TS女魔法師になったネトゲ廃人~極悪アップデートのVRMMO世界に放り込まれるなんて聞いてない!

桐谷アキラ

第1話 仕様変更で突然のヘルモード

「……え?ここ、どこ?」


 思わずつぶやいた自分の声に、“僕”は一番最初にゾッとした。

 耳に届いたのは、聞き慣れない透明なアルト。喉の奥の響きも、舌の置き場も、息の抜け方も、いつもの“僕”じゃない。


 反射的に喉へ手を当てる。――喉仏が、ない。


 指先に触れる肌は細く、骨ばっていない。声帯の震えは軽いのに、空気を滑るようによく通る。


(……ちょっと待て。僕、篠原悠真、だよな?

 二十代後半、平凡な社畜の、平凡な――“男”だったはずだよな?)


 胸元でローブの布がわずかに膨らんでいるのを感じて、背筋が冷たくなる。

 重心も違う。視界の高さも、肩幅も、腕の細さも、全部。


 吐き出された言葉は、自分でも信じられないくらい頼りなく震えているのに、耳に残るのはどこまでも澄んだ“女性の声”。


 肩口に当たる柔らかな髪の感触と、その華奢な身体を包むローブの重みが、現実感という名の重しになって“僕”の意識を押しつぶしてくる。


 ほんの一瞬前まで、僕は狭いワンルームのベッドに寝転がっていたはずだ。

 VRゴーグルをかぶり、コントローラーを握りしめて。


 お気に入りのオンラインRPG《エターナル・クエスト》。

 十年以上続いている老舗VRMMOで、僕は“セレス”という名の金髪の女性魔法師としてログインしていた。


 学生時代からの積み重ねで、メイン職レベル250を三周カンスト。

 サブクラス二つ持ちの、いわゆるやり込み勢。

 大規模クランには属さず、社会人ソロとして黙々と周回を回す、典型的なネトゲ廃人――それが篠原悠真だ。


 女性アバターにしたのは、ただのロールプレイのつもりだった。

 長く付き合うなら、もうひとつの人生を演じてみたい。

 そんな軽い遊び心だったのに、十年も演じ続ければ、“彼女”はもう一人の“僕”として完全に馴染んでいた。


 ――そのセレスとして、いつものオークジェネラル討伐に挑んでいた、ただの休日の夜。


 それが、今。


 足元に広がるのは、冷たく固い石畳。

 鼻を刺すのは、硫黄の焦げたような匂い。

 遠くから地鳴りとなって押し寄せる咆哮が、鼓膜を内側から殴りつけてくる。


 視界いっぱいに広がるのは、画面越しに見慣れたダンジョンの光景。

 けれど今そこにあるのは、紛れもない“現実”だった。


(どういうこと……? これは、ゲームじゃない……)


 熱気が肌を刺し、握りしめた杖の木目が掌に食い込む。

 ローブの重みは想像していたよりずっと重く、裾が足首に絡みつくたび、体の重心が他人のものみたいに揺れた。


 条件反射のように、視界の端にHPバーとミニマップを探す。

 いつもならそこに張りついているはずの、色付きのウィンドウが――どこにもない。


(……インベントリ、オープン)


 心の中でコマンドを呼び出す。

 何も起きない。


 もう一度、念じる。ステータス、チャットログ、システムウィンドウ。

 それでも、視界には石畳と揺れる焔しか映らなかった。


 ――便利なUIごと、まるごと消えている。


「……な、なにこれ……こわい……」


 かすれた声がすぐ近くから聞こえた。

 反射的に振り向くと、白いローブの小柄な僧侶リリィが、怯えきった目で立ち尽くしていた。震える指で杖を胸に抱きしめ、子どものように肩をすくめている。


 いつもなら「HPバー半分削られた〜」と笑っている彼女が、今は生身の体で震えていた。


 重装の騎士ガルドは眉間に深い皺を刻み、盾を構えたまま動かない。

 平静を装おうとしているが、肩に乗った鉄の重みをごまかすように、指がわずかに震えている。


 シーフのカイは苦笑を浮かべつつ、落ち着かない視線で周囲を一瞥した。

 戦士ヴァレリアは喉をひとつ鳴らし、冗談で場を和ませようとして――結局、何も言葉が出てこないでいる。


 ――全員が、混乱の縁にいる。


 それでも、長年の“習慣”だけは、身体の奥でかろうじて息をしていた。


「落ち着け、リリィ! 全部後だ、後で考えろ!」


 ガルドの低い声が、場に楔を打つように響く。

 前衛としての矜持だけが、その声の芯を辛うじて支えていた。


 僕――いや、“私”は小さく息を吸い、内側の“悠真”を無理やり押し込める。


(怖いに決まってる。でも――今は“私”だ。

 この場にいるのは篠原悠真じゃない。最高の魔法師、《セレス》だ)


「リリィ、後ろに下がって。私が前を焼く」


 セレスの声に、リリィはこくこくと頷き、一歩、二歩と後退した。

 足取りの不安さが、そのままパーティ全員の心拍を代弁している。


 次の瞬間、オークジェネラルが獣じみた咆哮と共に棍棒を振り下ろした。

 床石が砕け、破片が跳ね、耳を裂く音が広間に響き渡る。


「来るぞ!」


 ガルドが前に出て盾を構え、ヴァレリアが右から回り込む。

 カイは影のような身のこなしで、巨体の背後を狙う位置へ滑り込んだ。


 ――何百回も繰り返した討伐戦の“定型”。

 そのパターンが、今は命綱だ。


 喉が、自然と馴染みきった詠唱を紡ぎ始める。

 本来なら、ここは範囲魔法でまとめて焼き払う局面だ。そう、いつもなら。


 だけど――


(……嫌な予感がする……!)


