第10話 本宅 Vol.2

「さて、行こう。」

 クルードは純子を促して先に進んだ。ジェームスは「私はこれで」と断って去って行った。執事は他にも仕事が有るのであろうと、純子はその背中を見送った後、クルードに続いて、玄関の扉を潜った。かなり広いロビーになっていた。普通の建売の住宅なら一軒丸ごと入りそうな広さに、緑色の深い絨毯が敷き詰めて有り、壁は全て白い壁紙が貼られており、正面には玄関の扉と同じデザインの扉があり、いくつか一枚物の扉も有る。調度品のたぐいはあまりなく、ローテーブルに白い花瓶があって、季節の花が生けられているだけである。ロビーの淵にはバルコニー状の張り出し廊下があって、そこから屋敷の奥に複数の廊下が伸びて有り、正面の大扉のすぐ横に、同時に四人は並んで登れそうな階段があり、階段の中央には同じく緑色の絨毯が敷かれ、左側の手すりに沿って、リフト式の椅子がある。一歩進んで見ると身体が沈む気配がする。荷物を持って前を歩くクルードに付いて行くと、身体が沈む様な感覚に成れない純子を庇うように、メリーが手を引いてくれた。

「お嬢様、足元が成れないと歩きにくいのでお気をつけください。」

 メリーが気を使って手を引いてくれるのに従って純子は階段まで歩いて行った。クルードはメリーを信頼しているのか、まったく気にせずに階段を上って行く。メリーは目配せをして、純子に言う。

「リフトをお使いになりますか?」

「いえ、大丈夫です。」

 本物のメイドさんに何か動揺しながら純子は答えた。自分も秋葉原のメイド喫茶でアルバイトした経験があったが、作ったキャラクターでは無い、本物のメイドさんを見るのは初めてである。

 なんとかクルードに付いて階段を登り切ると、クルードは左の奥の廊下の方に向かって歩いて行く。慌てて後を追うと、その廊下から一人の人物が出てきて、クルードと鉢合わせ寸前になった。もちろん、事前に気が付いたクルードが立ち止まって避ける。

「お坊ちゃま!!」

 かなり歓喜の籠った声で、その女性は叫んだ。純子がそちらを見ると、年の頃は40過ぎ位の、でっぷりと太った黒人女性が立っていた。背は純子と変わらない高さだが、横幅は二人並んだ以上もある。胸もお尻も大きな典型的なお袋さんって言った感じの女性である。出で立ちはメリーと同じく黒いメイド服の上から白いエプロンドレスに、黒いカチェーシャを付けている。また、胸元のリボンタイは、メリーさんは赤だが、彼女は紫色を付けている。

「マーサ。ご無沙汰で済まなかった。」

 とクルードはその女性に話し掛ける。そして純子の方を振り向くと、純子に言う。

「純子、この屋敷のメイド長のマーサだ。先程の執事長のジェームスの奥さんだ。」

「お坊ちゃま!!まさかこの方は?」

 マーサが目を見開いて、満面の笑みを浮かべて言う。

「誤解しないでくれ!仕事の関係者で、安全な宿泊所を提供する為連れて来たんだ。」

 クールなクルードが慌てて打ち消した。その様を見て純子は思わず噴き出した。

「お客様がお困りですわよ。」

 その様を見てメリーが助舟を出してくれた。

「マーサ、メリー、お客さんを何時もの部屋に案内して、お茶の用意を頼む。俺は、自分の部屋に居るから、お茶の用意が出来たら呼んでくれ。」

 なぜか、慌てた様子で、クルードは荷物をマーサに預けて急ぎ足で、バルコニーの反対側の廊下へと歩み去って行った。

「失礼いたしました、お嬢様、お名前をお伺いしてよろしいですか?」

 その背中を見送っていると、マーサが優しい口調で純子に話し掛けた。

「はっ、はい、山本純子です。」

 純子が慌てて返事すると、マーサは荷物を軽々と持ち上げて、優しく微笑むと言う、

「お部屋にご案内します。純子様。」

 人好きのする笑顔でそう言って先に立って歩き始めたマーサに、慌てて付いて行く。その頃には足が沈む絨毯の具合にも慣れてきて、メリーに手を引いて貰わなくても普通に歩ける様になった。それでもメリーは介護士の様に横に立って付いて来てくれた。

