第2話 保護という名の拘束



 火は、濡れたものを人に戻す。

 そして火は、縛めの形をして人を囲む。


 滝壺から離れた段丘の上に、監察騎士団の野営が手際よく組み上がっていった。濡れた天幕、錆びた杭、革紐の匂い。帝国標準の三角幕が次々と並べられ、竜用の円環鋼(リングスチール)が地面に打ち込まれていく。人間の幕と竜の幕は距離を置いて配置され、風上には火と水の位置を測る旗が立った。帝都式のやり方だ。辺境生まれのミルウスでも教本で読んだことがある。


 焚き火のそば、ミルウスは黒外套でぐるぐるに包まれ、裸足のまま薪の熱に指先を晒した。濡れた衣は火の前に広げられ、布は蒸気を吐いて縮む。肩口に浮いた青痣が冷気に疼いた。ルキはもう震えてはいない。小さな羽を上向きに半ば開き、幕の梁に当たる木枠に爪をかけてぶら下がる。鳴けば兵が振り返るから、鳴かない。鳴かない代わりに、喉の奥で小さく震えて、ふたりの呼吸の速さに合わせるように「くく」と細い共鳴を返してくる。


 外では、検分が始まっていた。

 帝国式の検分は、まず「境」を確かめることから始まる。禁足地と居住圏を分ける古い石標に赤い絹紐が張られ、駒鳥の羽根が結ばれる。次に印を持つ官吏が地面に白灰を撒き、靴跡と爪痕を拾い、血と鱗粉と髪の毛を小瓶に詰める。最後に、書記官がすべての出来事を“いま起きていること”から“起きていたこと”へ言い換える。言い換えられた瞬間から、そこは帝国の紙で成る世界になる。言葉が鎖の輪を成し、輪に通したものが「事実」だ。


 ミルウスは、火にかざした手のひらをぎゅっと握った。

 骨の内側にまだ水が溜まっている気がする。滝壺の底で切れてしまった詠唱の残滓が、胸骨の内側に絡まり、ひとつ呼吸をするたびに擦れて痛む。けれども、ルキの体温が戻った今、痛みは「生きている証拠」に変わってくれた。変えてくれたのは、自分ではない誰かの腕――黒外套の男だ。


 幕の隔て板がかさりと鳴る。

 レオンハルト――帝国監察騎士は、濡れた髪を手拭いで乱雑に拭きながら戻ってきた。銀灰の瞳はいつも通り冷えているのに、水に濡れた睫毛のせいで、ほんのわずか柔らかく見える。冷たい眼差しと濡れた睫毛はよく似合う。似合ってしまうのが腹立たしいのに、腹立たしさをうまく燃やせないのは、さっき胸板に背中を押し当てられたときの熱が、皮膚の下にまだ残っているからだ。


「震えが戻っている。外套の内側に入れ。嫌なら拒め。だが低体温は待たない」


 レオンは、拒めばその意思を尊重するという目で言った。尊重する、と言いながら、彼は火勢の強い側にあった自分の席を譲り、黒外套を片側持ち上げて隙間を作る。帝国式の救護は、人の尊厳と生命維持を同じ皿に載せ、より重いほうを優先する作法を持つ。その作法に従っているだけだとわかっても、ミルウスはひと瞬、指先を固くしてしまう。


 屈辱のはずだった。

 腕の中に身を入れ、背を預ける姿勢は、子どもが親にするそれだ。親でも恋人でもない、監察騎士に。監視する相手に。


 けれど、熱は言葉よりも先に骨へ届く。

 背板のような硬さの胸と、均一な鼓動の振動。外套の内側は鉄の匂いがし、刃物の研ぎ粉と油の匂いと、雨に打たれた草の匂いがわずかに混じる。嫌うことは難しく、忘れることはもっと難しい匂いだ。ミルウスは外套の端を自身の肩に引き寄せ、呼吸を細く長く保つ術を思い出す。鎖骨に指がそっと添えられ、さきほど滝壺の縁でされたのと同じように、拍を指示された。合わせる。従う。生きるための服従。服従の名を借りた救命。


