十二月下旬

第1話

「っだああぁっ!」

 

 カバンを机の横に投げだし、叫びと言っても差し支えないため息を吐き出しながら椅子にどっぷりと座り込む。メガネを乱暴に外した左腕はだらしなく重力に従い、右腕は天を仰ぐ顔を覆って光を遮る。

 しばらくそのまま脱力していると階下から姉カップルの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。食器の奏でる音から察するにどうやら今晩の食事の用意をしているようだ。この後あの空間に入り込まねばならないと考えると背筋に悪寒が走る。更に、聞こえてくる音の中に両親の明るい声が混じっているのに気づくと私の神経は激しくささくれ立った。

 

 私、紫水しすい茉莉花まりかは今この上なくイライラしている。


 普段から他人など視界に入れずに生活しているのだが、今日一日、目をどこに向けても入り込んでくるあいつらに鬱陶しさを覚えずにはいられない。今すぐにでも千切っては投げ、千切っては投げてぶちぶちにしてやりたいが、私の白い細腕ではできるはずは無い。多分一人目で折れる。ただ耐えるしかないのだ。

 

 ただ今、私の生活する日本はキリストの降誕祝いの前夜、俗に言うクリスマスイブとやらで舞い上がっている。別に他国の信仰に意を唱えるつもりは毛頭ないし、街中がイルミネーションで鮮やかになる分には幻想的で構わない(電力が足りない、もったいないとのたまっている割には無駄遣い極まりないとは思うが)。小さな子供達がクリスマスプレゼントで喜び、親と抱き合う姿はいくら無愛想な私でも微笑ましい風景だと感じられる。確かではないが私も小さい頃はクリスマスプレゼントをもらってはしゃいでいたのかもしれない。

 

 それに関してはいいのだ。

 問題なのはなぜクリスマスイブでは公衆の面前での破廉恥な行いが一般化しているのか、ということである。学校、道端、駅、レストラン。どっかのどいつが「クリスマスとはイチャイチャする日です!」と言い始めたせいで、当たり前に行われるようになった数々の愚行に私は心底辟易へきえきしているのだった。目の前にタイムマシンがあったら今すぐにでも、くだらないことを提唱したやつを一発ぶん殴りに行くだろう。もちろんその一発で私の腕は機能不全に陥るからまず最初は対話を試みるが。

 

 今日の学校のお昼休み。

 私がいつも通りスマホアプリで英単語を学びながら箸を進めていると、机の間一本挟んだ隣でいつもの騒がしい女子グループ三人がランチバッグを広げ始めた。私はそいつらを横目で睨みながら、イントネーションをしっかり聞き取るためスマホの音量ボタンを連打したのだが、どうしても会話は聞こえてしまう。

 

希美のぞみ、今朝告白されたってマジ?」

「そうなの?」

「え、え⁉︎ なんで知ってんの⁉︎」

「隣のクラスの子が見ちゃったって噂だよ〜」

「で、返事は? OKしたの?」

「してないよ。だ、だってウチ好きな人いるし」

「え〜絶対クリスマスに合わせて告ってきたでしょ」

「その告白したりき君ってイケメンで噂の——」

「何? 俺よりイケメンがいるって?」

「あ、祐介ゆうすけ〜てか、今日のデートさー」

「あんたらほんとラブラブだよね」

 

「うざ。なにがゆぅすけ〜だ。馬鹿丸出しもいい加減にしろよ、あ゛ぁ?」とは言いたくなるのを耐え忍び、口に鍵をかけて過ごした。

 英単語の覚えはすこぶる悪かった。

 

 課外が終わって夜の帰り道。

 少し野暮用があって駅ビルへ。

 駅前のイルミネーションが夜を明るく照らし、ムードを演出していた。きらびやかだなぁ、流石先進国、とゆったり眺めながら歩いているうちは、私の心は確かに静かな水面のようだった。

 そいつらを見るまでは。

 

「キレイね……」

「君のほうが、綺麗だよ……」

「たけしさん……」

「まなみ……」

 

 ちゅ。

 

「チッチッチッチッチッチッ」

 

 歯を食いしばって、ガスコンロの如く舌打を鳴らす。私は競歩の速さでその場をさっさと後にした。

 

 駅前のベンチでやることじゃねぇだろ、気色悪い。ラブホでも行って勝手にやって——

 

 パシャッ!

