第6話 竜律省の白い部屋

 白は、音を吸う。

 白は、匂いを消す。

 白は、言葉を骨だけにする。


 竜律省の聴聞室は、壁も天井も床も白で塗られていた。石肌に石灰が幾層にも重ねられ、継ぎ目は薄く磨かれている。窓はなく、かわりに厚い硝子の壁が一面を占め、その向こうに観測室がある。そこでは青い外套の魔導士が無表情で計器を見張り、白衣の書記が羽根ペンを湿らせ、細い針が紙の上に震えを記録していた。白は祈りの色でもあるが、この白は祈りではなかった。査定の白だ。何かを測り、数に変え、棚にしまうための白。


 「着席を」


 官吏の声は、白い壁に当たって角がとれ、耳に刺さらないのに冷たかった。灰色の目、薄い唇、白手袋。名を告げたが、ミルウスは覚えないことにした。名前で呼ぶより役割で覚えたほうが、心は傷つかない。


 椅子は金属の冷たさを保っていて、背に触れると体温が吸われる。ルキは聴聞室の隣の小間に入れられ、格子越しにこちらを見ている。寂しげには鳴かない。鳴けば、ここでは「記録」にされることを知っているかのように、ただ喉をうすく震わせて、ミルウスの呼吸の幅に寄り添っている。


 レオンは、ミルウスの少し後ろ、左肩の影に立った。立っているだけなのに、そこに壁のような気配が生まれる。黒外套の中に収められた体は、動く準備をしているのでも、誰かを威圧するために膨らんでいるのでもない。ただ、そこに「置かれている」。置かれた石のように、動かないのに働いている。


 官吏が、筆を走らせながら、冷たい質問を投げた。

 「君の旋律は誰の伝授による?」

 「……誰にも」

 「独習?」

 「気づいたら、喉が覚えてて」


 羽根ペンが一度だけ止まり、すぐにまた紙の上で踊った。

 「刻印は済んだな。――君はそれを望んだか?」

 長椅子の木が軋む音が、遠くで鳴った。ミルウスは言葉に詰まり、喉が上へ引きつりそうになるのを感じた。すると、左の肩口に、あの親指が触れる。

 「喉を診る」


 レオンの言葉は、官吏にも、観測室にも聞こえるように淡々としている。だが触れられた場所は「診る」ためだけの角度ではなかった。喉ではなく、喉の手前――声が生まれる前の呼吸が通るところ。そこに、拍を一拍置いてくれる。三拍吸って、二拍吐く。背で。

 ミルウスは従い、背の〈兆〉が薄く明滅するのを感じた。怒りは、落ちる場所を見つけた水のように沈んだ。沈むのが悔しい。だが沈んだおかげで言葉は形を取り戻す。


 「――望む、望まない、というより。必要だと、教えられました」


 官吏の眉は動かない。

 「誰に」

 「監誓官。クレメンティア・ユーゴ」


 硝子の向こうで、影が一つ動いた。観測室の奥、クレメンティア本人が、白い幕の陰に立っていた。こちらを測る目。だが剣呑ではない。紙の上に線を引く前の、等間隔を測る目。

 「帝国に資する誓約を述べよ」


 官吏の台詞は、宗教儀式にも似ていた。ミルウスは息を整えた。三拍吸って、二拍吐く。喉は静かに。

 「――僕は、歌を……誰かを殺すためには使わない。眠りと呼吸を守るために使う。それが、帝国に資するかどうかは、あなたたちが決めることで、僕は、僕の呼吸の使い道を、自分で決めたい」


 短い沈黙。白い部屋が、わずかに温度を取り戻した気がした。

 官吏は表情を変えずに頷き、最後の紙へと筆先を移した。

 「試験唱和を行う。危険を認めた場合、即時停止させる。指示に従え」


 硝子の向こうで魔導士が合図をし、計器の針が油を噛んで軽く跳ねた。壁に埋め込まれた石板の観測紋(ルーン)が淡く灯る。石の縫い目が、音叉のように細い震えを始める。音を測るための音。ミルウスは息を一度だけ長く吐き、ルキへ視線を送った。幼竜は薄金の目でこちらを見、く、く、と二度、喉を鳴らして頷いた。