 幕の梁にぶら下がっていたルキが、二人の呼吸に合わせるように喉を震わせた。

 くく、くく……。

 この小さな共鳴は、竜にはよくある仕草だと母が言っていた。歌に合わせて揺れろ。誰かと呼吸をひとつにせよ。ひとつなら、死なない。


 レオンは片手で書板を膝に固定し、鉄筆で報告書を走らせる。筆致は驚くほど速い。ぎりぎりに尖らせた鉄筆の先で、事実が削り出されていく。日時、天候、滝壺の水量、石標の距離、目撃者の数、野生竜の体色、幼体の翼長、竜歌持ちと見られる少年の状態――。最後の一行に、小さく空白が生まれた。彼は視線をわずかに落とし、外套の内側に体を沈めるミルウスの震えがまた強まったのを、指で確かめる。親指が静かに押し返す。脈拍はまだ速いが、乱れてはいない。


 ――俺は書類になったのだ、とミルウスは思う。

 自分の生温い息が、記録の欄外を曇らせる。欄外の曇りを、誰も書き留めはしない。けれどその曇りを吸った男の胸の内側に、微かな熱が落ちる。落ちた熱が何になるのか。救いか、怠惰か、迷いか。ミルウスには名づけられない。


 外の足音が増え、幕の開口部に影が差した。

 検分官が来たのだ。長衣の下に鎖帷子を着込み、白い手袋をはめ、口元を布で覆った男。そして二名の書記と二名の兵。儀礼に則り、一歩幕内に入るや、右足で灰を払ってから挨拶をする。

「禁足地検分官、第二次詰所長のアードルです」


 レオンが鉄筆を止め、わずかに顎を引いた。

「監察騎士レオンハルト。拾得者と未登録幼竜は保温中。質問は短く。少年は低体温からの回復途上だ」


 アードルは頷いた。頷き方は、規律の中でしか育たない角度をしていた。彼の瞳は冷たい石のように、ミルウスとルキを、順番に、等分に測る。

「野生竜接触、未登録魔術行使、搬送。帝都で事情聴取だ」


 その言い回しは、辺境のことばではない。帝都の言語の、端を揃える音だ。ミルウスの背筋が、外套の中でさわっと固まる。自分の体から逃げる場所はない。火の熱は近いのに、脚の芯が冷える。拒絶しなければならない、と体が言う。拒絶したい、と胸が言う。けれど、口を開いたところで舌の上に載るのは、滝壺の水にほどけてしまった祈りの粉だ。言葉になる前に、溶ける。


「待ってください」

 喉が勝手に動いた。思考の速さより先に、声が飛び出した。

「僕は――僕は、ルキを助けようとしただけで」


 アードルの目線が、少しだけ動いた。

「その“だけ”が、禁足地にはないのだよ、少年」


 丁寧で、残酷な答えだった。

 ミルウスは唇を噛んだ。噛んだ唇から、塩の味が滲む。この味は、滝の水と同じだった。世界は繋がっている。嫌な形で。


 そのとき、手首に触れるものがあった。

 レオンの指だ。外套の内側で、彼はミルウスの手首をそっと握る。驚いて振り向くと、灰銀の瞳が、ほんのわずかだけ「大丈夫だ」と言っていた。言葉にはならない。瞳だけが、言った。親指が脈の上を軽く押さえる。こちらの鼓動が速くなりすぎないように、そこに拍を置く。


「監察騎士の権限において、保護搬送。俺の責任で同行させる。監察記録は俺が持つ」

 レオンは淡々と告げた。

 アードルが眉をわずかに動かす。

「責を引くという理解でよろしいかな、監察官」


「そうだ」

 短い。が、その短さは逃げではない。短剣のような確信だった。


 ルキが、幕の隙間から覗く空へ細い翼を向けた。まだ長距離は飛べない。けれど、空の匂いを嗅げばわかる。風のどこに竜の道が通っているか。幼い竜ほど、空の“固さ”に敏感だ。帝都へ向かう空路は、固い。固く、滑らかで、よく磨かれた石畳のようだ。そこを風は流れ、羽はたわむ。人間の作った規則は風を変える。竜はそれを嫌う。だから、ルキは鳴かなかった。鳴かず、翼の骨を小さく震わせるだけで、抗議をした。


