1.普通の人

 桐宮翔奏は、普通・・だ。


 顔は普通、体型も普通。大体のことは普通くらいできて、テストもやった分だけ高得点を取れる普通の人間。

 周りの人も口を揃えて「普通だね」という、普通の模範。それが、桐宮翔奏。


 だが普通すぎるゆえに、少しでも特別を持っている人がうらやましくなる。 

 なんでもいい。地頭がいいとか、楽器ができるとか、字がきれいとか。小さなことでも、それがたまらなくうらやましい。


 それが例え、「家庭環境が悪い」ということでも。


 分かっている。そんな考えが最低なことなんて、分かっている。だけれど、そういう考えが無意識にも頭の中に浮かんでくる。

 それが、普通の翔奏の一番の悩み。

 そして。


 ——それが翔奏が死にたい、一番の理由だ。


「っ!」


 チョークが黒板に当たる音で、翔奏は目を覚ました。

 状況が咄嗟に理解できず、辺りを見回す。

 ……あ、今授業中か。

 周りの人たちの様子と容姿や、その空間に浸す響くシャーペンの音でそれを判断する。


 つまりここは教室。翔奏は絶賛居眠りをしてしまっていたというわけだ。

 まあよくあることだからいいんだけど。そう思って、教室の真ん中の席にいる翔奏は周りと同様にノートと黒板を往復しながら板書を始める。


 ここにいる人たちは、先生を除きみんな高校三年生だ。このクラスは風紀がいい方で、授業中しゃべったりする生徒は極めて少ない。どそれでも雰囲気は緩やかなのだが、今は大学受験期ということもあり、教室の空気は張り詰めていた。


 大学か……、どこにしようか。


 そんな、目の前の内容とは全くと言っていいほど関係のないことを心なしにも考える。

 そう、いえば。


『翔奏くんは、自分の思ったように進めばいいんじゃない? どこへでも行けるよ、きみなら』


 あいつは、そんなこと言ってたっけ。全く、普通の俺は普通にしか行けないっていうのに。

 そんなことを思い出していると、思わずノートを書く手が止まり、シャーペンに力が込められる。


 ——あいつは。


 だが、そのときに力を込めすぎたのか。


 ボキッ


 「あっ……」


 そう言ったと同時に、力を込めすぎてシャーペンの芯が折れた。

 折れると次に書く文字が極細になるから嫌なんだよな……。だが板書はしなければいけないので、シャーパンの芯をカチカチと出して再びノートに向かう。


 ぼんやりと、翔奏は考える。

 結局俺は、あの頃に囚われたままなんだ。


   *** ***


 学校の帰り。

 翔奏は、一人暮らしをしているマンションの、1LDKの自分の部屋の前にいた。高校生の分際で高すぎると思っていたこの物件も、いつしか翔奏の中に馴染むようになっていた。

 鍵をガチャリと回して玄関の扉を開ける。


「ただ……、あ」


 ただいま、と言おうとした翔奏の唇が、動きを止める。後ろで、玄関の閉まる音が聴こえる。


「……そっか」


 小さく呟く。

 もう、その言葉は必要ではないのか。言わなくても、いいのか。

 自分を納得させるように、言い聞かせる。

 最後にその言葉を言ったのは、確か——。


「…………」


 いい。考えてもどうしようもないことだ。余計にあの頃を思い出すだけだ。そうやって浮かんできた考えを一生懸命に振り払う。


 玄関に入り、暗闇の中手探りで玄関の明かりをつける。今日はどうしてか、少し時間がかかる。


「……あった」


 数十秒探してようやく見つかり、翔奏がそのスイッチを押すと、天井についてあるLEDの電球が辺りを照らす。

 玄関に腰と背負っていた高校のリュックを下ろす。


「っはぁぁあああ……」


 だらしないため息をこぼすと、溜まっていた疲れが床に抜けるように身体から流れ出ていく。この疲れの原因の九割が今日だけの疲れだというのが、また恐ろしい。


 しばらくそこで疲れを癒してから、靴を脱いで立ち上がり、翔奏は自分の部屋へと向かう。

 入るとまず左にキッチンと少し奥にダイニングがあり、そして右の小部屋が翔奏の部屋となっている。そのため距離はそんなにないが、今の翔奏にとってはそれが恐ろしく長い距離に見えた。


 なんとか、疲れた足を引きずって、翔奏はその前へとたどり着く。

 なんの造作もなく、そのドアノブを回し中に入る。

 深淵のように暗い、その部屋の中には——。


 当然、誰もいない。


 簡易的な机と椅子とその隣の本棚と、真ん中に敷かれているカーペット。そして青いシーツのベッドがただ置いてある、殺風景な、簡素な空間がそこには広がっていた。


 ——前までは、あんなにもこの部屋が色づいていたのに。


「っ……」


 歯を食いしばりながら翔奏はリュックを地面に放り、ダイニングへと踵を返す。

 今日はなにかと、あいつのことを思い出すことが多い。きっと疲れているからだろうが、それは少し頷けない。


 だってそうすると、俺が疲れたときは必ずあいつに頼っているみたいに見えて、なんだか情けなくなるから。


 気にしないようにしようと思いテレビをつけるも、運が悪く今の心境にそぐわないコメディ番組が流れてきて即座にチャンネルを変える。

 二、三局回したところでいつも見ているニュース番組が見つかり、翔奏はソファにもたれかかる。


『次のニュースです。今日未明、都内の高速道路で車三台が衝突する事故が起こりました。現在も交通事故が起こった区間は交通規制がされており、警察が—―』

「交通事故か……」


 なんかまた、いやなニュースだ。昨日もこんなようなニュースを報道していなかっただろうかとふと疑問に思い、だが日付を見るとしっかり一日更新されているのでタイムリープとかいう一瞬考えた可能性を消す。


 本当にタイムリープできたら、いいのに。

 そんな非現実な話を考えたとき、翔奏に睡魔が襲ってくる。


「待って、まだ、寝ちゃ……」


 だがそう言いながらも、腰は上がらないし、目は閉じる一方だしで眠る体勢へと身体は切り替わっていく。

 ……まあ、別にいいか。そう思ったときは、もう意識のなくなる寸前で。


 芯まで疲れていた翔奏は、そのまま深い眠りへと落ちた。

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