第二章 凪と陸、そして湊 ~残酷な告知~
高校の入学式から一か月ほどたった、五月の事だった。いつものようにスマホが起床時間を凪に告げる。目を覚ますと、世界が変だった。部屋の中が見えにくい。カーテンを開けると陽射しが射し込む。目がチカチカとした。凪は手のひらでそっと左目を隠してみた。こっちはなんか変だけど見える。問題は左だった。恐る恐る右目を隠すと、全体的に白っぽく、靄がかかってように見えた。
――変なのは世界じゃなくて私の目だ
凪は飛び起きた。薬箱を開けて目薬を探していると、父親の祐介がキッチンから顔を出した。
「何探してるん? 妊娠したんか?」と祐介が『おはよう』とでも言うような、のんびりとした口調で聞いた。
「違うわ。まだうちら、そんなことしてない。目薬、探しているんや。良く見えんの」
「目? おかしんか? 眼医者まで送ったるから、朝ご飯食べて待っとき」と父は妊娠よりこっちの方が大ごとだとばかりに、慌てた口調になった。
一週間後、凪は街の眼医者から紹介された大学病院で精密検査を受けていた。
「
「荒海凪さん。暗いところで物が見えにくくなるような事を、今まで感じたことはありますか?」
「確かに小学校ぐらいから、夕方とかになると見えにくいなと感じることありました。でも、夜になると普通に見えるので、気のせいかと思っていました」
「夜は電灯等が点いていて、結構明るいですからね。それで見えにくさが軽減されていたののですね。でも多分、その頃から発症していたと思います」
「病気は治るのですよね?」と祐介は椅子から腰を浮かせた。
「残念ながら、網膜色素変性症は難病指定されています。今の医学での完治は難しいです」
「完治は難しい? 良くはなると言うことですよね?」
「申し上げにくいのですが、この病気は進行性です。どのように進むかは、個人によって違います」
「進行性? つまりその……失明のリスクは?」と祐介は凪に配慮して小声になる。
「医学的失明、つまり完全に光を感じなくなることはまずありません。しかし
「進行を遅らせる薬はないのですか?」
「現時点では、ビタミン剤と目薬で対処していただくこととなります。太陽の光はできるだけ避けてください。外出時にはサングラスや帽子の着用をお勧めいたします」
「ビタミン剤? これだけ医学が発展しているのに、薬はビタミン剤しかないのですか?」
「この病気の進行は比較的ゆるやかです。しかし、凪さんはすでに左目が大分進行しており、右目にも狭窄症が出始めています」
「左目に支障が出始めたら、もっと早く気が付きませんか?」
「目は二つありますから、一つに問題が出ても、もう一つがそれを補正して補って脳に伝えてしまうという性質があります。だから片目だけだとあまり気が付かず、もう一つに支障が出って初めて気付く患者さんも多いのです」
「そんな……」
「歩行に支障が出る前に、点字や白状の使用方法を覚える事をお勧めします」と医師はきっぱりとそう断言した。
その日から凪の世界は変わった。公立高校では、白杖や点字を教える事が出来ないという理由で、特別支援盲学校へ転入を勧められた。一か月ぐらい迷っていたと思う。今まで友達と思っていた人たちは、凪に話しかけ、病状を聞いて同情の言葉をかけて来た。しかし、その裏には好奇心が透けて見えた。
陸だけが、何も聞かずに凪の傍にいてくれた。
比較的ゆっくり進む病気と医師は説明したが、凪の右目の視野は徐々に欠けて行き、一学期の修了を待たずに盲学校へと転校した。
――進行状況は、人によるのです
という、医者の残念そうな言葉と、ザアーと降り出した雨の音が凪の中に残った。
陸に変化が現れたのは、その頃からだ。盲学校の登下校に毎日、最寄り駅まで陸は凪に付き添うようになった。買い物に出る時も、必ず連絡をしろと煩く言う。二人で勉強していても、点字の本を読んでいる凪を、陸は宿題の手を止めてじっと見ている事が多くなった。
凪はまだ見える右目の真ん中で、陸を見返した。陸の顔は少しも楽しそうではなかった。
「陸、最近ゲームしてるん?」と凪は聞いた。
「あんまりしてないなぁ」
「サッカー部、どうしてるん?」
「部活の先生と俺、合わんからやめた」
「どうしてなん? 私の……」と言いかけた凪の唇に、陸の唇が重なった。
「凪のせいやない。なんも心配せんでええ。俺が凪の目になっちゃる」
凪は自分の身体の上に陸の重みと、体温が伝わってくるのを感じた。陸の手に力が入る。
耳元で、「しよ」と囁くような声が聞こえた。
「陸の顔が見たい」
凪は陸の頬に手を当てた。陸は辛そうに見えた。
「嫌や。初めてなのに、何でそんな辛そうな顔してしなあかんの?」
「ごめん」と陸は身体を離して、「せやな。凪が正しい」と壁に寄り掛かった。
――陸は自分を犠牲にして、私と一緒にいようとしてる
――私は陸にずっとあんな顔をさせといてええの?
――私だって陸としたいよ
――そやけど陸は優しいから、しちゃったら、今以上に責任を感じるようになるかもしれん
――そんなの、絶対嫌や
そんな陸の様子から、悲しんで落ち込んでいるのは自分だけではないと気付く。
それは凪に少しずつ病気に立ち向かう勇気を与えていった。
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