第1章 春、帝都にて(3)斜陽に染まらず

祝宴から数日後、アルダンとユリアヌス卿は、宮殿の広大な庭園を散策していた。幾何学的に配置された花壇と散策路。中央付近の噴水からは清らかな水音。その庭園は帝国の威容を象徴するように緻密に計算され、手入れが行き届いていた。




「ここ帝都は、単に古くからの交易都市が無原則に拡大したのではない。自然と人工が巧みに調和している。庭園一つとっても、それがわかるだろう」




父がそう語るのを聞きながら、アルダンはぼんやりと頷いた。彼の意識には目の前の景色よりも、祝宴で一瞬だけ交わした視線があった。あの琥珀色の瞳の奥に宿っていた、深い孤独の影影と揺らめく意志。華やかな広間のどこにも居場所がないかのような静かな佇まいが鮮明に思い出される。


その時、視線の先に一人の女性が立っているのを見つけた。噴水のほとり、侍女を遠ざけ、ただ一人で佇む姿は、皇女ダリアのようだった。




アルダンの心臓が、静かに、しかし強く脈打った。彼は思わず父に断りを入れた。


「父上、少し、一人で回ってきてもよろしいでしょうか」


「わかった。礼を失することは、するなよ」


「父上・・・」




照れ隠しに呟きつつ、アルダンはダリアのもとへ向かって歩き出した。


一歩、また一歩。近づくほどに、彼女の姿がくっきりと見えてくる。夕暮れ近く、涼やかな風は彼女の纏う梨地の衣と白銀の髪を波打たせる。物思いにふける陶白の頬。


彼女は一掴みの植物を持ち、右手の指先に絡ませている。茎と葉は白く、その隙間から黄色の小花が幾つか顔を出している。


アルダンは十歩ほど前で足を止めた。噴水が止まり静まり返った庭園の威容に怯まされたのか、彼は声をかけるのを躊躇った。




「あ……」


不意に漏れた彼の声に、ダリアがゆっくりと向き直った。彼女は瞳だけでなく、身体いっぱいに彼を捉えたような奥深い印象を与えた。




「使節団の方、ですね?」


彼女の声は、祝宴で遠くから聞いた時よりも、はるかに穏やかで、柔らかな響きを持っていた。


アルダンは緊張で喉が渇き、言葉がぎこちなく、舌が絡む。




「はいっ、あっ、......いいえ、はい」


「ふふっ」


同世代の女性に我を見失いかけたのは初めての経験だった。冷や汗が噴き出しそうで、アルダンは必死に言葉を探した。


「貴女は……なぜ、お一人でこのような場所に......?」




ダリアの薄い口元が僅かに緩んだように見えた。


「あなたこそ、なぜ私のもとへ?」




アルダンは顔が紅潮し、目線を逸らしてしまった。




「ふふっ、意地悪を申しました。私、皇帝の一人娘ですの」


「ぞっ...存じております。祝宴の時にお見かけ致しましましたの、...あの、こっ皇帝陛下は威風堂々とされ、それはまことに、......あのっ」


「ふふっ、私には優しいお父様なんですよ」




口籠るたびに、彼女との距離が離れるようであった。


少しだけ上目遣いで彼女の様子を伺う。薄い口元は、変わらず僅かに緩んだまま。




庭園には自己主張の強い花も多い。しかし彼女が持つそれは、全体に白っぽく控えめを装っている。




「私、ダリア・アルジナと申します」




「これは失礼を、私はこの度の正使を務めるユリアヌス卿の子息にございます。名はアルダン」




やや落ち着きを取り戻した彼は、続けた。


「あの、皇女殿下」


「はい」


「その花はお好きなのですか?」




ダリアは、アルダンの問いかけに小さく笑った。その笑みは、広間の彼女とは違い、親しみやすさを感じさせた。




「この花は、何にも染まらない白さを持っていますよね。そして過酷な冬の寒さに耐え、春は一番早くこの小さな花を咲かせます。……この帝国も宮殿も、外から見れば格調高く美しいのでしょうけれど、内側のそこかしこには多くの毒草があり」




「毒草」という言葉の違和感に、彼が気付いたことをダリアもすぐ理解したようだ。




「以前、何度か城下へ出掛けた時に感じたものです。目に見える街の者たちの生活すべてが輝いている、と。住まいや着る物が簡素であっても、私の周りにいる者たちよりはるかに誇らしげである彼らの表情が、声が。私には何より守るべきものと思えるのです」


アルダンは、はっとする。同じ想いを抱く者と、共和国を遠く離れたこの地で出会うとは。




「私は、この花のように何色にも染まらず、強く民を守れる存在になりたい、そう願っているのです」


静かだが心地よく響くその言葉は、アルダンがハウゼンの市中を歩き回る度に抱く想いと重なる。




「…...貴女も」


アルダンは、自分の胸の内を初めて言葉にした。


「共和国も、何も変わりません。元老院貴族の社会では、常に醜い権力争いが渦巻いている。誰もが自分の利権を守ることに必死で、民衆の生活には目を向けようとしない……」




アルダンの言葉に、ダリアの瞳が僅かに揺れた。それは驚きと、深い共感の色だった。


「ふふっ、心強いですわ」




アルダンが初めに感じた距離はなくなり、得難い絆が二人の間に芽生えていた。似たような孤独を抱え、同じ理想を密かに胸に秘める若者同士、互いの存在を認め合っていた。




だが皇帝主催の夕食会の時間が近づき、数句を交わした後に侍女が近づいてきた。




「また後ほど広間にて」




侍女が目を見開くほどに、ダリアの笑顔は貴重なのだろうか。去り際の彼女は、彼の胸に痛みを残した。

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