キスってよくない
トッチー
プロローグ
カチ、カチ、カチ。
機械的にそして虚しく時を刻む音だけが鳴る。太陽が出ているにもかかわらずカーテンはぴっちりときつく閉ざされたままで部屋は暗い。日々の喧騒から隔離されたこの空間はまるで深海のようだ。
「……」
規則正しい時間の足音。重い首を持ち上げてその発生源を見ると、二本の針は仲良くちょうど真上を指していた。私がベッドに倒れたのは確か午前九時、つまり私は横になって、なにもしないまま一万四千四百歩分の足音を聞いていることになる。それを瞬時に計算して理解できる程には、
しかし働く頭脳とは反対に体はベッドに縫い付けられて一向に動かない。別にやることが無いわけではない。学校から課された宿題、趣味の料理、新学年への準備、目の前に畳まれた布団の片づけ。やるべきこと、やりたいことは山のようにこんもりと積み上がっていてこんなことをしている場合ではないのだ。
いや、正確にいえば今の私が本当にしなければならないことはたった一つなのかもしれない。だが、その選択肢はとうに切り捨てていた。
カチ、カチ、カチ。
朝に別れた彼女の姿が目に浮かぶ。私と再び親友になった彼女は最後もいつも通りの底抜けに明るい笑顔を
どうしてあんな笑顔を向けられるんだろう。
私は少しも口角を上げなかったのに。
私は少しも目を合わせなかったのに。
私は少しも手を握らなかったのに。
——手紙待ってるからね! てか私から送るか!——
どうして?
そんなの答えは明白だ。
彼女は私のことが好きだから。
しかし彼女は自分の本当の願いを諦めた。
その理由もきっと同じ。
彼女は私のことが好きだから。
あんなにも傷つけられたのに、加害者である私をまだ好いてくれてる。本当におかしなやつだと思う。
カチ、カチ、カチ。
昔からあんな感じだよな。
記憶を遡りながら、布団をぎゅっと握った。
運動会の二人三脚で、私が転んだせいで負けたのにずっと怪我の心配をしてくれた。腫れ物扱いの私の側にいれば仲間外れは目に見えてるのに、ずっと一緒にいてくれた。心ない言葉のナイフで刺してしまったのに、最後には私を許して慈しんでくれたのはついこの前だ。過去の優しさを思い出せば思い出す程苦しい罪悪感が身を侵す。
涙がつっと流れて枕に染み込んでいき、布団を握る手が少し強くなる。
私の思考は次の疑問に移った。
どうして彼女は私を好きなのだろう。
残念ながらこの問いに関する私自身の回答は持ち合わせていない。長らく学んできた数学や理科とは違い、人間の行動に対する普遍的な答えは存在しないからだ。しかし彼女の答えを引用してよいというなら、私の最終的な結論はこうだろう。
好きになるのに理由なんて無い。
以前の私なら馬鹿馬鹿しいと取り合わずに一蹴してしまう答えだが、今現在の私はこれを肯定せずにはいられない。なぜならこの非論理的考えは、いつのまにか彼女を好きになってしまった私自身にも当てはまるからだ。というか、この考えだけしか私の胸中を安定させてくれない。
私の中には彼女への好意の理由を模索しようとする思考の歯車が幾重にも噛み合っている。しかし、ここ最近ずっと駆動音を鳴らすこの回路は一向に正しい回答を導き出せないポンコツらしい。そのくせして脳のメモリや円滑な思考に要する糖分を延々と食いやがるので、私はこいつにいい加減見切りをつけて、機能停止に追いやる必要がある。そのために彼女からの受け売りの答えを用意してやって止めなければならないのだ。
あんなにも忌み嫌っていた恋愛が今や自分の行動の中心となってしまった。私も随分と落ちたものだ。
彼女を好きって自覚してるのに、どうして頷かなかったの?
脳内に直接響くような自問が今一番脆い部分を集中的に突き刺してきた。
「だって……」
カチ、カチ、カチ。
無意識に声を漏らしながら答えを出す。
だって、私は私でいたいから。
常日頃
だって彼女の愛は大き過ぎるから。
きっと私が抱いているこの恋心では決して天秤は水平にならない。私は大きく傾いた天秤をずっと彼女に重ね合わせながら生きていくことになる。そんなことできっこない。自責の念に
だから、これでいいんだ。
それに恋愛の『れ』の字に足を踏み入れたばかりの私には遠距離恋愛なんて難易度が高過ぎる。ここでキッパリ線引きしたほうが彼女にとっても憂いなく新天地で活躍できるだろう。将来は日本を代表するかもしれないのだから私のことに時間を割くよりも、自分のために使うべきだ。それに加え、私もいつも通り勉強できて、これからの大学入試に集中して臨める。
もう夜遅くまで携帯で駄弁ることもない。
わざわざ休みの週末に出かけることもない。
放課後の教室で二人っきりで残ることもない。
たくさんの個人の時間が持てる。お互いに良いことだらけではないか。
理想的だね。完璧だ。
脳が完全無欠で合理的な理由を弾き出すと同時に、目からは涙が流れた。
これ以上枕を濡らすのはマズイと思い右手を目元へ動かす。すると期せずして親指が唇に触れてしまった。
「あ……」
カチ、カチ、カチ。
昨晩の温もりの
「……」
彼女がただ遠い地へ行ってしまうことに、こんなにも心がざわつくのは、こんなに悲しいのは彼女と交わしたキスがあるからなのだろうか。
逆にキスさえしなければ、私は彼女を笑顔で送れたのだろうか。
ただ触れただけなのに異常なまでに私を狂わせて、悲しみで押し潰す。
こんな思いをしなきゃならないなんて。
やっぱり。
キスってよくない
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