 ミルウスは、悟った。

 帝都へ向かう旅路そのものが、試練なのだと。

 竜と人の間に張られた見えない糸――その一本一本の硬さと角度が、旅の間に彼の皮膚を切る。ときに優しく、ときに容赦なく。


 ◇


 準備は手早かった。

 ミルウスは監察隊の旅幕に入れられ、体を拭かれ、乾いた粗布の下衣を渡され、足には柔らかい革の足袋を与えられた。髪はタオルで荒く拭かれ、指の間の泥は木の楔で掻き出された。辺境で傷を負ったときよりずっと丁寧で、家で母に世話をされるのよりずっと事務的だ。人の形に戻されるみたいだ――と彼は思い、一瞬笑いそうになって、自分で驚いた。


 レオンは間合いを外さない。

 護衛の兵に顎をしゃくり、幕外の動線を短く結び、火勢の調整を命じ、薬箱の印を捺し、竜用の水桶の位置を替え、ルキの爪の状態を目で確認する。幼竜の爪は鈍く、軸は柔らかい。飛びたい盛りだが、飛べば落ちる。落ちれば折れる。折れがうまく付かなければ、この子は一生高く飛べなくなる。レオンはそれを知っている手つきで、梁の高さを半分に落とした。ルキが自分で降りられるように。ミルウスが抱え上げなくてもすむように。


「帝都までは四日。初日は渓谷を外れ、東の尾根を這い上がる。野生竜の通り道を避けるためだ。夜は“声”が遠くまで届く」


 声――竜歌のことだ。

 ミルウスの喉がこわばる。レオンはすぐそれを見つけたらしい。

「歌うのを禁じるわけではない。必要なら歌え。だが、呼ぶつもりのないものまで呼ばない工夫はしろ」


「……工夫」

「息の量で輪郭を変えろ。母に習わなかったか?」


 母。

 その音を胸の内で転がすと、急に背筋のどこかが熱くなった。あのひとは、歌の始まりと終わりだけを教え、途中は自分で見ろと言った。見えるのか、と問えば、見えないものほど目を凝らさなければ見えない、と笑った。

 ――見えないものほど。


 ミルウスは小さく頷いた。

 レオンの親指が、何も言わずに「よし」と打った。


「それと」

 レオンは革の小包を開いた。中には銀色の輪が二つ。ひとつは幅が狭く、ひとつは幅が広い。

「牽制の輪だ。輪といっても枷ではない。竜歌持ちの呼気から漏れる共鳴を抑える。付けている間、歌は死なないが、広がらない。君のためでもあり、周囲のためでもある。選べ」


 選べ、と言われた。

 狭いほうは人差し指の付け根に合いそうだ。広いほうは手首だろう。指は歌に直結する。手首は血に直結する。どちらを縛るのか。どちらなら、自分で「外せる」のか。


 ミルウスは指を伸ばし、狭い輪を選んだ。

 レオンの目が小さく細くなる。

「理由は」


「手首を掴まれるのは……嫌いです」

 まっすぐ言ってしまってから、耳が熱くなった。

 レオンは小さく息を吐いた。笑ったのだと、あとでわかった。いまはわからなかった。

「わかった。指輪に刻印を。契約の印は最小でいい。刻むのは俺だ」


 契約刻印――帝国で“保護”対象に施される印だ。ただの焼き印ではない。竜歌の波形を覚えておき、過度に振れ幅が広がったとき警告として肌を刺す。「守る」の名を借りた、軽い雷。重い雷ではないだけ、優しい。優しい分、逃げ道は狭い。


 レオンの手は手際がいい。革手袋を外すと、指の節の古い傷がいくつも見えた。ミルウスの左手人差し指に輪をはめ、銀の内側に、ごく小さな針で符を刻む。皮膚の痛みは、蜂に刺されたほどもない。けれども、痛みの先に「繋がれた感覚」が確かに生まれた。


 ルキが梁から降り、ミルウスの肩に留まる。

 小さな頭が輪を覗き、鼻先でくんと匂いを嗅いだ。嫌がる匂いではない。けれども、好きと言い切る匂いでもない。竜は正直だ。正直に「慎重」を選ぶ。ミルウスはルキの喉元を撫で、かすかに歌った。輪がひやりと冷えて、すぐに温度を忘れた。


