第29話 茅野椎奈 - 諦めなくていい

茅野椎奈 かやのしいなSIDE>


「届けもの?」


龍二くんは、少し驚いたような顔で私を見つめる。


「あはは〜…。そ、そう。先生から…。その、プリント」


「そうか、ありがとう。とりあえず上がるか?」


鞄の中をガサガサとプリントを探していた手を止め、龍二くんを見る。


「え? 出かけるんじゃないの?」


「いや、そこの自販機で飲み物を買うだけだから」


「そっか。じゃあ、上がらせてもらおうかな」


私は男の子の部屋に上がる。少し、期待してしまう。


「分かった。じゃあ入って待っててくれるか?」


うん、と頷きながら玄関に入る。家族で住むには狭すぎる玄関に、私は少し困惑した。


狭い玄関には、男物のローファーと運動靴が二足だけ。私は靴を脱いで揃える。玄関の横には、数世代前を思わせるキッチン、小さな一人用の冷蔵庫と炊飯器。奥を見ると、八畳ほどの部屋。紺色のカーテンがかかった古めかしい窓と、年季を感じる押入れの襖に、真新しい若草色の畳が妙な違和感を醸し出していた。


窓際には、先ほどまで龍二くんが横になっていたであろう捲れ上がった布団と、読みかけの小説。飲み終えた烏龍茶のペットボトルが転がっている。


ご家族は……? もしかして、一人暮らし? そんなことを考えながら、私は困惑して部屋を見渡していると――ガチャリ、と古めかしい音がして玄関の扉が開いた。龍二くんだ。


「狭いだろ?」


少し自虐めいた声で私を一瞥する龍二くん。私は振り返り、彼を見る。


「ほれ」


龍二くんからスポーツドリンクのペットボトルが投げ渡される。龍二くんは烏龍茶のペットボトルを持っていた。


私は咄嗟に受け取り――


「スポドリって。ここは烏龍茶でしょ」


初めての朝練を思い出して、少し揶揄うように視線を向けると、「また間接キスするか?」と意地悪そうに言われた。龍二くんは未開封のスポーツドリンクを私から取り上げ、代わりに未開封の烏龍茶を渡してくれる。少し勿体なかったかな……そんなことを思った。


「とりあえずさ、座れよ」


壁に立てかけてあった折り畳み机を広げ、部屋の中央に置く。龍二くんは自分の布団の上に座った。


「それで、届け物って?」


私も龍二くんの対面に正座して座り、今度はきちんと鞄の中を確認して、先生から渡されたプリントを取り出す。


「これ。合宿参加の出欠確認。参加の有無に丸をして、名前を書いて、明日までに提出なんだって」


「ありがとう。……って、明日? マジかよ。急だな」


少し驚いた顔の龍二くん。


「ひどいよね。先生、忘れてたんだって」


私は苦笑しながら答える。


「まぁ、丸をして名前を書くくらいなら簡単でいいけどさ。保護者の署名が必要だったらやばかったぞ……。それで椎奈は参加するのか? 合宿」


無意識に、でも素直に答える龍二くん。その言葉で、保護者の署名が難しい状況なのだと察する。察したのに、気持ちは深追いしたくなる。


「合宿には参加するよ」


「そうか! 場所はどこなんだ?」


「山梨県。湖のほとりにある保養所だってよ」


私はプリントに書かれた保養所の住所を指差し、簡潔に場所を告げる。


「そうか、それは楽しみだな」


子供みたいに楽しそうにケラケラ笑う龍二くん。その笑顔を見て、私は決めた――龍二くんの家族のことは知りたい。でも、龍二くんのプライベートに勝手に踏み込むべきじゃない。


「椎奈と一緒なら最高の思い出になる」


最大級の笑顔を向けられ、私は自分の顔が赤くなるのを認識した。龍二くんはずるい。ぶっきらぼうな態度とは裏腹に、その笑顔は少年のように眩しい。


――ダメだ。龍二くんに踏み込みたい。知りたい。ダメなのに……。私の倫理感が決壊する。


「ねえ。龍二くん」


言葉を発した私自身が驚いた。完全に無意識だった。


「ん? どうした?」


笑顔だった龍二くんは、私の真剣な声音に、真剣な表情になる。


「あ、あのね、聞きたいことがあるの」


「私は龍二くんの事なら何でも知りたいって思ってる。それで、私にできることがあるなら力になりたい。寂しい時とか、悲しい時はそばにいてあげたいし、癒してあげたい」


龍二くんは真剣な表情で、私の次の言葉を待つ。私は聞いた。


「龍二くん。その……ご家族は?」


「……」


申し訳なさそうな表情を浮かべ、何かを考えながら私を見つめる龍二くん。沈黙がつらい。でも、私は彼の言葉を待った。


「家族は……。いない」


「俺は孤児だ」


私の頭は真っ白になった。自分で聞いておいてこれだ。なんて無責任な。


どうしてこんなことを聞いてしまったのだろう。だけど、知ることで、少しでも彼の気持ちに触れられるかもしれないと思ってしまったのだ。


私が家に帰れば、お母さんとお父さんがいる。帰る頃には台所でお母さんが晩御飯を支度しているだろう。お父さんはまだ満員電車の中かもしれない。でも、夜には全員揃ってご飯を食べる。ありふれた家庭の風景。私は特別じゃない。


