第1話 滝壺の祈り
山の奥はまだ冬の気配を引きずっていた。
雪解けの水が一気に集まり、渓谷を轟々と駆け抜けていく。細い道を歩けば、常に水煙が頬を打ち、耳には怒声のような流音が絶えず響く。
ミルウスはその音をよく知っていた。
彼が育った辺境の村は、滝壺の水を生活に使い、渓谷の声を聞いて季節を測る。子どものころから耳に馴染んだ響きだ。だが今は、その轟きが死の予兆に聞こえた。
「……ルキ!」
声が水に溶け、返事はない。
紫水晶のような鱗を持つ幼竜を胸に抱えたまま、彼は濁流に呑まれていた。
牙のように荒れ狂う流れ。
何度も岩に打ちつけられ、視界が暗転する。肺に氷の刃が突き刺さり、喉が焼けるように痛い。
それでも、腕は決して離さなかった。
指の中に確かに感じる小さな体温。鼓動はかすかだ。
ここで手を緩めれば、仔竜は水に砕かれる。
「っ……は……」
息を吸おうとすれば、口内に冷たい水が流れ込む。咽び、肺を裂き、声は途切れる。
死の匂いが鼻腔を刺し、意識が暗闇へ引きずられていく。
だが、彼は願った。
言葉ではなく、声でもなく。
ただ、母から教わった旋律。意味を持たぬ歌。
――竜に祈りを届ける“竜歌”。
水底で、喉が震えた。
泡の一粒ごとに光が宿る。
揺らぎ、ほどける旋律は、確かに天へ向かって昇っていった。
その瞬間。
黒い影が滝壺を覆った。
濁流の上を裂くように舞い降りたのは、巨大な竜だ。
翼が風を叩き、怒涛の水飛沫を散らす。
次の刹那、鋭い鉤が投げ込まれた。
鎖に繋がれた鉄の鉤爪が、渦の中のミルウスを絡め取る。
強引に水から引き剥がされる衝撃。肺が破裂しそうに空気を求め、彼は咽び泣くように息を吸った。
「……っ、あ、ああ……」
水と空気が混じった咳に喉が焼ける。
だが、生きている。
やがて視界が開け、荒れ狂う滝壺の縁に投げ出される。
土と草の匂い。足場の固さ。――生の感触。
「……まだ息があるな」
低く冷えた声が頭上から落ちてきた。
顔を上げた彼の視界に映ったのは、黒外套を纏う騎士。
銀灰の瞳が冷ややかに光を反射していた。
帝国監察騎士――レオンハルト。
その名は辺境の村人にも恐れられている。
竜律を破れば、たとえ貴族であろうと裁かれる。
冷徹と噂され、竜と人の関わりを監視する帝の牙。
彼が今、ミルウスの命を救った。
土の上に転がされたミルウスは、必死に腕の中の小さな影を探した。
「ルキ……! おい、ルキ!」
紫の鱗が濡れそぼり、羽は泥に貼りついている。
目を閉じた仔竜の喉に、耳を押し当てる。
とく、とく――。まだかすかな鼓動があった。
だが、その体は冷たすぎた。
小さな胸は上下していない。
「っ……いやだ、いやだ……!」
爪がかきむしるほど必死に、ミルウスは仔竜の胸を擦った。
竜歌を震わせようとしても、喉が痙攣し、水で裂けた声は掠れる。
そのとき、影が覆った。
「低体温だ」
レオンの声が短く落ちる。
彼は迷わず黒外套を剥ぎ取り、濡れたミルウスごと包み込むように引き寄せた。
広い胸板に押しつけられる。冷え切った体に熱が流れ込む。
心臓の鼓動が耳に響いた。規則正しい、揺るぎないリズム。
「呼吸を合わせろ。喉を緩めるんだ」
鎖骨に触れる指が、まるで楽器を調律するように一定の圧を加える。
その拍に合わせ、ミルウスの肺が無理やり空気を吸い、吐き出す。
――息が、入った。
震える声が重なり、仔竜の喉がかすかに鳴った。
「……っ、あ……」
ルキが細い声を漏らす。
ミルウスの瞳に、涙が滲んだ。
「……生きてる……!」
安堵が胸を突き上げ、呼吸が乱れる。
その背を、無言で大きな掌が支えていた。
だが、次の瞬間。
「禁足地で竜に接触するのは、竜律違反だ」
冷えた通告が頭上から落ちてくる。
ミルウスは顔を上げ、絶句した。
ルキを守りたくて必死だったのに――違反者と呼ばれるのか。
「君は、保護対象になる」
レオンの灰銀の瞳が、迷いなく彼を射抜いていた。
その声は冷徹だ。だが、鎖骨に触れる指は、呼吸を整えるためにまだそこにある。
冷たさと、温もり。
突き放すようでいて、確かに生を繋ぎ止めてくれている。
ミルウスの胸に、複雑な熱が渦を巻いた。
息を整えながら、ミルウスは震える指でルキの喉を撫で続けた。
小さな体が弱々しく上下し、肺が鳴く。掠れた鳴き声は細い糸のようだが、確かに生の証だった。
ミルウスの視界が涙で滲む。
「……届いたんだ。祈りが……」
声にならない旋律を吐き出したとき、確かに水が震え、何かが応えた。
そして現れたのは――黒外套の騎士。
「……竜歌、か」
レオンの灰銀の瞳が、じっと彼を見据えていた。
冷たい水の底まで射抜くような視線。
「竜と交わる声を持つ者は、帝国において例外なく“保護”の名の下に監視される。君も、だ」
淡々とした声音。そこに情はない。
だが、ミルウスはその冷徹の奥に、かすかな躊躇を感じ取った。
「……どうして、助けたんですか」
声が震えた。問いかけというより、胸の奥から溢れた呟き。
レオンは一拍の沈黙を置いて、答えた。
「職務だ。監察騎士は、竜歌持ちを見過ごせない」
言葉は突き放すように響く。
しかし、その腕はなお、彼を支えていた。
帝国へ――。
その響きが、ミルウスの心を重く縛る。
故郷を離れ、鎖に繋がれる未来。
だが同時に、今まさに救われた命の温度がそこにある。
ミルウスは視線を落とした。
腕の中でルキがかすかに鳴く。
その小さな声が、唯一の答えのように思えた。
レオンはゆっくりと立ち上がり、濡れた黒外套を翻す。
滝壺の轟きが再び耳に戻る。
だがそれは、もはや死の音ではなかった。
「立てるか」
差し出された手。
迷いのない仕草に導かれるように、ミルウスはその手を握った。
鎖の輝きが未来を縛る。
だがその鎖は、同時に命を繋ぎ止める絆でもある。
こうして、辺境の祈りは帝都へ続く道へと変わった。
それが、この先の全てを変える始まりになるとも知らずに――。
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