 ◇


 出立までのあいだ、アードルは淡々と質問を投げ、淡々と記録した。

 ミルウスは答えられる範囲で答えた。答えに迷うところは、レオンが間に入るか、または意図的に時間を空けた。時間を空けることも答えだ。アードルはそれを知っている。知っているから、急かさない。急かさない代わりに、「未回答」という小さな楔を記録に打ち込む。未回答はやがて帝都で「回答すべき事項」に変わる。書の中で形を変え、色を変え、重さを増す。


「君の母は、いつ“歌”を教えた?」

「はじめて泣いた日です」

「泣く前ではないのだね?」

「泣く前は、歌えません」


 アードルの白手袋が、紙の上でわずかに止まった。

「……詩人じみた答えだ」

 ミルウスは首を振った。

「母のことばそのままです」


 アードルは、今度は止まらずに書いた。

 レオンは、書かれる言葉のひとつひとつが、少年の皮膚に針のように刺さるのを、目で追っていた。彼の視線は冷たい。けれど、その冷たさは、刃の冷たさではなかった。火鋏の冷たさに近い。熱に触れる手を守るための道具。道具は、誰かの指先に握られることで、何かを挟む。挟む先が、燃え残った布か、燃えるべき火かは、持ち手の意志にかかっている。


 質問が一巡したとき、幕外から角ラッパの短い音が上がった。

 出立の合図。隊列が組み替えられ、竜の幕が畳まれ、人の幕が畳まれ、焚き火は土で埋められる。火の跡を残さないのが帝国式。火が燃えたという痕跡まで、紙の中にしまって連れてゆく。


 レオンは外套を羽織り直し、ミルウスに視線を落とした。

「歩けるか」

「歩けます」

「無理はしない。俺の竜に掴まりたければ合図をしろ。指輪を叩け。三回」


「……三回?」

「一回は癖かもしれない。二回は偶然かもしれない。三回なら意思だ」


 簡素な理屈。けれど、それが安心になることがある。

 ミルウスは頷いた。ルキは肩の上で羽根をしならせ、ミルウスの頬に薄い鱗の冷たさを擦りつける。帝都の道は固い。固いなら、すべての接地を少しずつ柔らかくしてゆけばいい。彼は歩幅を狭め、膝を緩め、足裏で泥の弾力を探りながら、列の中ほどに位置を取った。レオンは斜め前に立つ。アードルは後方で記録の袋を見張り、兵は両脇に散る。


 道は、渓谷の縁から始まった。

 岩肌に鎖が打たれ、鎖に銅の札が吊され、札に教令が刻まれている。「立入禁止」「竜律第七条」「監視下」「違反は追罰」。札の文字は真新しい。真新しい札ほど、古い恐怖の上に置かれる。人は札に従い、竜は札の金属音を嫌って離れる。世界は音で分かたれる。ミルウスは耳を澄ました。ルキの喉の共鳴が、彼の耳のいちばん奥に、小さな灯のように触れている。灯は消えることもあるが、消えたと錯覚しているあいだも、火種は温かい土の中にいる。


 午下がり、東の尾根道に入る。

 木々は針葉の濃い色を持ち、風は冷たく、影は長い。隊列が間歇泉のように喋り、すぐに黙る。レオンはほとんど喋らない。喋らない代わりに、ひとつの音を拾った。周囲の鳥の鳴き方が変わった瞬間だ。高かった音が低くなり、散っていた音が一点に集まる。そこは風の曲がり角で、竜の羽音がよく響く。


 レオンの手が、後ろに向けてすっと上がる。

 止まれ――兵は即座に従う。

「風上に、二。若い。通り過ぎる」

 短い伝令が走り、列の呼気がひとつ薄くなる。ミルウスは、指輪を左の親指で軽く叩いた。一本の線が自分の体を抜け、空へ上っていく感覚。それは歌の始まりによく似ている。歌わない。けれど、歌えると知っている。レオンが一度だけ振り返り、眼だけで「よし」と言った。


 目に見えないものが、少しずつ形になる。

 帝都への道は固いが、固いということは、形があるということだ。形があるなら、測れる。測れるなら、すこしずつ削れる。削れるなら、透き間ができる。透き間は風の通り道で、歌の通り道だ。