私たちの同級生や部活の先輩たちも、家に帰れば親がいる。片親かもしれないけれど、それでも朝起きたら「おはよう」と言える相手がいる。普通の家族。私たちは特別じゃない。


でも、同時に気づく。私にとって当たり前のことが、彼にとっては特別なんだと。


私は、龍二くんを見つめる。


私が家族と温かいご飯を囲むその時間、彼はひとりで過ごしているのだろう。その孤独を思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。


――特別じゃないのは……彼のほうだ、と。


そう思った瞬間、涙が溢れた。両手で顔を押さえて俯く。龍二くんの表情は見えない。家族がいないことを告白させてしまった――私はなんて、残酷で浅はかなんだ……。


「椎奈!? 大丈夫か!? 落ち着け、お茶飲め!」


私の心の機微など理解できず、ただ心配してオロオロする龍二くん。その姿が容易に想像できて、なんだかとても愛しかった。



――ヒッグッ、ヒッグッ。


やがて涙は止まった。でも泣き顔を見られたくなくて俯いていると、枕元にあったティッシュを机に置き、差し出してくれる。


「とりあえず、鼻かめ」


少し心配するような優しい声音。私はティッシュを一枚もらい、ズズッと鼻をかむ。ちょっと恥ずかしくて、顔が熱くなる。使い終わったティッシュはこっそりスカートのポケットに入れ、改めて龍二くんに向き直る。


「その……ごめんね。答えづらいこと、答えさせちゃって」


私が謝ると、龍二くんは言った。


「気にするな。別に隠したいわけじゃないんだ。それに、椎奈には言っただろ? そのうち話すって。それがたまたま今日だっただけだよ」


「そうなんだ……。でも、それじゃあ、その……彼女を作る気がないって話も関係してるの?」


龍二くんは少し困ったように微笑み、答える。


「考えてない、というより……自分が恋愛する資格を、自分で認められてない。そんな感じだな」


龍二くんは申し訳なさそうに続ける。


「俺は両親がいないから、この先どうなるか分からない人間だ。環境がよくなるように自分なりに努力はしているけど、孤児が社会に出てちゃんとやっていけるかなんて分からないだろ?そんなリスクを周りの人に負わせたくない。ましてや彼女なんてな……自信がないんだ」


肩を落として苦笑いする龍二くん。その懺悔めいた言葉に、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。


「龍二くんの自信がないって気持ちは……理解したよ。自分を認められないことも、なんとなく分かる」


静かに言いながら、けれど胸の奥には燃えるような熱が広がっていく。


「でも……」


視線を逸らさずに続ける。


「好きじゃないって言われたなら諦められる。ほかに大事な人がいるなら、それも受け入れる。私の性格が合わないなら、泣き虫なところが嫌だっていうなら……悲しいけど、納得する」


声は落ち着いているのに、胸の鼓動だけが張りつめて速くなる。


「でも、自信がないなんて……そんな理由で、私はどうしたらいいの?」


吐息のような言葉が、静寂を切り裂くように響いた。


震える指先を膝の上でぎゅっと握りしめながら、私は必死に言葉を紡ぐ。


「私は……」


胸の奥で燃え上がる想いを、どうしても抑えることができなかった。


「私は龍二くんが好き。だから……そんな理由じゃ、諦められない」


声は小さく、静かだった。けれどその響きは、抑えきれない激情を秘めていた。



言葉を探すような沈黙のあと、龍二くんは小さく息をつき、答えを紡ぎ始めた。


「ありがとう。素直に嬉しいよ。少しびっくりした。でも……嬉しい」


龍二くんの言葉は途切れず、そのまま私に向けて続いた。


「俺はさ、椎奈のことすごく大切だ。好意もある。可愛いと思ってる。必ず気持ちに決着をつける。その……だから、俺が言うことじゃないんだが」


「椎奈は諦めなくていい」


胸の奥でずっと燻っていた不安が、一瞬にして溶けていくような感覚。自分の気持ちを認めてもらえたことの喜びと、今まで押し殺してきた恋心が、ゆっくりと、でも確かに胸を満たしていく。


涙が出そうになるのを必死で堪えながら、私は小さく呟いた。


「諦めなくていい……」


その言葉が、私の心の奥深くまで響き、静かな熱を帯びる。頬がほんのり熱くなる。胸の奥の小さな火が、抑えきれないほどに燃え上がりそうで、けれどその炎は優しく、優しく私を包むようだった。


――嬉しい。


胸の奥でまだ余韻は残っているのに、私はそれを隠すように平然を装う。彼がよく知るあの笑顔を意識して、ニシシと笑って返した。


「言質はとったよ、龍二くん。期待して待ってるね♪」


少し鼻声の私の声。もうちょっと素敵な告白ができたらな、と私は思った。でも、龍二くんの顔は優しくて、頬がほんのり赤いのもわかる。


乾いた喉を潤そうと、烏龍茶を一口飲む。夕陽はすでに低く、部屋の中を淡く染めていた。良い子はもう帰る時間。でも、私はもう少し、この瞬間に浸っていたい気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る