 

「あ、人入っちゃった〜」

「はぁ? 折角よく撮れたのに。ったく写真撮ってるカップルには気ぃ使えよ」

「ほんと〜」

 

 …………。

 

 自撮り棒を携えたカップルの恨み節に頬を痙攣けいれんさせながら、足早にその場を後にした。

 

「ただいま」と家の扉を開けたついさっき。

 ようやく馬鹿騒ぎの世俗から抜け出せると解放的な気分だったのだが、それは目の前の光景にすぐに裏切られたのだった。

 

「……」

「んぅ……」

「……ねぇ」

 

 玄関廊下で唇を重ね、発情しきった醜悪な姿。不快の権化ごんげ。叫びたくなるくらい気色悪い姉カップルに私は冷たく重く話しかけたのだった。

 キス。

 その行いは私の顔を歪ませるには十分過ぎる効力を持っている。

 

「ん、あ、お帰り、茉莉花」

「お帰り、茉莉花ちゃん」

 

 二人は極めて冷静に身体を離して私に相対した。

 今晩は姉の彼氏の叢雲むらくもさん(下の名前は忘れた。というか覚える気もない)が来て、パーティーをするというのは母から事前に聞いていた。我が家の自家用車の隣には彼が乗ってきたであろう大型バイクが停まっているのも目にしている。姉らの関係は双方の家族ともに大賛成していて、叢雲さんが家に来るのは珍しいことではない。私としても彼がともに食卓に座るということはご馳走が並ぶということを意味するので、メリットしかないと悪い気はしていなかったのだが考えが変わった。

 

 人んちの玄関で勝手によろしくやってんじゃねぇよ。

 

「茉莉花ちゃん、今日はなかなか上等なターキーを持ってきたから、楽しみにしててね」

 

 叢雲さんは胸糞悪い程爽やかな笑顔を私に向けてきた。さっきのことがあったくせに、なにもなかったように接してくるのがなお一層私を煮え立たせる。

 

「そうですか。ありがとうございます」

 

 慇懃いんぎんに礼を口にすると私は足音大きく二階の自室へ向かったのだった。

 

 そして椅子に深く腰掛けた今に至る。

 未だ聞こえる階下からの賑やかな声。そこには異物みたいな私の入り込む余地など無いように思えて、なんだか沈鬱な心境になってしまう。私の家族は皆優しいので、実際にはそんなことはないのだが、今日一日の経験がどうしても卑屈な方向へと思考を促す。

 

 まるで社会全体が私を潰そうとしてるみたい……。

 

 鬱屈うっくつした空気を少しでも消し去ろうと、私はテレビのリモコンに手を伸ばした。受験で問われるだろう社会問題や時事ネタをただ仕入れるだけの媒体となってしまった22インチのテレビ。普段は朝に二十分程ニュースを見るだけだが、今日は珍しくゴールデンタイムに電源を入れる。

 なにか面白いサイエンス的な番組が見たいんだけど。

 

 ピッ。

 俳優『君のことが、好きだよ』

 女優『私もよ……』

 

 ピッ。

 ♬〜雨は夜更け過ぎに♩ 雪へと変わるだろう〜♩

 女芸人『キャ〜、ロマンチック!』 

 

 ピッ。

 ♩〜オールフェーンズ なみだぁ〜♬

 革命の乙女『えぇっ⁉︎』

 ヒューマンデブリ『? 可愛いと思ったから』

 

「ぬんっ!」

 

 トップスピンをかけながら勢いよくぶん投げたリモコンはベッドの柔らかな布団を穿うがった。

 

「はぁぁ〜」

 

 再び静かになった部屋で項垂うなだれる。

 恋愛ドラマやら理想の恋バナやらキスシーンやら。

 

 クリスマスなんだからそれ相応の番組しかやってないのは当たり前ね。こんな日に池の水全部抜くみたいなのを期待した私が馬鹿だったってこと。

 

 些細なことながらも社会と同調できてないと感じてしまう。結局テレビを点ける前よりテンションは斜め下へ。

 

 もういいや。不貞寝ふてねしよ。

 

 睡眠によるストレス解消の有用性は科学的にも証明されている。それに意識を投げ出して、次に目を開いたときにはこの忌まわしき夜も明けているはずだ。そう思って睡眠世界へ旅立とうとリモコンの後を追ったそのとき。

 

「茉莉花〜ご飯できたよ〜」

 

 忘れてた……。

 

 

 

 私には恋愛というのが全くもって理解できない。

 

 これまで誰かに恋心を抱くということもなかったし、そういう関係になりたいと願ったこともない。そして恋人関係になっている人達を時間浪費の極みとして何より嫌厭けんえんしている。

 

 主にネット界隈かいわいでは恋人達をリア充と称し、『リア充撲滅!』をスローガンに様々な場所で言論を繰り広げる反リア充団体が跋扈ばっこしているが自分自身はあの人種とは違うと思っている。彼らは仲の良い異性がいないというおのれの境遇をひがみ、自分とは対照的なリア充を見るとアレルギー反応のように妬んでいるが、その妬みは深層心理に『恋人がいる』ということを至高と捉えているが故である。自分が欲しているものを自分が所持せず、他人が所持している。所謂いわゆる嫉妬である。