 夕刻、尾根の陰に小さな空地を見つけ、そこで野営を張った。

 アードルは周囲の土を検分し、灰を撒き、目立たない位置に糞尿溝を掘り、書記は日記の頁に日付と緯度を記す。兵は小枝を集め、竜のために火から離れた位置に水桶を二つ置いた。レオンは自分の竜に翼の膜を点検し、爪の先に小さな油を差す。ミルウスはルキの羽を拭き、喉を撫で、背中を掌で温めた。指輪の内側が、時折、針の先でつつかれるようにひやりとする。歌いたい衝動と、歌うべきでない状況との間で、皮膚が静かに警告を灯す。


「腹は」

 レオンが訊いた。

「空きました」

「よし」

 差し出されたのは、帝都式の硬い携帯餅だ。湯にくぐらせ、肉の脂で少しだけ表面を潤す。味は乏しい。けれど、口の中で噛むたびに、歯の骨が落ち着いてゆく。生き残ったばかりの体は、塩と脂と炭水化物に救われる。ルキには薄い肉筋を裂いて与えた。小さな舌が、骨の髄を舐める音が夜に溶ける。


 夜半、レオンは書板を膝に置き、火の向こうから低く言った。

「ミルウス」

 名前を呼ばれると、首筋に新しい刺が生える。辺境では、家族以外が“呼び捨て”にするのは稀だ。呼ぶなら通り名か、家名に“坊”を足すか、距離を置く。レオンは距離を置かない。置かないのに、踏み込まない。その中間は、いちばん面倒で、いちばん心を乱す距離だ。


「君は、帝都が嫌いだろう」

 問いではなく、判断として言った。

 ミルウスは、火の光を見た。

「……好きではありません」

「だろうな。辺境にとって帝都は、冬に似ている」


「冬」

「降りてくる。時刻を決めて。長く居座る。生き延びる術はあるが、術を作ったのは帝都だ。雪かきをするのも帝都だ。溶かす水路を作るのも帝都だ。だから、冬が去っても、路は帝都のままだ」


 彼にしては、長い比喩だった。

 ミルウスは、火のはぜる音のあいだに、静かに言葉を置いた。

「僕は、道が帝都のものでも……歩き方は僕のものだと思いたい」


 レオンの指先が、書板の縁を軽く叩いた。

「その歩き方を、帝都で教わらせるつもりだ」


「――拘束の中で、自由を?」

「保護という名の拘束の中で、だ」

 彼は微かに笑った。笑みは刃ではなく、爪の背だった。引っかけば傷になるが、撫でれば眠くなるような、奇妙な安心を伴う笑い方だ。

「君は賢い。賢いなら、使い道がある。使い道があるなら、死なずに済む」


「監察騎士は、いつもそんな言い方をしますか」

「いつもではない。たいていはもっと短い」


 たしかに彼は短い。短く、切り捨てる。

 けれども、今の今だけは、彼の言葉はどこか遠回しだった。遠回しにしないと届かないところへ、何かを投げている。投げて、戻ってくるまでの間だけ、火のそばに座って待っている。そんな顔をしている。ミルウスは火の縁に指先を差し出した。火は熱で答え、皮膚はひりついた。


 ルキが眠っている。

 小さな体が規則正しく上下し、夢の中で空を走っているのか、ときどき翼の骨がふるえた。ミルウスは彼の喉の節々を数えた。これは子どもの習慣だ。母が眠る前にいつもしていたこと。数えるあいだだけ、世界は数に従う。従わせられる。支配ではない。祈りに似ている支配。


「ミルウス」

 レオンがもう一度呼んだ。

「君は、誰の背に背中を預ける」

 唐突な問いだった。

 ミルウスは答えに迷い、言葉の骨組みを探した。

「……いまは、ここです」

 外套の内側、と言わなかった。言えなかった。言えば、何かが変質する気がした。

 レオンは、短く頷いた。

「なら、それでいい。いまは」


 いまは、という言葉は、未来に余白を作る。

 余白は恐ろしい。けれど、余白がなければ、絵は息ができない。


 夜は深くなり、火は小さくなり、兵は交代で見張りに立ち、アードルは最後の頁に印を押して眠った。ミルウスは外套を肩まで引き上げ、指輪の内側の冷たさが消えているのを確かめ、目を閉じた。眠りと目覚めの境目に、歌が来る。来るが、歌わない。歌わないことが歌になる夜がある。これはそういう夜だ。


