霧の駅
亜香里
第1話 動く道
朝の街は、まだ眠気の余韻を抱えたまま、静かにざわめいていた。
通勤者たちは道に降り立ち、特に歩くことなく、ただ立っている。
やがて足元の舗道が、じんわりと震えを帯び、ベルトコンベアーのように動き出す。
この街には電車もバスも、もはや存在しない。
すべての大通り、小路、横断歩道までもが「動く道」としてつながっており、人はただそこに乗るだけで、望む場所へ運ばれていく。
私は毎朝、自宅近くの「ステーションロード」から会社のある隣の街まで移動していた。
切符もICカードもいらない。ただ道に乗り、認証ゲートで目的地を告げれば、自動的に分岐を選んで進んでくれる。
便利すぎる技術。だが、どこか“自分が動かされている”という感覚に抗えない。
その朝も、私はいつものように道に立ち、軽く息を吐いた。
舗道の黒い面が低く唸りをあげ、静かに動き出す。
周囲の人々はスマートグラスをのぞき込んだり、コーヒーをすすったりしながら、運ばれていく。
歩く必要はない。考える必要さえない。道が、すべてを決めてくれる。
――けれど、その日は違った。
いつもなら会社へと向かう道が、なぜか少しずつ景色を外れていく。
見慣れたビル群の代わりに、低い木立ちの並木道が現れた。
舗道は分岐を誤ったのか? だが認証ゲートは確かに「会社」を示していたはずだ。
隣に立っていた中年の男が、新聞を折り畳みながらふとつぶやいた。
「今日はずいぶん遠回りだな」
だが彼の顔は平然としている。
まるで、これが日常の延長であるかのように。
私は思わず声をかけそうになったが、言葉が喉にひっかかった。
足元の道は速度を増し、風が頬を切る。
見知らぬ景色が、次々と流れていく。
――もしかして、道そのものが意志を持ちはじめたのだろうか。
私は立ちすくんだまま、心臓の鼓動を聞いていた。
舗道は確かに私を目的地へ運んでいる。
けれど、それは“私の目的地”ではなく、“道が選んだ場所”のように思えた。
遠くから、アナウンスが風に乗って届いた。
「次は……見えない駅。見えない駅です」
道に駅など存在しないはずだった。
それでも、周囲の人々は当たり前のように姿勢を正し、降りる準備を整えている。
私だけが、足元の異変と、この街の沈黙に気づいてしまった。
舗道は次第に速度を落とし、やがて広い広場のような場所に到着した。
「次は……見えない駅。見えない駅です」
再びアナウンスが響く。
駅――と告げられても、そこにはプラットフォームも改札もない。
ただ、白く塗りつぶされたような空間が広がっているだけだった。
道路の端は薄い霧に溶け込み、建物の輪郭も曖昧になっていた。
人々は何の疑問も抱かず、足元の道から降りていく。
スマートグラスを掛けた若者も、新聞を抱えた老人も、誰もが静かに霧の中へと消えていった。
私は足を止めた。
降りるべきか、乗り続けるべきか――その選択を迫られている。
だが次の瞬間、背後から押し出されるような感覚があった。
気づけば、私は舗道を降り、霧の中に立っていた。
霧は不思議な匂いを帯びていた。
雨上がりの土の香りにも似ているが、もっと甘やかで、どこか懐かしい。
目を凝らすと、かすかな人影がいくつも揺れている。
だが誰の顔も、はっきりとは見えなかった。
「……ここは?」
声を出したつもりが、霧に吸い込まれ、音にならなかった。
そのとき、不意に誰かの声が頭の中に響いた。
――おかえり。
胸の奥がざわめく。
忘れていた名前が、舌の先に触れそうで触れない。
見えない駅は、ただの通過点ではない。
それは、私が「忘れてきたもの」へと導く扉なのかもしれなかった。
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