「こちらになります。」

 廊下の一番奥の左側の大きな扉の前に案内された。重厚な片開きのチョコレートブラウンの扉の部屋で、ドアノブはレバー式で、なんと金メッキがしてある。鍵も掛けられる様に成っている。マーサが開けてくれたドアから部屋の中に入ると正面に大きな窓があり、レースのカーテンが閉まっている。部屋の壁紙は緑色の壁紙に何かの模様が描かれた西洋風の壁紙で、部屋の隅には古いヨーロッパ風の机が置いてあり、やはり緑色のクッションのひじ掛け付きの凝った作りの椅子が置いてある。反対側を見ると、なんと、天蓋付きの象牙色のダブルベットが置いてある。さすがの純子も天蓋付きのベッド等実際に見るのは初めてである。白い天蓋にも柱にも凝った作りのレリーフが彫ってあり、象牙色に塗られている。天蓋からは白いレースのカーテンが周りを囲むように降りていて、足元と壁の反対側だけが上に捲り上げられている。

「純子お嬢様。ご案内差し上げてもよろしいですか?」

 ベッドと机に圧倒されていた純子に、マーサが優しく声を掛けてきた。

「あっ。ごめんなさい。」

 慌てて返事して振り向くと、マーサが部屋の事を案内してくれる。

「持ち物はそちらのクローゼットに入れてください。そちらのドアが洗面所とお手洗いとバスルームになっています。」

 純子は言われた通りの方向を向くと、壁に埋め込み込み式のクローゼットと、廊下へ出るドアとは別のドアが有る。

「お湯は24時間いつでもお使いに成られます。ただ、気を付けて頂きたいのは、日本の一般的な御家のお風呂とは異なりまして・・・」

「あっ、西洋式のホテルと一緒よね?バスタブの外には水を流してはいけないって。」

「ご存知でしたか。その通りでございます。」

 純子が直ぐに答えたので、マーサは安心した様な笑顔を浮かべた。

「すぐにシャワーを浴びますか?直ぐにお茶を入れる予定ですが?」

 補足するようにメリーがマーサの背後から尋ねる。

「先にお茶を頂きます。」

 純子は空気を読んでそう答える。

「では、お時間になりましたら、メリーを迎えに寄越しますので、それまでお寛ぎください。」

 二人は一礼して部屋を出て行った。純子はその背中を見送って、深いため息をついた。

「お寛ぎくださいって、私は王侯貴族のお姫さじゃないのよ。」

 そういって、机の前の椅子に座った。他に、小さな丸テーブルとソファー二つのセットがあったが、そちらには目をくれなった。

 とにかく気持ちを落ち着けようといろいろ考えてみる。しかし、起こった事が昨日までの日常と違い過ぎて、どうにもならなかった。

「私はこれが終わったら、日常に戻れるのかな?」

 高級すぎて、由来や年代も判らない調度品や壁紙やカーテンを見回して、純子は呟いた。

 とりあえず、座っていても仕方ないので、荷物を解いて、着替えはクローゼットの中に片付け、メイクの道具の入ったポーチは洗面所の洗面台の上の棚に置いた。洗面台も良くある既製品では無く、シンクは白い陶器製で、蛇口も金メッキの古風な形の蛇口が付いていた。一応、バスルームを見ると、昔イギリスの映画で見た四歩脚のついた白いバスタブと、

 それを囲むようにバスカーテンが付いており、シャワーはホースの先にシャワーヘッドが付いているタイプであるが、やはり金メッキがしてある。それを見て、またため息が出た。

「こうなったら、腹を括るしか無いわ。」

 そう呟いて部屋に戻ると、ドアがノックされた。

「純子お嬢様。お茶の用意が出来ました。応接室にご案内いたします。」

 メリーの声が外から聞こえた。慌ててドアを開けて外に出る。

「こちらになります。純子お嬢様。」

 メリーが先に立って歩き始めたので、純子は慌てて付いて行った。階下に降りて、奥へと続くドアを潜って、屋敷の奥の応接室に通された。すでにクルードが先に上等そうなソファーに座って葉巻をくゆらせていた。他にはメイド長のマーサが居るだけである。

「純子お嬢様をお連れしました。」

 一礼してメリーが言うと、クルードは「ありがとう」と返事すると、メリーは一礼して去っていった。何かこういう屋敷にはそれなりのしきたりがあって、基本的に主人や、主人の客の前に現れていいのは使用人の中で決まった人間だけだと、何かの本で読んだ事がある。いや、メイド喫茶でバイトした時に興味本位で見たWebページだったかもしれない。

 そんな事を考えながら、クルードの正面の奥の長椅子の方のソファーに座った。

 クルードは上座を開けて置いてくれた。

「お嬢様、紅茶になさいますか?コーヒーになさいますか?」

 なぜか嬉しそうなマーサが尋ねて来る。紅茶を頼むと、なんと、マイセンの白陶磁のティーカップに紅茶を入れてくれて、純子の目の前に置いてくれた。さらにワゴンからスイーツタワーを降ろして、目の前に置いてくれた。スコーンとシュークリームとショートケーキが置いてある。どれも通常の物より小さい一口サイズに作られて居て、いろいろな種類を一度に食べられる様になっている。