 ◇


 二日目、道は一段と固くなった。

 尾根道から、石の道へ。石の道は帝都へ続く。小さな村々の入口には、竜の骨を模した白い門があり、門の上には監察騎士団の紋が掲げられていた。紋がある村は、帝都の目がある村だ。目がある村は、安心で、窮屈だ。安心はよく効く薬で、窮屈はよく効く下剤だ。人は薬を求め、下剤を嫌う。それでも、帝都は両方を一緒に飲ませるのが上手い。


 村のはずれで、少年がルキを見つけて走ってきた。

 泥だらけの靴、破れた袖。目は、ミルウスが見慣れた光だ。辺境の子どもは、空を見て育つ。

「お兄ちゃん、それ、うちの空に来た竜?」

 ミルウスは微笑んだ。

「違うけど、君の空に挨拶してる」

「ふーん。帝都に連れてくの?」

「……うん」

「やだね」

 率直だ。

 レオンが横から静かに言った。

「君は帝都が嫌いか」

「好きじゃない。だって帝都のひとは、村の夜を明るくして帰る。明るいと星が見えないや」

 レオンは目を細めた。

「星が見えない夜も、いつか君の目の裏で光る」

 少年はよくわからない、という顔をして、笑って走り去った。

 ミルウスは横目でレオンを見た。

「やさしい言い方を、するときもあるんですね」

「子どもには、短剣ではなく鞘で当てる」


 その日、夕刻前に、隊列は灰色の小さな駐屯地に入った。石の柵、低い塔、旗。門番はレオンの顔を見るなり敬礼し、記録官はアードルから皮袋を受け取り、印を照合した。ルキは少し怯えた。石が多い場所は、空が狭いからだ。ミルウスは肩を軽く叩き、宿営の隅に木枠を組んで、羽を休める場所を作った。レオンがそれを手伝った。彼は手伝うというより、先回りして必要なものを差し出す。差し出しながら、口は出さない。口は出さないが、手は迷わない。迷わない手は、幼い頃、誰かに作法を叩き込まれた手だ。


 夜、駐屯地の食堂で、温いスープが出た。塩気の強い根菜と干し肉の、どこでも同じ味。ミルウスは匙を握り、汁を口へ運ぶ。湯気が目に沁みて、涙が出そうになる。泣く理由はない。泣く理由は山ほどある。涙は理由を選ばない。理由のない涙のほうが、あとで困る。


「帝都に着いたら、まずは検査だ」

 スープの向こうから、レオンが言った。

「竜歌の音域、肺の容量、鼓膜の反応、指輪の適合、睡眠の深さ。次に面談。監察学院の教官が君の基礎を見て、保護区の寮に入る。寮は閉鎖的だが、閉じることで守る。情報は段階的に与えられる。敵も味方も、君に近づく」


「敵と味方」

「帝都では、名札をつけて歩いてくれない」


 ミルウスは匙を置いた。

「僕は、あなたをどう呼べばいいですか」

 唐突に聞いた自覚はある。だが、呼び名は枠組みだ。

 レオンはわずかに顎を上げた。

「レオンでいい。監察官でも騎士でも構わない」

「……レオン」

 口に出すと、骨の内側で何かが動いた。言葉が体内のどこを通るかで、意味の重さが変わる。レオンは、一瞬だけ目を伏せ、すぐにこちらを見た。

「君は、ミルウス。──それで十分だ」


 名を呼ぶ。呼ばれる。そのたび、距離が再設定される。

 保護という名の拘束は、たぶん、そういう小さな呼び合いの積み重ねで、やがて形を持つのだろう。形があるものは、壊せる。壊せるものは、選べる。ミルウスは、匙をもう一度握った。


 ◇


 三日目の昼下り、駐屯地の外で小さな事件が起きた。

 荷車の列が石橋の上で止まり、村の女が叫び声を上げた。荷車に結わえた紐に、白い小竜が絡まっていたのだ。生後数週ほどの幼体。目はまだ乳の色をしている。糸のような鳴き声が風に絡み、竜に敏い兵が顔を上げる。人だかりができる。人だかりは、竜にとっては壁だ。幼竜は壁に怯え、呼吸が速くなる。呼吸が速くなると、歌が勝手に始まってしまうことがある。始まれば、応えるものが来る。応えに応えるものが来る。連鎖だ。


