第32話 椎奈との日常

椎奈が見舞いに来てくれた翌日。今日は病み上がりということで、朝練は休みにした。昨日のうちに、そのことは椎奈へ伝えてある。


体調はもう万全と言っていい。廊下でAクラスの生徒とトラブルを起こしてからというもの、試験期間中は勉強以外は休養にあて、落ち着いてきたところで極めつけに風邪を引いた。だがそのおかげで、久しぶりにしっかりと休むことができたのも事実だ。もっとも、あの風邪がストレスのせいだったのかは分からない。雨に濡れたこともあるし、ストレス値に対しての外的要因が引き金になったのかもしれない。そんなことを考えていた。


けれど、今はそれよりも大切なことがある。椎奈のことだ。


昨日、彼女が見舞いに来てくれたとき、俺は自分の生い立ちをほんの少しだけ話した。涙を流して聞いてくれた椎奈。そのとき口にした「癒してあげたい」という言葉が、いまも胸に残っている。


そして、彼女は俺に告白してくれた。好きだと。諦められないと。


俺は恋愛に特別な興味を持ってこなかった。それは自己肯定感の低さに起因するのだろう。孤児となる経緯。幼少期に感じた記憶の重さが、深く染みついているからだ。


好きだと、椎奈は言った。いや、言わせてしまった、の方が正しいのかもしれない。

俺にも椎奈への好意はある。間違いなく。だがそれは、親愛の情に近いものだと思っていた。家族への感情が希薄な俺にとって、彼女への想いはそれに似た温かさに思えた。


「好き」


ただの二文字。けれどこの言葉は、俺にとってフェルマーの最終定理よりも難解な問題だ。


俺は答えを出せるのか。いや、出さなければならない。椎奈に対しては誠実でありたい。彼女から想いを伝えてもらったのなら、今度は俺からもきちんと伝えるべきだ。


この時の俺は、まだ自分の中に芽生えつつある「気持ち」に気づいてはいなかった。けれど確かに、前に進み始めていた。



洗い物を増やさぬよう簡単な朝食をとり、顔を洗っていつものフェイスケアをする。うん、つるふわ卵肌。髪型を整えれば、爽やかな男前の完成だ。最近は運動を控えていたが、美容だけは手を抜かなかった。歯を磨き、制服に着替え、足早に支度を整える。


――昨日の今日だ。椎奈に会うことを思うと、驚くほど胸がざわついていた。


ガチャリとドアを開け、アパートの共有廊下から公道へ出た、その瞬間。


「あっ、おっ、おはよ!」


声をかけられて振り向くと、そこには椎奈がいた。うっすらと頬を染め、右手を軽く上げて微笑んでいる。


「びっくりした……。おはよう」


待ち合わせ場所までに気持ちを整えようと思っていた心臓が、ドキリと跳ねる。


「わざわざ来てくれたのか。ありがとう」


「うん。朝起きたら、その。どうしても顔が見たくなっちゃって。少し早く家を出ちゃったから、迎えにきたの」


椎奈は照れくさそうに笑った。


「そうだったのか。ごめんな。次からは教えてくれれば、部屋の中で待ってていいから」


「次も……。いいの?」


「もちろんだ。俺もうれしい」


そう答えると、椎奈はぱっと表情を明るくし、嬉しそうに言った。


「分かった♪」


いつまでも立ち話をしているのも気恥ずかしくて、「行くか」と切り出すと、椎奈も小さく頷いた。俺たちは並んで歩き出し、ぎこちないながらも穏やかな笑い声を交わしながら楽しく登校していった。



教室に着くと鞄を置き、俺はひとり職員室へ向かった。目的は答案の返却だ。本来なら昨日渡されるはずだったが、休んでしまったため直接取りに来ることになった。椎奈に登校中、なるべく早く行くようにと言われた。


職員室の前につき、貼り出された成績順位表に目を向ける。昨日は人だかりで賑わっていたのだろう廊下も、今は静まり返っている。表に視線を走らせると。


6位 茅野椎奈 472点


思わず感嘆の息が漏れる。六位か。さすがだな。一方、自分の名前を探しても、当然のように十位以内にはない。当初から分かっていたことだが、実際に突きつけられると、やはり少し落ち込む。


それにしても椎奈はすごい。部活にも顔を出し、俺との稽古にも付き合って、それでこの順位だ。もともとの資質の差なのだろう。勉強すればするほど、その学力がさらに際立っていく。椎奈だけではない、順位表に載っている十人が、どれほどの努力と研鑽を積み重ねてきたか。勉強を真剣に取り組み始めた今の俺なら理解できる。俺なんて、ゲームの知識を総動員してこれなのにな。


