第18話

 耳穴を一周掃除したあとで、天使の羽のような梵天がふわふわとくすぐり、耳かきコースは終了した。

 

「どうだった?」

 

 安らぎに身を任せ切ったせいで重い上半身をむくりと起こす。

 

「そ、想像以上に……気持ちよかった」

 

 やっぱりなんか負けた(?)気がしてしまい、目を合わせられない。負けたもなにも勝負なんてしていないのに。

 

 「茜のくせに」とか少し考えたところで、自分がまた無意識に茜を下に見ていることに気づき、自分を恥じる。ここ最近、彼女は私より優れている点が結構あることを学んだ。

 

「とても上手だったよ。才能あるんじゃない」

 

 見栄とかなし。手放しで称賛する。

 

「マジ〜? やったね」

「すごいよかったけど勉強とかしたの?」

「まあね。調べもしたしお母さんが上手だから施術されながら学んだよね。まりーどんな反応するか楽しみだったから、想像以上で嬉しい! だって信じられないよ! あのムスッとした顔がぽやーんって」

「上手いのが悪い」

「にはは、写真撮っとけばよかった。ホーム画にしたい」

「やめい」

「じゃあこれからもまりーのこと癒してあげるからそんとき撮ろ。あー! 好きな人の役に立てるって清々しいね!」

 

 そう言うとお手伝いで褒められた子供みたいにはにかんだ。

 

 私は……茜の好きな人なのか……。

 

 自分の胸に手を当てて思う。

 

 私、好かれてるんだな……。

 

 落ち着いた心拍が手のひらから流れ込んでくるのをしっかりと感じた。

 

 でも好きって、なんなんだろう?

 なにをもってして好きなんだろう?

 好きの定義とは?

 どうして、私?

 

 私にはどれも分からない。

 だって人を好きになったことがないから。

 

「ねぇ、茜ってばどうして私が好きなの?」

 

 事の発端である、茜からの好意。茜と形上かたちじょうとはいえ付き合ってから約一ヶ月、そういえば私はその理由を一度も聞いていなかった。

 

「理由〜?」

 

 んーとひとしきり悩む。

 

「好きになるのに理由なんてなくない?」

「……は?」

「いやー心が好きって、一緒にいたいって言ってるから好きなんだよ。これこれだからっていう理由はないな。あれ、でもそれだと心が好きって言ってるからっていう理由に……あれー?」

「解せない」

 

 やっぱり恋愛は理解不能だ。明確な理由もないのに、感情で突っ走って。それでこれからを、未来を決めようというのか。

 人の感情なんて不安定だ。いつ何時ぐらついてしまうかも分からない。私がさっきドジ踏んだように、たった一つの行動や状況で簡単に崩れるかもしれない柱だ。その柱の上に『恋愛』を乗せるのはあまりにも無防備ではないだろうか。

 

「あ、でもまりーの好きなとこはいっぱいあるんだよ。幼馴染で昔っからいい子だとか、バカな私を面倒見てくれたりとか、頭いいとか……。でもそれがあるから好きってわけじゃない。それはあくまでも茜の好きなとこであって、理由にはならないなぁ。あれ、数学のやつ。えーと」

「必要十分条件」

「そうそれ! そんな感じ〜」

「女同士とか考えないの?」

 

 生物的にはどうなのかという私の中で重要な位置を占める質問。私達は雌雄で繁殖するという生物的本能からは完全に逸脱しているのだ。これでは子孫を残すことだって叶わないのだから、きちんとした説明が欲しい。

 

「別にー。男だから女だから好きになる、じゃなくて好きな人が女の子だったの。幼馴染で全く同じ性格でまりーちゃんがまりー君だったら、男の子でも好きになったよ」

「子供できないよ?」

「え、まりーったらそんな未来まで考えてくれてんの⁉︎ やば、めっちゃ嬉しい!」

「っバカ! 違うわ! 生物は子を儲けようと生きてるのに、私達は非合理的だって話!」

 

 どうしてそんなポジティブ思考になれるんだ。

 

「合理的ね……じゃあさじゃあさ、聞くけどさ、どうして生き物は増えようとするの?」

 

 それは普段の茜からは想像がつかない哲学的な疑問だった。

 

「それは……。えー……。うーん、本能だからじゃないの」

 

 答えてはみるが、自分自身それが正答とは信じ切れない。納得できる説得力を持っていない。

 そこに追い討ちをかけるように茜が続ける。

 

「本能に従うことが合理的って事?」

「うう……」

 

 それを肯定することはできなかった。

 人間の営みには道理ではないことが多過ぎる。例えば私の趣味の演劇鑑賞だってするなと禁止されても死ぬことはない。食事や睡眠のように必須ではないのだから。けれど生きる上で必要のないことを好んでいる。

 本来生きるために、より欠かせない行為に活力と時間を割くべきなのにそうしない。それは本能に逆らっていて……。そうなると私は既に非合理的なのか?