「ミルクとお砂糖はお使いになりますか?」

「いえ、結構です。」

「ではお楽しみください。お代わりはこちらに。お坊ちゃま、何かあればお呼びください。」

 マーサはティーポットを純子の前に置いて、ワゴンを押して出て行った。

「今日はいろいろ有り過ぎて大混乱だわ。」

 少し恨めし気に純子は言いながら、紅茶に口を付けた。クルードは苦笑いをしただけで、返事をしなかった。

「こんなお屋敷に通されるとは思っても居なかったし。」

「事務所の方に通してもよかったんだが、あそこじゃ君を世話するんじゃなくて、俺が君に世話されてしまうからなあ。」

 とっ、クルードは予想しない答えを返して来た。

「そういえば、探偵さんだったって言ってたわね。」

「日本での表向きの仕事はね。」

「もう、何者なの?って聞いても無駄みたいね。」

 純子は溜息をつくと、紅茶を一口啜った。ダージリンだろうか?かなりの高級品である。

「さっきも簡単に説明したが、ここは俺の祖父が建てた家なんだ。今は爺さんも親も死んでしまって家族は誰も居ない。ジェームスとマーサが俺の家族みたいな物なんだが、俺がこの屋敷を維持してる訳ではないんで、めったに帰って来ないんだが、ここなら部屋も用意できるし、身の周りの事も何とかなるし、何より、壁も窓もドアも防弾仕様だから安心だ。」

「謎の多い人ね。」

「少なくとも、任務の為とは言え、今は君と君のお父さんの味方だから、それは信じてくれ。」

「協力するって言ったのは私だからね・」

 と上目使いにクルードを見上げて、スイーツタワーからスコーンを取った。

「そいつはマーサの手作りだ、自慢の一品だから味わってくれ。」

「手作りなの?」

「そのスィーツタワーの物は全てそうだよ。」

 純子はスコーンを手掴みで口に入れた。優しい甘さで、外側は硬く、中はしっとりと柔らかい、市販の物よりずっと美味しい。

「優しい味だわ・・・・」

「俺は甘い物は苦手だから、君が全部食べてもいいぞ。」

「太っちゃうわよ!!」

 流石に純子も鋭い突っ込みを入れてから、尋ねる。

「ただお茶を楽しむ為に人払いしたんじゃないでしょう?」

「鋭いな。その通りだ。何時切り出そうかと思っただけだよ。」

 そう言って、クルードはシュークリームを手に取ると、丸のまま、口に放り込んだ。

 もっとも市販の物の半分の大きさも無かったのであるが。

「俺が甘いのは苦手なんで、甘さを控えめに作ってくれているな。」

 急いで咀嚼して飲み込んでから言うと、コーヒーを一口啜ってから純子に向かい合う。

「さっきも話した通り、あのチップの中を閲覧する為にはセキュリティの解除が必要で、その方法は君と君のお父さんしか知らないと、噂を裏の世界に流した。おそらく、もう奴らの耳に入っているはずだ。」

「うん・・・・」

 純子は力なく返事して、紅茶を啜った。

「だから、君には最低限身を守れるように、銃の扱いを覚えて貰った。まあ、本当の銃使いに成るのは、もう少し時間が掛かるだろうけどもね。」

 クルードはそこまで言ってから、コーヒーを一口啜り、話を続ける。

「奴らも今君がここに居る事までは掴んでいないと思うが、俺と一緒だって事は掴んでる筈だ。だから、明日からは俺と一緒に行動してもらう。まずは、現場に行ってみよう。何か捕まえるかもしれないし、体よく相手が襲って来てくれれば手掛かりを掴み易い。」

「判ったわ。私も自分の見は自分で守らないといけないかもしれないって事ね。」

「危険だが、そういう事だ。」

 クルードはそう言ってから、コーヒーの残りを全部一気に飲み干した。

「俺は君を全力で守る、一〇〇%とは行かない時がある。その時には、先にも話したが、君が自分で自分を守れ、ためらうな。結果は自分が死ぬか、相手を倒して生き残るかの二つしか結果は無い。以上だ。」

 クルードは言い終わると立ち上がった。部屋を出ようとしたが、思い出したように振り向くと、純子に言った。

「お茶を楽しむなら、このままここに居てくれ。お茶やお菓子のお代わりは、テーブルの上のベルを鳴らせば、マーサかメリーが来てくれるから、頼んでくれ。部屋に戻るなら、ここはこのままでいいよ。」

「判ったわ。」

 純子の返事を聞くと、クルードは応接室を出て行ってしまった。純子はさっき、「太っちゃうわよ!!」と言い返したのも忘れて、気が付いたら、スイーツタワーの上のスイーツを全て口に入れてしまっていた。


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