気を取り直して職員室に足を踏み入れる。入学以来、初めて訪れた場所だ。きょろきょろと担任の席を探していると、


「おーい、相良、ここだ!」


筋肉質な体に坊主頭。どう見ても体育教師にしか見えない現国の教師――担任の土井研二どいけんじ 先生(38歳)が手を挙げて呼んでくれた。


「先生、おはようございます。茅野に言われて答案を取りに来ました」


「おう、ちょっと待ってな」


整理されていない棚の一番上からクリアファイルを取り出し、五教科分の答案を渡してくれる。


「ありがとうございます」


「428点。学年20位だな。中間から150点以上アップだ。よく頑張ったじゃないか」


先生は答案と一緒に結果を褒めてくれた。その言葉が胸に染みて、思わず口を開く。


「次は、もっと上を目指します」


「よし、その意気だ」


先生に肩を叩かれ、俺は職員室を後にした。


教室へ戻ると、ちょうど授業が始まるところだった。席に着くと椎奈と目が合い、俺は右手でピースサインを作って見せる。椎奈はそれを見て、察したように「ニシシ」と笑った。



昼休み、弁当の準備をしていると、鞄を手にした椎奈が俺の席へやって来た。


「お昼、一緒に食べよ?」


小首を傾げる仕草ひとつ。見た目だけは完璧なクールビューティーに映る椎奈。そんな彼女にあんなことをされたら。


「……かわいい」


気づけば言葉が漏れていた。その一言に、椎奈はわずかに目を見開き、頬を赤く染める。しっかりと照れているその姿が、またたまらなく愛らしい。


――だから、かわいいってば。


まあいい。俺はその誘いを快く受けた。

異性と一緒に昼を食べるなんて初めてのことで、胸が妙に浮き立ってしまう。


「よし、食うか!場所はどうする?」


問いかけると、椎奈は少し考えてから答えた。


「……中庭はどうかな?」


「大丈夫。じゃあ、中庭に行こう」


そう言って席を立ち、二人並んで教室を後にした。



うちの校舎は三階建てで、中庭をぐるりと囲むように造られている。だから各階の廊下や教室からは、中庭の様子が丸見えだ。言ってしまえば、衆目の的。俺は「いいよ」と同意したその瞬間、心の中で「やってしまった」と頭を抱えていた。


中庭で男女が並んで弁当を食べる。それは並のカップルですらなかなか到達できない、勇気と無鉄砲さを要する領域だ。学校中の視線を浴びながらも、二人だけの世界に没入できる連中にしか許されない禁足地。つまり、ここで弁当を広げる時点で「バカップル認定」されるってわけである。


冷や汗を流しつつベンチに腰を下ろした俺の隣に、当然のように椎奈が座る。その距離は――もう腰がくっついてますよっ! と心の中で叫びたくなるほど近い。夏の暑さと、冷や汗とで、俺の体温はすでに限界突破だ。弁当を食べるどころじゃない。時折、椎奈がハンカチで俺の汗を拭いてくれるたびに、羞恥心で死にそうになる。


俺の弁当は、昨夜の残り物と冷凍白米をチンして詰め込んだ、いかにも独り身男子の知恵が凝縮された代物だ。一方で、椎奈のお弁当はお母さんの手作り。ツヤツヤと光るおかずのハンバーグが実に美味そうで、気づけば視線が吸い寄せられていた。


「ん?食べたいの?食べる?」


椎奈の問いかけに、俺は申し訳なさそうに、けれど素直に答える。


「あー……。そのハンバーグ、美味そうだな」


クスリと笑った椎奈が「いいよ♪」と軽やかに返し、ハンバーグを小分けにして箸でつまみ、左手を添えて俺の方へ差し出してくる。


「はい、あーん♪」


……まじかよ。俺の学生生活に、こんなイベントが用意されていたなんて。感動で動揺しつつも、「あ、あーん」と雛鳥のように口を開け、椎奈からハンバーグを餌付けされる俺。


「美味しい?」


「あー……。まじで美味い」


「よかった♪」


うれしそうに微笑む椎奈の顔を見て、さっきまでの羞恥心も少しは報われた気がした。


やがて昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。俺たちは慌ただしく弁当を片付け、そそくさと教室へ戻っていった。


そのとき、中庭に注がれていた無数の視線の中に、ひときわ濃く重いものが混じっていたことに、俺はまだ気づいていなかった。



放課後。今日は俺と椎奈、そろって部活の日だ。


授業を終えた俺の肩に、ふいに椎奈がしなだれかかってきて、思わずビクリと体を硬直させる。


「龍二くん。部活いこー」


そんな甘えるような誘い方をされて、断れるはずもない。俺はうなずき、二人で部活へ向かうことになった。


道着に着替え、体育館一階の武道場へ。ちなみに、うちの体育館は一階が武道場で剣道部と柔道部が使っており、二階は普通の体育館で、ボールを扱う部活が活動している。


武道場に入ると、まずは軽いランニングとストレッチで体を温める。それから基礎練習へ。素振りに始まり、足さばき、打ち込み稽古、掛かり稽古と続き、最後に応用稽古を一つ行う流れだ。応用稽古には技稽古、地稽古、試合稽古と種類があり、俺が以前、椎奈から一本を取ったのは、審判を立てて本番さながらに行う試合稽古だった。