 

「ま、難しい話はどーでもいいんだよ。男とか女とかは関係なくて、ようは私はまりーが好きでこの時間が大切ってこと」

 

 自分を含め世界を分からなくなってしまった私に、茜はあっけらかんに肩を叩いた。

 

「子供は養子っていう選択肢もあるし。血が繋がらなくたって家族になれるんだから。でもそれはまだまだ先の話。当分は私がまりーを独り占めするんだからね!」

「なんでもう未来が確定してるみたいに言ってんだ」

 

 茜と話すと調子が狂う。ますます訳が分からなくなってきて頭痛がしそうだ。

 答えを得るために質問したのに、疑問がより複雑化してしまうのはどうしてだ。テストのどんな問題よりもどんな証明よりも難しい。

 

「でもまりーのおっぱい吸ってもなにも出ないのかぁ。唯一の残念ポイント」

「なにを期待しているんだお前は。出たら出たでどうすんだ」

「そりゃあ……ね〜。まぁまりーのDカップ吸えるだけでも満足か。サイズは申し分ないし〜」

「よくDって知ってるね」

「あ……」

 

 ピキンッ。

 唐突に固まる茜。

 

「え、えー。見た感じー?」

「てかこの借りたブラすっごいフィットするんだよね。測って作ったみたいに。妙だよね。人の物なのにこんなによく馴染むなんて」

「そそそそりゃよかった、なー」

 

 目がオロオロ、オロオロ行ったり来たり。

 

 こいつ、なにか隠してる……?

 

「目泳いでるよ」

「ソンナコートナイヨー♪」

 

 ふーん。

 

「……そういうことか。茜ってばそういうことするんだね……。なんか失望」

 

 茜への信頼を失くしたかのようにため息混じりに頭を抑えて見せた。

 

「え、ご、ごめん! 許して。体育のときに一眼見たら気になって手が動いちゃったの! 出来心なんです!」

「ほうほう、体育のときにしたんだね。どんなことしたの、言ってごらん」

「え……」

 

 怪しい挙動にちょっとカマかけたらこれだ。茜は正直過ぎる。いつか詐欺とか引っ掛かる気がする。

 

「……ん? え、えっと、気がついて、るんだよね?」

 

 ちょろい。超ちょろい。

 

「把握なんてしてないですよ。たった今、犯行時間は体育のときって自白してくれましたけど〜」

「……やっちまったあああ!」

 

 うぉおおと頭を抱える。こんな顔文字を見た気がする。ナンテコッタイ?

 

「さぁ言ってごらん。したんだよねぇ?」

「いや、話せば分か」

「吐け」

「はい」

 

 ようやく観念したらしく、手錠をはめたまま取り調べを受ける容疑者みたいに話し始めた。

 

「体育のとき更衣室で着替えするでしょ。そんでいつだったか、まりーのブラのホックが外れちゃって私が直したときあったじゃん」

「うーん」

 

 いつだっけ。

 私のやつは外れやすいみたいで、茜がつけてくれたことが多かったから特定できない。

 

「そのとき……タグ見ちゃって、おっきいなって」

「うわ」

「それから違うブラつけてくるたびに気になって——」

 

 ん、ちょっと待てよ。

 

「まさかあんた! 外れてるってのは嘘で、何回もタグ見てたの⁉︎」

 

 反射的に握り拳を振り上げる。

 

「ひぃぃっ⁉︎ ごめんなさい!」

 

 情けない謝罪を漏らしながら防御姿勢を取る茜をロックオン。だがそのまま脳天に振り下ろして脳漿のうしょう撒き散らす程感情的になる私ではない。

 

「……お前……やばいぞ」

 

 かわりに心底幻滅した声を腹の底からひり出した。わなわなと震える手は、少しでもこの俗物から自分の胸を守るためにカバーする。

 

「そんな目で見ないで〜」

「は? お前には生ゴミにくれてやる視線が相応しい」

 

 さっきこいつには申し訳なく思っていたが……いや、さっきのはさっきので確かに私が悪い。しかし今のを聞いてしまえば私の罪は水に流していいだろう。チャラだ。

 