 ミルウスは、眠りの調子をひとつ。

 短く、狭く。背で起こし、喉を経ずに、白い壁の継ぎ目へ滑らせる。白は音を吸うが、縫い目は、すこし吐き出す。吐き出した分だけ、部屋の空気が緩む。金属椅子の冷えが和らぎ、魔導士の耳が、意識せずに開く。計器の針が、規定値の枠の内側で落ち着いて揺れる。クレメンティアの目が細くなり、頷きがひとつ、観測室の明滅の陰で落ちた。


 そこで、針が跳ねた。

 ピン、と細く、しかし明らかな逸脱。魔導士の顔色が変わる。油を噛んだ針が、油を弾く音に変わった。計器の紙に描かれていた波が、重なる。ひとつはミルウスの声の波。もうひとつは――。


 「干渉波!」

 観測室の魔導士が叫んだ。

 「別相の誘導――外部から!」


 警鐘が鳴り、白い部屋の空気が、白いまま鋭くなる。官吏が手を上げるより速く、レオンが動いた。黒外套の裾が翻り、四隅へ短い印を打つ。指で石を撫でるだけの動き。だが四隅の空気が距離を持ち、白い部屋の内側に、もう一枚の見えない幕が張られた。遮断魔術。外の波が、薄い硝子に当たって砕けるように、ばらばらにほどけて床に落ちるのが、皮膚でわかる。


 同時に、肩を抱かれた。

 ミルウスの体は、抵抗する前に反応した。雷が落ちる前に先に地が電気を引くように、彼の背はその胸板へ向かって勝手に沈む。外套の内側。呼吸の部屋。耳元で低い声が短く折れた。


 「――ここは安全じゃない」


 安全じゃないのは、白い部屋か、帝都か、竜律省か。答えはひとつではない。だが、今は胸の中で拍が整う。それが唯一の答えだった。


 警鐘が止み、観測室の扉が激しく開いた。クレメンティアが数人の青外套を従えて入ってくる。官吏が何か言いかけたが、彼女の視線に遮られた。

 「停止。聴聞は中断。監察局の管轄へ移す。――観測紋は誰が刻んだ?」

 魔導士が蒼ざめ、印刻担当の名があげられる。

 「第三工房……ですが」

 「第三工房に利権派の出入りは?」

 「記録は……」

 言葉が白い空間に散り、拾われない。レオンは片手でミルウスの肩を支えたまま、もう片方の手で遮断の印をひとつずつ外した。印は外に漏れる代わりに、内側へ静かに消えた。外套の内側の部屋を、そのまま外の世界へ薄く重ねるように。


 「監察局宿直棟で聴聞を続ける」

 レオンの声は低く抑えられているが、抗いがたい圧がある。官吏は唇を結び、白手袋の指を強く握り、やがて頷いた。

 「……責任の所在は追って」

 「追え。噂は早い。枠を先に置く」


 また噂だ、とミルウスは思い、苦笑の気配が喉に触れてすぐ消えた。笑えば、ここでは紙にされる。紙にされる笑いは、笑いではない。


 ◇


 竜律省の廊下は、白ではなく灰色だった。石に含まれた鉄の匂いがうっすら漂い、靴音が重く響く。扉の上には、様々な部局の名が刻まれている。「竜歌班」「観測記録室」「資源統制」「禁足監理」。ミルウスはそれを眺めることをやめ、足元の縁石の白線だけを見た。白線は、つまずきのない道を示す。掲げられた名は、つまずくためにあるかのようだ。


 監察局の宿直棟は、竜律省の敷地の外縁に接していた。白い部屋の冷たさが嘘のように、木と布の匂いがある。廊下の窓は小さく、しかし開いていて、風が通る。詰所で見慣れた灰の炉、粗い布の掛けられた簡素な寝台、蒼い水桶、鉄のカップ。ミルウスはその凡庸さに胸を撫で下ろし、同時にそれが臨時の避難所にすぎないことを察した。


 「ここで休め」


 レオンが短く言い、ルキ用の木枠を窓辺に組む。幼竜はその上に飛び上がり、ぐるりと一周してから喉を鳴らした。木枠に貼られた粗布の匂いを嗅ぎ、安心したように瞼を落とす。

 クレメンティアが扉のところに立ち、短い息を吐いた。

 「中断は、悔しいわね」

 「命は、悔しさで繋がらない」

 レオンは淡々と返し、ミルウスに目をやる。

 「喉を診る」


 名目は、相変わらず名目だった。指が鎖骨の窪みに触れ、呼吸の拍を一度合わせられる。怒りが沈む。沈むのが、やはり悔しい。

 「……あなたに触られると、怒れなくなる」

 言ってから、子どものようだ、と自分で恥ずかしくなった。

 レオンは一瞬だけ目を伏せ、すぐに見開いた。

 「怒りは、呼吸が浅いと煮詰まる。浅い怒りは燃え移りやすい。君は、燃やされやすい。だから、深くしろ。深くして、温度を持続させろ。それは怒りを殺すのではない。使うために生かす」