 

 馬鹿馬鹿しい。唾棄だきに値する。

 

 対して私は恋人がいることを素晴らしいとは微塵みじんも思っていない。常に相手のご機嫌をとらなければならず、気に食わないことがあればうだうだ、うだうだ。自分の気も休まらず、自由な時間を奪われ、作業能率も低下、金は湯水のように消えていく。

 時間、金、行動、全てにおいて無駄でしかない。一人でいるほうがよっぽど効率的且つ精神衛生に良いとなぜ気がつかないのか。

 

 更に言えば、カップルという存在は周りにも悪影響をばら撒き、パフォーマンスを著しく低下させる。クリスマスの一件が典型的な例であろう。自分自身のみに害を及ぼすならいざ知らず、他人の気分をいたずらに害し、足を引っ張るとは、最早社会におけるガン細胞ではないか。

 やつらのようなガンが滅され、社会の根本から『恋愛至高思想』が消えて無くなりさえすれば人類は更なる発展、効率に富んだストイックな生活、リア充・非リア充戦争の無益な活動の削減などが見込めるだろう。

 

 さて先程のクリスマスの一件に関して私が声を大にして訴えたいのがキスという行為である。

 正直、あの行い程不可解で愚かしいものはないだろう。他人の口と自分の口を接着させることに、いったいなんの意味があるのだろう。愛が伝わるだとか、恋人同士の証だとか、言ってるやつがいるがさっぱり理解できない。私からすれば、ただ性欲に身を任せて相手の唇を貪るその姿は恋人の証ではなく、不快の象徴である。

 ただ、ただ気持ち悪い。

 洋画ではそのようなラブシーンが度々含まれているが見ているだけで気分を害するため大嫌いだ。

 

 それに、発情したサルみたいに、いやサルはそんなことしないだろうからサルに失礼だ。とにかくその馬鹿みたいな行為をしている間には数千万ものミュータンス菌や雑菌が口の中を行き来しているのだ。想像するだけで吐き気を催してしまう。恋人とは相手の寿命を縮め合う関係を言うのか。

 

 とにかくキスは周りへの精神的影響的にも健康的にも決してよくない。恋愛に並ぶ、今すぐにでも消えるべき悪習だ。

 

 無論、私とて恋人が最終的に行き着く場所は知っている。機が熟した男女はつがいとなり、生殖行為の上、自分達のゲノムを分け与えた子を産む。人が動物である以上、生殖行為は本能であり避けられない定めであり、私もそこを否定する気は無い。先進国といっても未だ体外受精など生命誕生のテクノロジーは遠く、身近とは言い難いため、それらは当然の行いと言えるだろう。

 

 しかし私はそこで考える。

 

 生殖行為に至るための、恋愛というプロセスは本当に必要なのだろうか。

 

 一般に知られている通り自然界の動物は求愛行動を行う。孔雀くじゃくはその優美な羽を広げ、キリンは長い首を絡ませて、カワセミは給餌きゅうじで相手を求める。どの求愛行動も生物学的に見て興味深いものだが、これを人間の恋愛と同等とするなら、動物の恋愛はとてもあっさりしているように思える。昨日今日出会った相手に求愛し、事に及んでしまうのだ。その上事後にはさらっと別れる種もいる。

 数年付き合ってやっとこさ成功するか失敗するかの人間とは大違いの理想的な効率性だ。

 

 人類の歴史は長く、クロマニョン人などの私達と同じ新人類が現れてから二十万年が経つと言われているが果たして恋愛はヒトの進化と言えるのだろうか。寧ろ私には退化にしか思えず、仕方がない。一部には生物の本能に抗う非効率性がヒトをヒト足らしめるものだと唱えるやからもいるが、まぁ、その辺は私の知るところではない。人間の定義など興味の欠片もないのだ。どこぞの大学の有智高才うちこうさいにでも任せておけばいい。 

 

 要するになにが言いたいのかというと、この紫水茉莉花は恋愛に興ずる人、ひいては恋愛そのものを、あまりの愚かさから、そして不快感により決して受け入れられないということだ。

 自分が世間一般から見て異質な存在であることは理解しているが、おそらく一生このまま考えが変わることはないと思っている。変える努力もしない。ともすれば、私にできることは不快な光景から目を背け、我関せず、己の道を歩み続けるだけ。

 弱冠十七歳にして私は既にこれからの生き方を定めていたのだ。

 

 だから自分自身がそちら側に足を踏み入れることなどあるはずないと思っていた。

 その日までは。

 

「まりー。私と……付き合ってください!」

 

 真っ暗な中、ここだけ明るい午後七時の教室、小榑こぐれあかねはその身に秘めた想いを鳳仙花ほうせんかのように弾け飛ばした。

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