第8話


 ——もう、限界だった。


 SNSをいくら遡っても、直哉の“彼女”らしき影は見当たらない。

 昼休みにカフェテリアをうろついても、彼女が誰かを口にする学生なんてひとりもいない。

 尾行までしてみたのに、直哉はただ、コンビニでアイスを買って真っ直ぐ帰るだけ。


(おかしい……本当に、存在するの?)


 この数日、心はずっとざわついたまま。

 直哉の口から「彼女ができた」と聞いたあの日を境に、何もかもが上手く回らなくなった。


(……もう、確かめるしかない)


 ぐるぐると回る思考の先で、私はある決意を固めていた。


 ——酔わせて、吐かせる。


 シンプルで、確実。

 直哉はお酒に強くない。少し飲ませれば、ぽろっと何かが出るかもしれない。


「ねえ、今夜ひま?」


 講義終わりの帰り道。学部棟の階段を降りたところで、私は彼に声をかけた。


「は?」


 直哉はスマホをいじる手を止めて、眉をひそめた。


「たまには一緒に飲みに行こ? 最近、話してなかったしさ」


 できるだけ自然を装う。でも、心臓はうるさいくらいに騒いでいた。


「……別にいいけど」


 拍子抜けするほど、あっさりとOKが出た。


「じゃあ、あそこの駅前の居酒屋、どう? 安くて静かだし」


「……ああ、あそこね。いいよ」


 予想外のスムーズさに、逆に身構えてしまう。

 でも、それでも。

 この機会を逃すわけにはいかなかった。



 居酒屋の個室。暗めの照明と、少し埃っぽい空気。

 ふたりきりの空間に、妙な緊張感が流れる。


「かんぱーい」


 グラスが触れる音。

 私は笑いながら、生ビールをひと口。


「お前、妙にテンション高くない?」


「えー? たまにはいいじゃん。お祝いだよ、お祝い」


「何の?」


「直哉に彼女ができた、おめでとうって」


 わざと明るく言う。

 けれど、その言葉に彼の顔がぴくりと動いた。


「……ああ、それな」


 曖昧に笑って、グラスを口元に運ぶ直哉。


(やっぱり……図星)


 私はひとり勝手に確信し、そこから何杯も酒を進めた。

 飲ませた。話を振った。笑った。


 直哉の目の奥が、少しずつ潤んでいく。

 頬が赤くなり、語尾が甘くなる。


 そして——それは、ふいに落ちた。


「……あー、つかれた。マジで、最近お前しつこすぎ」


「えー? なにがよ?」


「……彼女、彼女ってさ。いねーよ。そんなん最初から」


 その瞬間、心臓が落ちたかと思った。

 一拍置いて、信じられないほどの安堵が押し寄せた。


(いない……彼女、いない……)


 体から力が抜けた。

 ずっと張っていた神経が、ぷつんと切れる音がした気がした。


 私は笑った。


「……なんだ、それ」


 喉の奥が熱い。

 頬がじんわりと火照るのは、アルコールのせいか、それとも。


 直哉はもう、テーブルに頬を乗せて、ろくに起き上がれない。


「おーい、直哉。帰れる? 駅、遠いよ?」


「……うるさい、真白うるさい……」


 呂律の回らない声。

 このまま帰したら、たぶん途中で転ぶ。


 私はゆっくりと、立ち上がった。


「しょうがないなあ。ほら、立って」


 片腕を肩にまわして支える。


 直哉の体温が近い。耳元で吐息がかかる。


(彼女がいない。誰のものでもない。——なら)


 今しかない。


 この手の中にある温もりを、もっと近くで、ひとりじめしたい。


「ねえ、ちょっと休憩してこ?」


 駅とは逆方向。

 私は、いつか通りがかりに見かけた、あのビジネスホテルのネオンを目指して歩き出した。


 直哉は何も言わない。ついてくる。

 たぶん、もう気づいてる。

 この夜が、ただの“飲み会”では終わらないことに——。

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