 論理は冷たいのに、言葉の中に火があった。怒りを「殺す」のではなく「使う」。帝都式の言い方だ。道具にすることで、生を残す。

 ミルウスは小さく頷き、背で息を回した。〈兆〉が呼吸した。蔓と翼は相変わらず薄い光だが、白い部屋ほど脆くない。木と布の匂いが、光の濃さに加わる。


 「観測室の干渉、出所は?」

 レオンが扉ぎわのクレメンティアに問う。

 「今、第三工房を封鎖させたわ。術字の擦れ、刻印の癖――どれも内側の人間の仕事。外からの誘導波を通すための『穴』を刻んだ可能性がある」

 「竜利権派か」

 「彼らだけとは限らない。『歌を武器に』という軍派もいるし、『聖具に』という教団派もいる。帝都は冷たいけれど、欲の温度は高いの」


 クレメンティアの声は、諦めを含みながらも滅びてはいない。紙で戦う者の声だ。

 「噂はもう走っている?」

 レオンの問いに、彼女は口角をわずかに上げた。

 「先に枠を貼っておいたわ。『観測紋不備、監察が保護』。あなたの匂いよ。――ありがとう」


 礼を言われ、レオンは眉を動かさない。礼よりも、責の行き先を測っている目だった。責は貸し借りになる。貸し借りは鎖になる。鎖は、ときに橋になる。彼は鎖を橋にする手つきを持っていた。


 クレメンティアが去ったあと、部屋に残ったのは、レオンとミルウスとルキの呼吸だけだった。宿直棟の廊下を人が行き来し、遠くの炉がくすぶり、窓の外を鳩が二羽、翼を鳴らして通る。帝都は冷たい。だが、この一室だけは、外套の内側と同じ温度を持っていた。


 「喉は」

 レオンが訊く。

 「平気。――あの、歌う直前に、壁が、息をしたように見えた」

 「縫い目だ。白は吸うが、継ぎ目は吐く。歌は、吐く場所に触れると、よく回る。吐く場所に触れすぎると、騒ぐ」


 「騒ぐ」

 「今日のそれが、騒ぎだ。誘導が重なった。君の呼吸は狭く絞れていた。だから、外側へは広がらなかった」


 「あなたの印が早かった」

 「外で戦うより、内を包むほうが早い」

 短いやり取りの中に、外套の内側の反復があった。レオンは立ち上がり、窓を少しだけ開けた。風が入る。帝都の匂い――紙、金、油――が淡く混じる。花の匂いはない。花は、帝都の庭にはあるが、風には載らない。


 ミルウスは寝台の端に座り、靴を脱いだ。足裏が冷たい石に触れ、皮膚の下で熱が収束する。背で息を回し、喉を静かにして、指輪の内側の冷たさに注意を向ける。指輪は、今日、彼の歌を縛らなかった。境界は、破られなかった。


 「……悔しい」

 ぽつり、と漏れた。

 「歌を『試験』されるのが、悔しい。あなたに触られないと、怒りが渦になるのも、悔しい。僕の体が、あなたの指先に従うのが、悔しい」


 自分で言いながら、子どものようだと思う。だが言葉は、白い部屋にはない湿りを含んでここに置かれた。レオンは椅子を引き寄せ、ミルウスの正面に腰を掛けた。距離は、昨日と同じ。近すぎず、遠すぎない。