「そんであんたは私のブラを調べ上げてデータを記録し、自身ではつけもしない私専用のブラを用意したんだな?」

「はい。まりーにつけて欲しい柄を選びました」

「……妙に大人っぽいと思ったらあんたの欲望を反映したからなのね」

「そう。だから今すぐにでもその部屋着を脱いで欲しくて堪らな」

「死ね」

「ぐふっ」

「もう一つ聞きたい。話聞いて思ったんだけど、私がつけてたブラ、あんたが熱心に調べて『くださった』ブラは一年くらい使ってキツくなってたんだけど、今用意して『くださった』のはぴったりなのよね」

 

 怒りマシマシ皮肉追加トッピング容赦抜きのスペシャルラーメンみたいな追及にものともせず、教官に対峙する訓練兵ばりにはっきり答えた。

 

「はい! タグの数値に違和感を覚えたので、目測及び手定規で最新のおっぱいステータスに対応しました」

 

 こいつ……。

 

「もうその道で食ってけよ。下着アドバイザーなれ」

「いえ、まりー以外のフィッティングは受け付けていません」

「なんで」

「まりーが好きだから」

「この状況でその言葉にときめくやつがいるなら会ってみたい。会って脳を取り出してホルマリン漬けにして夏目漱石の隣に保管しよう」

 

 このまま尋問を続ければいくらでも余罪が出てきそうな気がする。重罪だろう。というかもしかしたら前科持ちかもしれない。もういっそ洗いざらい吐き出してもらうか。

 

「あとはなにしたの」

 

 生ゴミよりも下等物に向ける視線で茜を突き刺しながら詰問。

 

「えっと……まりーがいつか着けるんだなって思って……我慢できなくてその、私も着けちゃった……間接共有みたいな? にはは……」

「……」

「はは……」

「……」

「だけどねすぐ脱いだんだよ! 自分でも流石にこれはキモいだろ〜って思ってね」

 

 キモいの判断ラインが常軌をいっしている。一般的な道徳心を積んだ者ならそもそも人のバストサイズをこっそりと収集しない。

 怒りを超越した呆れは、もう諦めのレベルに到達してしまった。絶対気のせいだろうけど、身につけてる下着からむしばむような邪気のようななにかが伝わってくる気がする。絶対気のせいだけど。

 

 気のせいだよな?

 

「他」

「えぇまだ言わなきゃいけないの?」

「まだ言えることがあるんだな? よし言え」

「OH、またやったわ……」

「下着アドバイザーが嫌なら墓穴工事専門の会社がおすすめだぞ。吐け」

「えぇ……」

 

 しかしここに来て、茜が渋りに渋る。もう全て自白する勢いだったが、これだけは思うところがあるような、言いたくない感じだ。

 えー、だのうーん、だの恥ずかしい、だの。無益な問答が数分続く。

 

 いったいなにを隠してるんだ。警察沙汰になる程?

 

「怒ったり、嫌ったりしない?」

「大丈夫だよ。茜にはこれ以上評価が下がる余地がないから。既に最低だから」

「うっ最低」

「安心して話して。そんで刑務所行こ」

「行かないから! じゃあもう話すよ……」

 

 はぁっと大きなため息でワンテンポ。正直ため息だらけなのはこっちなのだが。

 

「えっとね……下着を使ったわけじゃないんだけど。その……下着をつけたまりーをね、そ、想像して……なんと言うか……にーしてた」

「なんて? もっと大きい声で」

 

 聞こえない。

 

「えぇまりーってそういうプレイ好きなの? 嫌いじゃないけど」

「なに言ってんの? はよ」

 

「うぅ。もうっ! 大人下着のまりーを想像してオナニーしてたの!」

 

「……おなにー?」

「……うん」

 

 おなにー、おなにー……。

 思考中………………合点。

 

「あぁ! 自慰行為ね」

「え?」

「言ってる言葉が分かんなかったわ。合ってるよね」

「合ってますけど……」

「てか自慰行為ってなにすんの? そんなにもったいぶる程なの?」

「ゑ?」

 

 自慰行為。通称オナニー。

 この行為がどのようなものなのかは全く知識がない。知ってるのは名前だけだった。

 

「したことないの?」

「ないよ。そもそもなにするか分かんないんだもん。知る機会無いし、興味も無いし。なによその目」

「いや、そっかー。うん」

 

 知ってる。今の茜の表情は「己の常識の範疇にない物事に驚きつつも理解しようとする。けどもやっぱ疑問しか無いわ」っていう人の表情だ。

 

「私がおかしいの?」

「いや、おかしいっていうか。まぁ経験無い人もいるけど、比率でいったら経験有りのほうが多いよね。しかも経験云々の前に知識も無いのは珍しい? と思う」

 

 まぁ自分が珍しいっていうのは慣れてるから今更思うところはないけど。

 

「へー。なにすんの?」

「それ説明させるの? マジ? 超センシティブ。てかなにも知らないんだったら恥ずかしがる必要もないか……。えーとこれは女性の場合だけど、自分の胸とか乳首とかおま、うーんなんかな、女性器をマッサージするの」

「マッサージ? なんのために。てか女性器触るのって衛生的にどうなの」

「だー細かいことはいいの。マッサージっていうかいじると気持ち良くなるのよ」

 

 んー整体の親戚か?

