。シャワーの湿気と、椎奈の気配が残る空気に、思わず身体がぞくりと反応する。
◇
「あ、あの、シャワー上がったよー。着替えるから向こう向いてて」
シャワーの音が止み、少ししてから、かすかに椎奈の声が届く。俺は「分かった」と答え、視線を下げてテレビを見ないようにした。耳に残る水音と彼女の息遣いが、じわりと響き、まるで拷問のような時間を過ごす。
しばらくして、着替えを終えた椎奈が「いいよー」と声をかけてくる。俺は深いため息をつき、そっと振り返った。そこには、いつもより化粧っけのない、頬を淡く赤らめた椎奈が立っていた。その視線が、ほんのわずかに俺をとらえる。
「じゃあ俺も入るか」
入れ替わりで、俺は風呂場に向かう。椎奈は居間に移動し、スポーツバッグから化粧セットのようなものを取り出していた。俺がシャツを脱ぎ、上半身裸になって背を向けたままの椎奈を見る。少し熱い視線を感じ、思わずテレビを見ると、液晶越しに椎奈のトローンとした目と目が合ってしまう。頬を赤く染めた彼女は、慌てて「見てない、見てない」と小さく誤魔化す。その仕草に、俺の心臓は跳ね、思わずくすりと笑う。大きめのタオルを液晶にかけ、少し高鳴る胸の鼓動を落ち着けるのだった。
◇
俺はシャワーを浴びて、スキンケアをし、髪を整えて、風呂場を出る。急いで着替えて、椎奈に「もういいぞ」と声をかけた。
「椎奈、朝飯はどうする?」
と声をかける。
「私は途中のコンビニで買ってくつもりだよ」
と言っていたので、
「俺は作るけど、椎奈も食うか?」
と聞く。椎名は「え?いいの?」と目を輝かせていたので、
「残り物だけどな。構わないぞ」
と告げた。
俺は弁当の用意と、朝食の準備を同時にする。と言っても弁当は詰めるだけだから割愛するが。トースターでバターを塗った食パンを温めて、卵とベーコンで目玉焼きを作る。作りおきしている、キュウリとトマトとセロリのピクルスを皿に添える。固形のスープの素をマグカップに入れて、お湯を注ぐ。あとは牛乳だ。
「はいよ。どうぞ」
俺は朝食を一品一品、折り畳みの机に並べていく。椎奈は感動したように。「うわ~」と感嘆の声を漏らしていた。
「簡単な朝食だけどな。どうぞ召し上がれ」
「そんな事ないよ。龍二くんの作った朝食を食べれるなんて夢みたいだよ♪」
「ふふっ。大げさだな」
笑って答える。俺は食パンの上に卵焼きをサンドして丸かじりだ。椎奈も俺をまねてサンドしているが、卵の黄身が割れて手に掛かってしまった。ワタワタしている椎奈にティッシュペーパーを差し出す。
「ゴミ箱、そこな」
件のタオルがかかったテレビの横にあるごみ箱を指さした。
「ありがとう」
椎奈はティッシュペーパーで手を拭き、膝を立ててゴミ箱に向かう。その仕草の合間に、ちらりとスカートの中が視界に入ってしまう。黒か…。無防備な彼女の姿に、思わず息を呑み、俺はまた頭を抱えるのだった。
朝食を全て食べて、最後は牛乳で流し込む。椎奈も完食したようだ。
「ん~。おいしかった♪」
満足げな椎奈を見て俺も安堵する。
「今後は、私が何か作ってあげるよ」
そんな事を言う椎奈に、「期待してる」と告げるのだった。朝食を食べて、準備を整えた俺たちは、今日も二人で仲良く登校するのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。