「下がれ」

 レオンの声が低く土を打つ。兵が両腕を広げて円を作る。ミルウスは走っていた。体が勝手に、輪の隙間を抜け、小竜の前に膝をつく。指輪の内側が、鋭く刺す。歌うな、と告げる。歌わない。歌わない歌を喉に含み、呼気の輪郭だけを幼竜に示す。輪郭。輪郭だけ。

「大丈夫だよ。息を細く。ここだ。ここから、ここまで」


 母がしてくれたことを、そのまま真似る。

 幼竜の喉が一度ひくりとつり上がり、すぐに落ちた。呼吸が細くなる。細くなったところに、ミルウスは自身の呼気の輪郭を重ねる。重ね、少しだけ狭め、風を通す。風は理不尽に従順で、理屈に残酷だ。従わせるのではない。共鳴させるだけだ。


 レオンが背後に立ったのが、影でわかった。

 彼は何も言わない。言わないで、肩の後ろから空気の流れを守るように立つ。風の壁になり、余計な音を遮る。人だかりのざわめきが遠のく。橋の下の水音だけが残る。水音は、滝壺とは違う。表面を叩く音で、深く軋む音ではない。浅い音だ。浅い音は、浅い呼吸に似合う。


 やがて、幼竜は紐から解かれ、荷車の上に丸くなって目を閉じた。女が泣いて礼を言い、兵が散らし、橋の上の人波がほどけていく。ミルウスはそこで初めて、膝が震えているのに気づいた。指輪の内側は静かだ。静かだが、はっきりと存在していた。存在は、ときに音よりも大きい。


 レオンが、肩に手を置いた。

「よくやった」

 言葉が短い。短いのに、今はそれで足りた。

 ミルウスはうなずいた。

「僕は、歌っていない」

「歌ったさ。呼吸で」

 レオンの親指が、また脈の上に置かれる。

「君の歌は、広がらなかった。君が選んだからだ」


 選んだ、という言葉が、胸の真ん中に沈む。

 保護という名の拘束の中で、選べることがある。あるのだ、と、はじめて確信に触れた。


 ◇


 四日目の朝、遠い地平に灰色の稜線が現れた。

 帝都だ。

 城壁の上に旗が並び、塔の間を渡る回廊に陽が射す。風が変わる。固く、乾いて、数の匂いがする。人の数、紙の数、言葉の数。数は、歌の敵ではない。数は、歌の伴奏だ。数え間違えれば転ぶ。数えきれれば舞える。


 門前で、アードルの検分袋が係官に渡され、押印のやりとりが行われる。書記官は目の色ひとつ変えずに印を押し、紙を重ね、紐で綴じ、棚に差し込む。棚はもういっぱいで、新しい棚が横に置かれ、そこにも紙が差し込まれていく。紙の匂い。インクの匂い。帝都の匂い。


 レオンはミルウスを振り返った。

「ここからは、俺の名も“鎖”になる」

 彼は淡々と言った。

「君は俺の同行者だ。名簿に、俺の名の横に君の名が書かれる。俺が責を負う。君は俺に責を貸す」


「貸す?」

「責任は、借りられるし貸せる」

 レオンは短く笑った。

「それが帝都の魔術だ」


 門が開く。

 内側の空は狭い。狭いが、深い。深いから、声がよく響く。石畳に、蹄の音が連なる。鐘の音が、遠い塔から落ちてくる。人が歩き、竜が影を落とす。影はすぐに消えるが、消えたあとに冷たさが残る。ミルウスは外套の前を握った。ルキは肩で翼を震わせ、鳴かなかった。


 ――帝都へ。

 ここからが、試練のはじまりだ。

 保護という名の拘束を、ただの枷にしないための旅が、これから始まる。


 レオンが、群衆の波の中でふっと速度を落とし、ミルウスと歩幅をそろえた。

 誰にも見えない位置で、彼の親指が、もう一度だけ脈の上に触れた。

 三度、軽く、合図のように。


 それは、「ここにいる」という合図だった。

 拘束の鎖のひと輪が、絆の輪にすり替わる、ほんの微かな手つきで。


 ミルウスは、息を整えた。

 歌わない歌を胸にしまい、固い石の上に、彼自身の歩き方で足を置いた。

 ――行こう。選ぶために。守るために。

 そして、救われた命の温度を、忘れないために。


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