 胸の奥で、どこか冷たい“悠真”の部分がブレーキを踏んだ。


 詠唱を進めながら、意識の向け方をぐっとねじ曲げる。

 その瞬間――構築されかけていた魔法陣が、ぐにゃりと歪んだ。


 幾何学模様のラインが組み替わり、光が別の回路を描いていくのが“視える”。


(今の……私が操作した? こんなの、ゲームじゃありえない……)


 肌を逆撫でする違和感と同時に、胸の奥で知的好奇心が火花を散らした。

 なぜ。どうして。どこまで変えられる。――だが、その全てを押し殺す。


 今は考える暇なんてない。

 まずは、目の前のオークを倒さなければ――こっちが死ぬ。


「――《ファイアランス》!」


 灼熱の炎の槍が空を裂き、オークジェネラルの胸郭を次々と穿つ。

 肉が焦げる匂いが鼻を突き、断末魔の叫びが耳を震わせる。


 数拍ののち、巨体が崩れ落ちた。

 石畳には、飛び散った血と肉の破片が、行き場を失ったまま張り付いている。


「……おい、セレス。なんで範囲魔法を使わなかった?」


 ヴァレリアが額の汗を拭いながら、訝しげに目を細めた。

 カイも肩を竦め、半歩こちらへ体を向ける。

 ガルドは無言のまま、答えを待つ視線を投げてきた。


 リリィは杖を胸に抱いたまま、縋りつくような目で“私”を見ている。


 皆の視線が一点に集まる。


 セレスは一瞬だけ呼吸を整え、口元に“理想の魔法師”らしい柔らかな笑みを貼り付けた。


(みんなを怖がらせない。けれど、誤魔化さない。

 篠原悠真としての臆病さは、いったん奥にしまおう)


「……念のため、ね」


 自分の声が、思ったより落ち着いて聞こえるのが他人事のようだった。


「この状況が、あまりにも現実的すぎたから。範囲魔法を撃ったら、みんなを巻き込むかもしれない――そんな気がしてならなかったの」


 その瞬間、ヴァレリアの指が自分の頬へ跳んだ。


「……んっ」


 薄く、赤い擦過傷。炎の余波が、かすった跡だ。

 さっきまで彼女自身も気づいていなかったその痛みに、ヴァレリアの目が大きく見開かれる。


「……嘘。こんなの、今までなかったのに」


 彼女の小さな呟きが、空気を凍らせた。


 これまで“仕様”で守られていたはずのパーティ内攻撃無効――

 それが、ここでは通用していない。


「つまり……俺たちの攻撃は、味方にも当たるだろうってことか」


 ガルドが低く結論を言葉にする。

 カイが乾いた笑いを漏らした。


「マジかよ。後衛がヘマったら、真っ先に焼け死ぬのは俺ら、って話?」


 ヴァレリアは大剣を地へ突き立て、肺の空気を吐ききる。


「じゃあ、今までみたいな範囲ぶっぱは封印ね。……危なかったわけだ、さっき」


「……ええ」


 セレスは静かに頷き、リリィの震える肩にそっと片腕を回した。

 触れた肩は驚くほど熱い。恐怖で上がった体温が、そのまま“悠真”の胸奥へ流れ込んでくる。


「大丈夫。私たちは、気づけたよ。だったら、これからも避けられる」


 そう言い切ると、リリィの強張った肩から、わずかに力が抜けた。


 ――それでも、皆の顔色はまだ蒼い。


(本心は、恐怖でいっぱいだ。それでも、“私”が崩れたら終わる)


 石畳に転がるオークジェネラルの死骸から、淡い蒸気が立ち上る。

 焚き火の残り香に似た焦げ臭さが、いつまでも鼻腔にまとわりついた。


 だがどれだけ待っても、その肉塊は消えない。

 ログも、経験値のポップアップも、ドロップウィンドウも現れない。


(……死体が残る? 経験値もない……そんなの、ゲームじゃない)


 胸の奥がざわめき、女性の体になってしまった“僕”の心臓が早鐘を打つ。

 揺れる髪の感触も、ローブに包まれた身体の柔らかさも、すべてが「ここが現実だ」と告げていた。


 さっきまで当たり前だった“システム”は、どこにもない。

 残っているのは、生身の五感と、剥き出しのリスクだけ。


 そして――


 ――仲間の攻撃があたる。


 この世界で最初に学んだ、残酷だけれど当たり前の“現実”。


 だがまだ誰も知らなかった。


 本当の“仕様変更”は、この程度で終わりではないということを。

 そして、その代償が「死んだらどうなるか」という問いと、直結しているということを。

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