 「従うのは、君の体だ。俺の指にではなく、君の生存に。指は案内にすぎない」

 彼は手を差し出し、空中で喉元の位置を軽くなぞった。触れはしない。

 「案内が気に入らなければ、君はいつでも選べる。選ぶための呼吸を、俺は教える。――それが監察の『保護』だ」


 語が、ゆっくり体に沈む。保護。拘束。枠。境界。どれも帝都の言葉だ。だが、今ここで、白い部屋の言葉ではない温度を持って、ミルウスの骨に乗る。

 「選ぶ……」

 「帝都は、選び損ねた者から奪う。選び続ける者を、利用する。選び方を知らない者を、飾る。だから、選び方を覚えろ。呼吸で」


 呼吸で選ぶ――母の言葉に似ている、とミルウスは思った。眠る前に数を数えて、数の合間に祈りを挟んだあの夜のように。

 ミルウスは背で息を回し、三拍吸って、二拍吐く。レオンは同じ拍で、視線だけで「よし」と言った。


 ◇


 夜になる前に、簡単な食事が運ばれてきた。硬いパンと薄い塩スープ。帝都の食べ物は、正確だ。ミルウスはパンを割り、スープに浸す。口に運ぶ。味は乏しいのに、喉に触る温度が心を安定させる。ルキには薄い肉筋を裂いて与えた。幼竜はぺろりと舌で骨の髄を舐め、「くく」と一度鳴いた。


 廊下を行き交う足音が増え、宿直棟の受付で、小声のやり取りが重なる。噂が、宿直棟の壁にも忍び込む。〈聴聞中断〉〈観測紋不備〉〈歌盗、門前〉。枠は先に貼られたから、今は噂の足は遅い。遅い噂は、毒を薄める。


 戸口が軽く叩かれ、クレメンティアが再び顔を出した。

 「夜の配置を伝えるわ。宿直棟の二階に監察局の見張りを置いた。第三工房の術字師は拘束。利権派と繋がりがあるかは明日にはわかる。――それと」

 彼女は小さな布包みを差し出した。

 「喉飴。甘いけれど、薬よ。蜂蜜じゃない。砂糖でもない」

 「帝都の味?」

 「そう。冷たいのに、喉に残る」


 レオンが包みを受け取り、ひとつを指先で転がし、ミルウスの掌に落とした。小さな球体は軽く、香りは薄い。ミルウスは舌に載せ、ゆっくり溶かした。甘さは控えめで、香りが遅れてやってくる。白い部屋の匂いではない。数字の匂いでもない。草の、乾いた匂いだ。

 「ありがとう」

 ミルウスが言うと、クレメンティアは短く頷いた。

 「刻印の件。あなたはよくやった。線はきれい。――それだけで、今日は上出来よ」


 扉が閉まる。夜が降りる。宿直棟の灯は落とされ、廊下に灯された小さな油皿だけが揺れる。レオンは机に書板を置き、短い報告を綴った。監察の文は、必要なことだけが紙に乗る。余計は余白に残り、余白は外套の内側と同じ温度で息をする。


 「眠れ」

 書き終えると、レオンは言った。

 「番は俺がする」


 「あなたは眠らないの」

 眠りに落ちる前に、ミルウスは訊いた。

「眠る。必要なだけ」

 返答はいつも通り、短い。だが短い返事の奥に、昨夜と同じ言葉が潜んでいるのをミルウスは知っている。――帝都は冷たい。だが俺は冷たくない。


 寝台の粗布は清潔で、ほんの少しだけ草の匂いがした。ミルウスは外套を肩まで引き上げ、ルキの背を掌で覆う。背の〈兆〉が呼吸し、喉は静かなまま、胸の内側がゆっくりと温まる。怒りも悔しさも、呼吸の拍に合わせて形を変える。形を変えれば、使える。使えれば、奪われない。


 眠りの縁で、耳の内側に、昼間の警鐘の音が遠く再生された。あの音は、警告であり、合図でもあった。合図のあと、外套の内側に引き寄せられた。引き寄せられた胸の拍は、今もここにある。

 帝都は歓迎していない。だが、胸は安定している。

 安定している拍の上なら、明日も選べる。選ぶ練習ができる。白い部屋でも、木の部屋でも、外套の内側でも。


 ――いつか、外套の内側を自分で作れる日まで。


 ミルウスは、背で息を回し、薄く笑って目を閉じた。

 部屋の外では、帝都が冷たく動き続けている。噂は石の間を抜け、紙に乗り、塔を上り、鐘楼にぶつかって雪崩のように降りる。白い部屋は白いままで、第三工房の扉は封鎖され、誰かの足音がそこで止まる。

 ここだけは、温い。温いあいだに眠る。眠りは、次の呼吸の蓄えだ。呼吸は、歌の蓄えだ。歌は、選ぶための道具だ。奪われないように、使い方を、今日も少し覚えた。


 夜半、番をするレオンの足音が一度だけ近づき、外套の紐がそっと結び直された。

 「寒い。――余計な震えまで見せるな」


 叱責のかたちをした祈りが、白ではない色で、枕元に残った。

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