 

「気持ちよくなる……胸とか女性器は肩みたいに凝ったりしないでしょ」

「違うんだよ。あーじれったい。えーと……」

 

 さっぱり理解できない私に、茜はガリガリと頭を掻いた。

『なんで分かんないのよ』

 ふと脳裏に夕焼けの教室が浮かぶ。

『いやぁ難しいね』

『なにわろてんねん』

 沈みかけただいだい色の陽光で影を映し、苦労して勉強を教える私とまるきり頭に入らない茜。ありし日の何気ない学校生活の一コマだ。

 今目の前の風景はいつもの一コマとは配役が入れ替わっていた。

 

「ふふ」

「ん? まりー」

「いや、面白いなと思って」

 

 苦しめ、苦しめ。教える側も楽じゃないんだぞ。

 私が原因で茜が唸っているのだが、私は悪びれもせずにこの非日常的な配役に珍妙な楽しさを感じて笑ってしまった。私が分からないことを茜が教える、そんな日が来るなんて夢夢思わなかった。

 

 茜とこんな経験、あと何回できるのかな。

 

「もうね、言葉じゃ伝わらん」

 

 散々思案した挙句、私への啓蒙けいもうは諦めたようだ。。

 

「百聞は一見にしかず。オナニーは身体で感じないとダメよ」

 

 私としても説明だけではイメージが浮かばないので、この先は自分で情報収集するしかないだろう。と言っても自慰行為の話は取るに足らない、尋問の寄り道。興味が湧いたかと聞かれれば別に、なので自発的に学ぶかは気分次第。

 

「ふーん。ま気が向いたらね。で話を戻してまた質問になっちゃうんだけど、あんたの自慰行為と下着の私って関係あんの?」

「あーオナニーってのは、多くの場合オカズを必要とするの」

「オカズ……ネーミングセンスよ」

「誰か言い始めたのかは知らないけどね。オカズっていうのはAVだったりエロサイトだったりするんだけど、簡単に言うと興奮するもの。見て聞いて想像して性欲を高めるの。その上で身体をいじる」

「ははーん。つまりあんたは頭の中で私を性的な対象として見ていたんだね。ほんと最低だな」

「ぐうの音も出ません」

 

 アダルトコンテンツの経済の仕組みというのは、なるほど目の前のやつみたいなのが顧客なのか。分かりやすい実例発見。コンテンツにされる側は堪ったものではないが妄想の規制はどうしたって無理だからどうしようもない。

 通りで部屋に入ったとき、私を前にそわそわしてたわけだ。好きな人のシャワー上がり、自分の部屋、親いない、相手は理想の下着、しかも自分が一回着たもの、オナニーのフラッシュバック、キスへの期待、たくさんの要素がかかって興奮してそわそわしていたと。

 

「もうない?」

 

 コクと頷く。

 

「出てくる出てくるって感じだったね」

 

 まぁしかし、今日は茜にお世話になったうえに彼女の心境にダメージを与えまくった手前、小さくなって正座する彼女をこれ以上頑として糾弾きゅうだんするのも心苦しい。私も悪いことしたし、ここは一つ寛大に対応しよう。

 

「反省してる?」

「してる」

「じゃあ今回はお咎めなし」

「いいの⁉︎ 大好きまりー」

「ただし」

 

 喜び立ち上がった茜を手で制す。

 ごくりと生唾を飲むのを見て、私はニヤリと笑った。

 

「右の耳かきをしてもらう」

「喜んで!」

 

 あの至福を左だけ、右はお預けなんて辛抱ならん。

 お腹を見つめるようにして頭を柔らかな太ももに乗せる。

 

「もう、そんなに押し当てなくてもお膝は逃げないよ〜」

「してない!」

 

 恥ずかしくてつい嘘を吐いてしまった。

 耳かきが気持ちいいのは多分この温かいむにむにのおかげもあると思う。

 

「それじゃ始めるよ」

 

 ちょうどいい刺激とカリカリという優しい音、頬の温もり。

 それらに当てられて、まぶたが重くなっていく。

 深海のマリンスノーのように私はゆっくりと眠りの底に沈んでいった。

 茜……。

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