今日は椎奈と組み、地稽古に臨む。地稽古というのは、自由に立ち合う試合形式の稽古――つまり、実力がそのまま出る真剣勝負の場である。



道場の床板に、竹刀の音が乾いた拍子を刻む。


「面っ!」


椎奈の鋭い踏み込みが響き、俺の面を狙う一撃が走った。だが一歩も退かず、竹刀をすっと斜めにさばいて受け流す。


間合いを取り直した二人。汗が額を伝い、面金の奥からは荒い呼吸が漏れる。俺はじっと椎奈を見据え、次の一瞬を待った。


「はぁっ!」


今度は俺が仕掛ける。出ばなを狙った小手。椎奈は素早く竹刀を返し、打ち落とすように応じ技を繰り出した。道場の空気が一層張り詰める。


乾いた竹刀の音が重なり合う。椎奈の面打ちは鋭く冴えていた。だが俺は一歩も退かず、冷静に受け止める。足さばきで間合いを保ちながら、ただ隙を探る。


「面っ!」


再び椎奈が踏み込む。鋭い気合が道場を震わせた瞬間――俺は竹刀を低く下げ、小手を打ち抜いた。乾いた音とともに、椎奈の動きが止まる。


「……参った」


面の奥から、悔しげな声がもれる。なんとか勝てたが、やはり椎奈は強い。俺と朝練を重ねるうちに、目に見えて成長している。勝率は辛うじて六割、といったところだ。


「ふーっ。相変わらず龍二くん、つよいねー」


「いや、今回は危なかった。椎奈も強い」


「龍二くんと知り合ってから、私もほんとに強くなったよ。まさに勝利の女神だね♪」


「女神って……」


軽口を交わすが、心の中ではわかっていた。実際に格上なのは椎奈のほうだ。彼女はすでに二段保持者。高一の夏でこの段位は最高と言える。対して、俺はまだ無段。高校から剣道を始めた身だ。


さらに八月には椎奈がインターハイ本戦へ挑む。俺は五月の予選で敗退している。やはり、彼女の方が一歩も二歩も先を進んでいた。



部活が終わり、顧問に合宿の参加届を提出したあと、俺と椎奈は自然と並んで校門を出た。


初めて会話を交わしたあの日以来、特に用事がなければ一緒に帰るのが習慣になっていた。登校と同じで、待ち合わせをしているわけではない。ただ、気づけば隣にいる。最初のころは、周囲の生徒に詮索するような視線を向けられたものだが、今ではすっかり見慣れた光景として、誰も気に留めなくなっていた。


「おつかれー! 帰ろっか♪」


部活帰りとは思えない元気な声。


「おう。帰るか」


俺は心地よい疲労感を抱えつつ、椎奈と並んで歩き出す。


「椎奈。試験の順位、見たよ。凄かったな」


素直な気持ちでそう告げると、椎奈は少し照れたように笑った。


「あはは、恥ずかしいな。でもね、頑張ったんだ。龍二くんが頑張ってるの知ってたから。私も負けてられないなって」


「そうか。一緒にいて、少しでも椎奈の力になれたなら嬉しいよ」


俺の言葉に、椎奈は小さく頷いた。


「うん。すごく力になってる。……龍二くんと、その、友達になれてよかった」


どこか含みのある笑顔を浮かべる。


「友達、か」


思わずつぶやくと、椎奈の肩が小さく跳ねた。


「え? 友達じゃなかった?」


俺は少しだけ考えてから、ゆっくり答える。


「そうだな。……友達以上、恋人未満ってところか」


一瞬きょとんとしたあと、椎奈はぱっと笑顔を咲かせた。


「うん。そうだね♪」


その笑顔を見て、胸が熱くなる。少し照れくさい空気の中、たわいのない会話を重ねて歩く。


やがて椎奈が思い出したように口を開いた。


「あっ! そういえば答案、返却されたんでしょ? どうだった?」


「428点。学年20位だってさ。中間試験から150点アップ」


そう言ってピースサインを作ると、椎奈は目を輝かせた。


「すごいじゃん!! 150点アップ!? 本当にすごーい!」


無邪気に褒められると、胸の奥が熱くなる。たったそれだけで、この一か月の努力が報われた気がした。


「なんか、ご褒美用意しなきゃね! チョコ……はバレンタインじゃないしな。じゃあ、どこか遊びに行こ!」


「気にしなくていいぞ……って思ったけど。椎奈と遊べるなら嬉しいな。行こうか」


そう答えると、椎奈は嬉しそうに弾んだ声をあげた。


「やった! どこに行こうかな、映画とか……。うーん」


独り言のように呟きながら歩く彼女を、俺は穏やかに見つめる。

暮れゆく空の下、二人で並んで帰路についた。

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